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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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2016戦争展で善方先生の紙芝居「さくら」上演
毎年浦和のコルソで開催されている「平和のための埼玉戦争展」
薄れゆく戦争の記憶を忘れないために、戦争や核の危険性を訴えるために
夏に開催されています。

毎年平和の大切さを主題にした紙芝居が上演されています。
善方先生の紙芝居「さくら」は一番最後に上演されました。
語り手の若い男性がとっても上手で素晴らしかったです。
先生は敗戦の年の概略を書いた手書きの資料を作ってきてくださいました。
「戦争で犠牲になるのは子どもや弱者たち。
 誰が犠牲になるのか、誰が得をするのか、よく見極めなければならない。
 国のために死ぬという子供を決してつくってはならない」と、お話しされました。
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昭和 | 01:58:06 | Comments(0)
5/28(土)登戸研究所見学
近現代史講座のメンバーと、そのお友達など13名で登戸研究所見学に行ってきました。

10:30に小田急線生田駅で集合し、ボランティアガイドのお二人と合流。
明治大学生田キャンパスに向かいます。

戦時中も、戦後も国家機密として隠され続けてきた登戸研究所。
昭和13年に設置され、密かに電波兵器や毒ガスなどの化学兵器の開発が行われました。
歴史の闇に消えていた登戸研究所は、法政二高の渡辺賢二先生やその生徒たち、登戸研究所が疎開した長野県駒ケ根市の高校生たちの粘り強い取り組みによって、口を閉ざしていた当時の関係者からお話を聞くことにより、その存在が明らかになってゆきました。
「市民・川崎市・明治大学」がともに戦争の負の遺産を残し、後世に語り継いでゆかねばならないと努力した結果、明治大学の敷地の中に登戸研究所資料館が作られました。
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弥心神社。
ここに、昔勤務していた方たちの登研会の建立した碑があります。
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動物慰霊碑。
陸軍のマークのついた水栓。
page3.jpg
2010年に開館した登戸研究所資料館。
極秘であった中国で使われた偽造紙幣の研究や、風船爆弾の展示もあります。
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=参加者のアンケート= (Tさんがまとめてくださいました)

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その他 | 03:10:22 | Comments(0)
定期講座はしばらくお休みします
先生のご都合で、しばらく休講いたします。

再開時にはまたお知らせします。



講座の予定 | 22:51:04 | Comments(2)
「憲法九条にノーベル平和賞を」署名を提出しました
4月の講座の時に出た「第9条を保持している日本国民にノーベル平和賞を」の署名を集めましょうというという提案に皆さん賛成されて近現代史講座で6月末まで署名を集めました。

「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会

憲法九条にノーベル賞を

安倍政権が憲法解釈の変更で戦争を出来る国にしようとしている今、それぞれが周りの皆さんにお声掛けして、埼玉以外でも東京、栃木、大阪、静岡方面からもたくさんいただき606筆集まり郵送いたしました。
ご協力くださった皆さまありがとうございました。


昭和 | 10:10:06 | Comments(0)
1945年の日本の様子
5/25
 講座のあと、お昼を食べて残った人たちで
 大飯原発の判決文を読みました。先生も「素晴らしいですね」

   004_20140601015152769.jpg

  ~抜粋~
 このコストの問題に関連して、国富の流出や喪失の議論があるが、
 たとえ本件原発の運転停止によって、
 多額の貿易赤字が出るとしても、
 これを国富の流出や喪失というべきではなく、
 豊かな国土と、そこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、
 これを取り戻すことができなくなることが、
 国富の喪失であると、当裁判所は考えている。

 


◆「100問100答 日本の歴史〈6〉現代」で学ぶ

この本のシリーズは原始・古代、中世、近世、近代と出ていて
それぞれの年代で詳しく下記のトピックが表になっています。
・衣食住 ・家計 健康 教育 ・文化 レジャー ・社会 交通 一般
敗戦の年の年表を資料として先生が大事なもの、面白いものを
取り上げて紹介して下さいました。
まるでその当時の社会の様子を覗いているようです。
100問100答 日本の歴史〈6〉現代100問100答 日本の歴史〈6〉現代
(1995/07)
歴史教育者協議会

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昭和 | 01:58:47 | Comments(0)
1945年、敗戦までの経緯
4/27
    
   4月27日ヤルタ会談の説明

  私は「終戦」という用語は不当な用語だと思います。
  「終戦」という用語には天皇の決断により不当な戦争が
  終わりを告げたの意味が含まれており、
  そこには開戦を命じた天皇の責任をあえて問わない意味が
  含まれており使用すべき用語でなく
  「敗戦・降伏」と明言すべきだと思います。
 


◆重臣たちの目指した「終戦」

〇44.5.17
米内光政「皇室の擁護が出来さえすればよい。本土だけになっても我慢しなければならぬ」

〇44.7.18近衛文麿の重臣会議での発言
〇45.2.14近衛文麿の上奏文
軍部内の共産主義者のために「大東亜戦争」がひきおこされたという前提に立ち、敗戦よりも恐るべきは革命であって「国体護持」のために一日も早く戦争を終結せねばならむと説いている。

〇45.6.22(初めて公の機関で正式に問題とされる)
御前会議で近衛文麿は、ソ連に特派して終戦の斡旋を依頼しようと企てた。
ソ連は既に対日参戦を約束していたので、時すでに遅かった。

重臣たちは「国体護持=天皇制支配機構」を温存のために、混乱の発生に先立って戦争を終結さようとし、降伏は国民を戦災から救うためになされなかった。

結局、原爆投下とソ連の開戦というダブルショックが8月10日、14日の二回にわたる御前会議において鈴木首相、米内海相、東郷外相らの幸福論を支持した天皇の聖断によるポツダム宣言受諾の決定を導いた。

御前会議では事前に天皇に内容が知らされているので、天皇の意向をくんだ内容。
天皇は何も発言しない。

◆ソ連の参戦

〇45.4.5 ソ連は日ソ中立条約の有効期間が過ぎれば不延長を通告
 1941年4月にモスクワで調印し、日本軍は満州の北の心配解消
 日ソ中立条約 - Wikipedia

〇45.6.22 日本がソ連に終戦の斡旋を頼もうとしてたのは何故か
 日ソ中立条約の期限内であった
 ソ連は世界の強国であり、共産主義国であったので他に頼る国がなかった

〇45.8.8 広島に原爆投下の二日後、ソ連が参戦し満州に攻めてくる
 関東軍はいちはやく撤退し満蒙開拓団の人たちは軍隊に守られず悲惨
 多くの残留孤児が生まれた

◆ヤルタ会談

ヤルタ会談 - Wikipedia
ヤルタ会談は、1945年2月4日~11日にクリミア半島のヤルタ近郊で行われたアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談。

第二次世界大戦が佳境に入る中、ソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなった(ヤルタ体制)。

「ヤルタ(クリミア半島)69年前の教訓」朝日新聞2014年4月1日
(クリックで大きくなります)
朝日ヤルタ会談記事

〇ソ連は日ソ中立条約を破棄し連合国と結んで秘密協定を結んだ
日本の領土であった千島列島と日露戦争で獲得した樺太の南半分をソ連の領土に
ドイツが降伏した後、に三カ月後にソ連が日本に宣戦布告する
    
◆ポツダム宣言

ポツダム宣言 - Wikipedia
ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英語: The Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言。

他の枢軸国が降伏した後も抗戦を続けていた日本はこの宣言を受諾し、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)は終結した。

ソビエト連邦(ソ連)は後から加わり追認した。宣言を発した各国の名をとって、「米英支三国共同宣言」ともいう。

〇日本と長い間戦争していた中国の同意を得た。

〇ソ連は6日間の参戦で戦勝国の仲間入りし大きな利益を得た。
 米英も日本の降伏を早めるためにソ連の参戦が必要と考えていた。

〇戦勝国が日本に求めたもの
・日本の領土は本州、北海道、九州、四国と周辺の島々
・日本を非武装国家にする
・戦争犯罪人の処罰
 ※米国世論は天皇の処罰を望んだがマッカーサーは安く占領するため
   天皇の利用を考えて処罰しなかった
・自力での経済復興のためにアメリカは賠償を要求しなかった
 ※アメリカは日本の経済が立ち直れなくなるとソ連の影響を危惧した

〇45.8.14 スイスを通じて日本は通告を受諾

◆敗戦後

〇45.8.14 夜
あくまで抗戦を主張する軍隊の一部が宮城内で反乱を起こし「玉音放送」の妨害を企てたり、鈴木首相らを殺害しようとしたり、厚木その他の航空隊が抗戦ビラを撒いたり、不穏な動きも生じた。

宮城内の氾濫計画に対し、陸軍大臣阿南惟幾が一時これを容認する態度を示したばかりでなく、その防止のためになんらの措置も講じなかった。
(「終戦史録」下巻・参謀本部「敗戦の記録」資料)
阿南は氾濫の予備陰謀に参加した罪、少なくとも氾濫防止の義務を故意に尽くさなかった不作為の罪を犯した責任は免れない。
阿南惟幾 - Wikipedia -

〇45.8.15
「玉音放送」が行われ、国民の多数派はじめて戦争が敗戦となって終わりを告げたことを知った。

「敗戦」により降伏したが、「終戦」という言葉に置き換えたので
天皇のおかげで戦争が終わったという世論が作り上げられていった。




昭和 | 07:34:10 | Comments(0)
明治政府による新しい神道の国教化
2/23
    
 日本には近代という時代がなかったと思います。
  2014/2/23コムナーレ
 明治維新は士農工商の身分制度の解体で終わってしまった。
 討幕派の革新的な下級武士が全てを新しくするという建前で
 政治を変革しただけで、政治革命ではなかった。
 西欧諸国では市民革命によって国民主権になり近代に入って行ったが
 日本の歴史には近代がなかったのです。

 1946.11 憲法誕生。日本の近代及び現代の始まり。
 


〇●〇世界の市民革命が近代の始まり〇●〇

ヨーロッパでは産業革命によって生まれた産業資本家が自らの手で製造し販売し、王ではなく自分たちが主権者であると意識し17世紀絶対主義の国から民主主義の国へと変革する。

〇イギリスのピューリタン革命(1642-49)
 勤労と親交を結び付けていた人たち。産業資本家層から清教徒が生まれる。

〇アメリカの独立革命(1775-83)

〇フランス革命(1789-99)

※主権者が「王 → 国民」となるのが近代の始まり


■ 明治政府による新しい神道の国教化

●伊勢神宮の参拝の歴史

・672年壬申の乱の時から伊勢神宮は天皇家にとって大切な神社になる
 671年に天智天皇が亡くなり、翌年内乱起こり、
 弟の天武は伊勢神宮に参拝し勝利
 壬申の乱 - Wikipedia

・江戸時代は無銭旅行としてのお伊勢参りが庶民の娯楽
 当時は農業の豊作を祈願し外宮にお参り

  内宮=天照大御神(あまてらすおおみかみ)
  外宮=豊受大御神(とようけおおみかみ)

・1869年 17歳の明治天皇が初めて伊勢神宮へお参りする

・明治以降、小学校の卒業旅行が伊勢神宮の参拝になった
(善方先生も車中泊で行った)


●神仏習合から神仏分離へ

・8世紀仏教が伝わってくると神道と融合し調和してゆく

・明治のはじめに神仏習合を否定する動き
  ↓
 1868 神仏分離令(明治元年3月)

・本居宣長と平田篤胤が神道の国教化をすすめた

・1870(M3) 大教宣布の詔 大教宣布 - Wikipedia
 (天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とする)
 当時天皇は18歳で時の政府の官僚が作った

・神社は国家の宗祀(そうし=宗教機関)となる

廃仏毀釈 - Wikipedia


●1871年に神社の社格を定めた

近代社格制度 - Wikipedia

・伊勢神宮は別格

①官幣社 → 天皇と皇族を祀る神社

②別格官幣社 → 国家に功績を挙げた忠臣を祭神として祀る神社

③国幣社 

④府県郡村社 

⑤無格社

※国家神道では古い神道の歴史にはない実在の人物を祀る


●対立を避けるためのスローガンが「祭政一致」

・明治時代に太政官と神祇官が復興し、
 神祇官は太政官から独立し行政機関の筆頭に

 神祇官 - Wikipedia  太政官 - Wikipedia

・天皇は天照大神の子孫であるため日本の国土を支配する権限を持つ


●靖国神社

・御霊信仰として軍が管理する軍の宗教施設

靖国神社 - Wikipedia




明治 | 04:58:46 | Comments(0)
何故明治天皇は弘文天皇を皇統譜に付け足したのか
1/27
  
  004_20140224212251703.jpg
 教科書にある教育勅語の意味がわからなくて、先生に聞いたんですね。
 私が聞いたら先生は
 「これは神様の言葉だから、人間はわからなくていい」
 と言われたんです。
 神様の言葉だから絶対的に服従する、ということで 
 僕たちは教育勅語の中身を学んでないんです。

  009_20140221001009a6c.jpg



■ 天皇家による支配の合理化

7世紀まで日本の支配は天皇によるものだという認識はなかった。
8世紀の始めに天皇家が日本を支配することを正当化した史書
「古事記」712年、「日本書紀」720年、作られる。

・古事記 = 神の世の歴史
・日本書紀 = 人の世の歴史

★8世紀初頭の歴史書編纂年表
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★明治天皇が命じて書き換えられた皇統譜

38代の天智天皇、39代天武天皇の間に天智天皇の長男の弘文天皇を39代として入れた。
万世一系の天皇家として天智天皇の長男が入れられたが、母親の身分が低く立太子の式をあげていない。

壬申の乱で弘文天皇(大友皇子)に対して反旗を翻した伯父の天武が天皇になり、大友皇子は自殺する。
弘文天皇を入れることにより、壬申の乱はなかったことにした。

壬申の乱 - Wikipedia


■ 伊勢神宮と天皇家

古墳時代の5世紀に伊勢神宮が出来た。
伊勢神宮は当初は太陽神が天皇家の守り神として伊勢神宮に祀られた。
本来ならば太陽神信仰であった。

内宮は天照大神を、下宮は穀物神の天照の息子を祀っている。

江戸時代の一般大衆の伊勢神宮参りは農業神の下宮に参拝していた。

伊勢神宮だけが大御神でなく、出雲地方では大国主命が、茨城県では鹿島神宮の神様が大御神で、各地に伊勢神宮と同じような農業神信仰の対象があったが、明治以降は大御神は伊勢神宮だけとされた。

明治政府の教育で江戸時代の下宮人気は天皇家の祖先への人気とすり替えられ、天皇が日本国の主人公で、人間の姿をした神様であるということを盛んに教え込まれた。

伊勢神宮 - Wikipedia


■ 明治維新は近代か

1867年12月に王政復古で新政府が出来る。
幕府や摂関政治を無くして、初代の神武天皇に戻る。
天皇が全ての政治を行うということ。

・維新の維=天皇制で天皇が政治を行う
・維新の新=万民のための新しい世の中

★明治新政府は王政復古(諸事神武創業の昔へ復帰)が目標であった

★ヨーロッパの歴史では近代の始まりは市民革命によって国民が主権者になってから

★近代とは主権在民になってからなので、日本は敗戦まで近世だった

★1946年11月、現憲法が生まれ主権在民の国家になった


■ 明治維新以後の国づくりは何を原点としたか

・「皇国」復活

・士農工商が解体したが、市民でなく天皇が主権者となった

・支配体制を作るため天皇を現人神にした

・官僚が後ろ盾として天皇の権威を利用




 =これからの予定=

  1月~6月 9月~11月 毎月最終日曜日 10時から コムナーレにて


その他 | 02:49:40 | Comments(1)
日本に伝わる二つの神話 
11/24
  
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 =これからの予定=

  1月~6月 9月~11月 毎月最終日曜日 10時から コムナーレにて



日本に伝わる二つの神話 その1

■日本には二つの系統の神話があった

〇タカミムスミ系…民間から生まれ育った
 高皇室産霊尊(タカミムスビノミコト)
 皇室の守護神 稲霊信仰・新嘗祭
 奈良葛城・高天彦(たかまひこ)神社
 「書記」本文、第四、第六の一書
 非常に簡潔で内容も素朴
 
〇アマテラス系
 天孫降臨
 「古事記」第一、第二の一書
 種々の要素が不可、挿入されて複雑で内容にも政治的潤色が濃厚

   ↓
 タカミムスミ系の方が古い
 古代王権力と結びつくアマテラス神話


■アマテラス神話の特徴

1.降臨の指令神がタカミムスヒではなくアマテラスであること

2.最初からホノニニギに降臨が命ぜられるのでなく
 初めにアマテラスの子、オシホミミが命じられ
 後から急遽ホノニニギにへんこうされること

3.三種の神器・五部神(いつとものおのがみ)・神勅など
 タカムスヒ系にない要素があること

4.サルタヒコの神話が挿入されていること

   ↓
 アマテラス系は全て伊勢神宮に関係している(松前健氏 説)


■アマテラス神話のPR

 奈良時代、律令国家が成立し、当時の官僚たちが天皇が神であることを
 PRしてゆき、敗戦時まで続く

 昭和時代には唯一の神話として教えられた



昭和 | 23:49:34 | Comments(0)
神道と国家神道
10/27

 =近代史を学ぼうと思った戦争中の出来事=

  003_201311240118304d4.jpg

引っ越す前の学校の仲の良かった石原という友人がいたのですけれど、彼は学校の動員先の福生の工場で亡くなったんです。そのお葬式に休暇をもらって行ったんですけど、当時、今でも忘れられないのは、仲間がみんな枯れ枝とか材木の切れ端を探してくるんです。そうしないと火葬してくれないんです。燃料がないから。みんなが近くの雑木林などに行って集めてきて、友人を焼いたんです。
家へ帰らず枯れ枝を探したのをいまでも覚えています。
当時学校には配属将校がいて「石原は名誉の戦士をした。靖国神社に祀られる」と言いました。
それを聞いた時僕はうらやましかったんですね。「石原は靖国神社に祀られる。おれは死んだらどうなるのだろう」靖国神社に祀られることは名誉ですからね。だから変な話ですけど石原の死が羨ましかったんです。でも戦争が終わったあとご両親に聞いたら靖国に祀られてないんです。配属将校がそう言ってみんなに言ったんです「お前たちは安心して死ね」と。そういう教育が敗戦間際まであったんですね。
遺骨をお母さんが抱えて帰るんですけど、その時にお母さんがむせび泣くんですけど、父親が下を向いている母親に向いて「涙を見せてはいけない」と言ってるんですね。お父さんがぼくたちに向かって「正吉はお国のために戦っ手死んだ。その名誉を守って行きたい」とおっしゃったけれど、石原の亡くなった原因は栄養失調だったんです。それが名誉の死として褒め称えられて、配属将校が「靖国に祀られている」と言われて、本当に僕は羨ましいと思いました。そんな時代が敗戦間際の1945年の6月頃ですね、ごく自然な現状でしたね。
・・・・・中略・・・・、
何にも本当のことを知らされないし、極端な事を言うと戦争が終わった時に「騙された」という気がしました。
騙されたのは自分が悪いのですけど、誰が騙したのかという時に、騙されないために何をすればいいか、自分に言い聞かせた時に、近現代史を学ぶことに、そして大学に入って近代史の勉強を始めたんです。



神道と国家神道

お宮参りなど身近な神道と、明治維新に出来た国家神道は別もの。
日本固有の神道信仰は奈良時代から。仏教が融合調和。

明治維新に国家権力によって短期間に強制的に作られた国家神道。
明治維新は薩長の革新的な下級武士によって起された。
百時御一新。
様々な支配体制が変わって行ったが政治変革は主権者が将軍から天皇に変わっただけ。
国土支配を正当化するために神武創業の復古宣言。
明治維新は復古維新であって、本当の主権者が国民になったのは1945年の敗戦の年。
日本には近世がなく、いきなり現代に移行。



昭和 | 01:36:07 | Comments(0)
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