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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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昭和初期の暮らし、女性たちの暮らし その2
5/22 6/12

   大正デモクラシーの理念とは『人格の陶冶(とうや)
   (陶冶とは人の性質や能力を円満に育て上げること。育成。)
   そのためには学ぶことが必要ではないか。

   5月22日



昭和4年5年6年あたりで、日本が不況に陥って行った。
昭和恐慌の中で女性たちはどのように生きていたか。

■ 昭和恐慌と女性

・1930(S5)世界恐慌が日本に波及

生糸・米の価格の暴落を引き金に主要商品・農産物・株価が下落し、1927(S2)の金融恐慌以来の不況は一段と深刻に

都市、農村の別なく女や子どもまでも上と失業に追い込んだ

・一番の打撃は製糸・紡績の女工たち

1929(S4)末、製糸業は一斉に休業に入り80%の工場で賃金不払いがおこり、1930年の一年間で46,000人の紡績女工が解雇されたり、一時帰休を強要されたりした

・首切りを免れた女工に合理化と労働強化

製糸業はこれまで以上に優秀な製品を作ることで輸出を維持しようとセリプレーン検査という製品検査法が採用され、女工たちは2秒間、目を離しただけでも製品に村が出て影響するという労働強化を強いられた

紡績業では恐慌直前に多年の要求であった深夜業が廃止され、女工の労働時間はこれまでの12時間から二交代で18時間(一人9時間)に短縮された
経営者はこれによって生ずる損失に備えて新しい機械を導入、これによって女工一人あたりの受け持ち錘(すい・紡績機械の付属品)の数は以前に比べて二倍になり、織布部門では一人あたりの出来高は三倍にも達した

労働時間の短縮は労働条件の改善を意味するのでなく、新しい機械の導入で逆に労働強化を招いた

・堺の朝鮮人女工たち

岸和田紡績では朝鮮人女工が賃金切り下げ撤回の他に、昼食、夕食時に30分の休憩、寝具は夏、冬の二通りに、冬は火鉢を、という最低の生活の要求をし争議に入った

経営者は日本人と朝鮮人を、賃金・食事で多少の格差をつけることで日本人女工との離反を計ってきたので二者の連帯は実現しなかった

経営者は警察・暴力団と組んで実力行使で弾圧
警察は朝鮮人女工をとらえると『口には言えないほど』の拷問を加えた

労働者を支援するはずの組織(日本労働組合全国協議会、日本労働組合同盟、総同盟)の不統一や一部極左的闘争などが犠牲を大きくすることもあって、戦いは労働者側の敗北に終わった


■ 人間らしく生きたい~成長する労働者~

・人間としての当然の要求を踏みにじられ、結果的に敗北した女工たちには、それまでにない成長がみられた

・「女工」と呼ばれる鐘紡の女子労働者は、争議の報告集会で「社長さん、私たちもあなたの娘と同じように女学校へやってください」と皮肉をこめて、その家族主義に抗議した
(鈴木祐子「運動にかけた女たち)

・岸和田紡績の朝鮮人労働者は「日本人だの朝鮮人だのと国は違っても資本家に苦しめられているのは一つ」と叫び、帰郷を説得する父親に「新しい理論で対抗」するまでに成長していった
(金賛汀「朝鮮人女工のうた」)

・織本(帯刀)貞代は、このころ東京亀戸で「労働女塾」を開き、東洋モスリンの労働者に裁縫、料理のかたわら、社会科学の初歩を教え、その闘争を励ましていた

労働女塾


・織本の回想
「料理や裁縫を学ぶ時には『間に合わせでない人間のすることをきちんと学びたい』という意欲に燃えていた。そしてそうした人間らしく生きたいと言う意欲が厳しい闘争のエネルギーとなっていった。
それは深夜業廃止によって女工たちが、とにかく真夜中まで働くことから解放されたことによる」

深夜業廃止が一層の労働強化を引き起こしたとしても、真夜中まで働くという非人間的生活から一歩進んで料理や裁縫や社会科学のささやかな時間を勝ち得たことが、彼女たちに「人間らしく生きたい」という意欲を目覚めさせ、それがよりよい労働条件を勝ち得ようとする戦いも立ち上がらせていった。


<参照・引用文献>
「女の昭和史」永原和子・米田佐代子(有斐閣選書)



■ 昭和4年~7年

★1929(S4)

1.   寿屋ビールを発売

1.15 日雇い労働者、冬場の失業救済のため横浜でデモ

4.   東京府立第六高女など夜間女学校設立し夜間女学校増える

4.   東京文理大(筑波大)男女共学の入学許可する

4.15 鉄道の外房と内房が繋がり一周できるようになる。

5.9  トーキー映画が始まる。新宿武蔵野。

     この頃の流行歌「東京行進曲」

7.   東京で共働きの増加で託児所増設要望高まる

9.   東京小学校女教員修養会、洋装化を決定

9.   長雨で失業者が続出し給食費払えず欠食児童増え
     東京市が食券を配給

9.12 浜口首相、婦人団体代表者を官邸に招き、
     消費節約・勤倹貯蓄の国民運動への協力を要請

9.21  第一回全日本婦人経済大会開催

10.22 東京市、多産に苦しむ細民のために多産制限の指導
      全国から教えをこう手紙殺到

10.24 NY株式大暴落、世界恐慌始まる

11.5  警視庁、中絶禁止法違反の恐れありと警告

11.12 北海道函館の私立大谷高女、全国ではじめて女学生の
      軍事訓練を実施
      この年卒業してすぐに結婚する女性激減

12.   不況で購買力が落ち、見切り品、特価品を売り始める。

12.   清水トンネルが完成。全長9.7キロ。

昭和4年

この年、大学卒も就職率は12%、帝国大生も30%しかなかった。

初任給、官立大卒133円 私立大卒33円。平均50~60円。

教職員の月給初めてダウンする。不払いも。

円定=一円定食。スープとコーヒーのついた定食。

東京駅に八重洲口が完成。

自動車の生産台数437台(米国は533万7,087台)
      

★1930(S5)

1.    富士銀行、サラリーマンに無担保で融資。サラ金の始まり。

2.    東京市、失業保険を実施。

2.    名古屋で第一号のパチンコ屋が開業。

2.1   愛児女性協会が産児制限相談書を東京に開設
      医師間島、尾崎豊子が妊娠、小児保健相談行う
      多くは貧困、多産による
      2月~10月相談来訪者 1,359人、
      6月~10月文書相談者 5,130人

2.11  「君が代」制定50年で文部省が正しい歌い方のためレコード発売。

3.5   大日本産児制限協会開設

4.    上野松坂屋で初めてのエレベーターガール登場。

5.6   大阪府警察部、堺市の産児制限相談所二か所に閉鎖命令

5.10  婦人公民権法案、衆議院で可決、貴族院、審議未了
        ↓
      翌S6年2.28 再び可決 3.24貴族院で否決

6.6   東京にわが国初の独身用アパート「大塚アパートメント」完成
      部屋数157 教員、記者、学生などが入居

6.9   警視庁も産児制限、妊娠調節・禁止命令

7.12  離婚訴訟で、大審院は「子どもが出来ないのを理由に
      夫が妾を囲うのは認められない」tぽい妻の言い分を認め
      夫に慰謝料1万円を支払う判決

8.30  この三年間で親子心中増加。平均して三日に一件。
      自殺者14,000人。

10.1   奥むめお、婦人セツルメントを解説、婦人の協同隣保事業。
       託児部、妊娠調節相談部、健康相談部、夜間女子部
       母の会消費組合、小学生のおさらい会、
       和洋裁縫授産所を設置

11    山形県、西五百川村(現朝日町)で会員組織による産児制限

12.3  田中隆三文相「国運の進展・思想善導のための婦人団体の
      創設を訓令
      同日、大日本連合婦人会設立(政府による婦人層の組織化)

S4~5にかけて、経済的にゆとりのない家庭で、他に娯楽もなく、子どもがたくさん生まれている。

失業して徒歩で東海道を故郷の農村に帰る人が30~60人/1日

山形県谷沢村で不況のための対策。全員早寝して消灯。男性25歳、女性20歳まで結婚しない。

新潟県高田で初めてのスキー学校。

東京、横浜、大阪で初めての公衆電話。

国産初の東芝製、電気冷蔵庫。


★1931(S6)

1.     田川水泡「のらくろ二等兵」が『少年倶楽部』で連載開始

のらくろ二等兵

1.16   佐賀県から第1回ブラジル移民7家族40人出発

3.     東京市内の尋常小学校卒業者のうち約6千人は
       芸者屋や商店に人身売買に近い条件で就労

3.6    大日本連合婦人会発会式

       地久節(国母の日)を母の日と定め各地で開催

3.10   戦時色が強まり、静岡で初の防空演習

4.     禁酒村で有名な石川県河合谷村が満5年を迎え
       禁酒で積立た金(4万5千円)で学校を建設

5.10   民間による母の日(第二日曜)の催し第一号として
       「母を称えましょう」街頭行進が東京で行われ
       全国に広まる

       ※現在の母の日は敗戦三年後1948年から

7.10   木内きょう、東京始発の小学校女性校長
       (志村第一尋常小学校)全国では八人目。

7.24   大審院「身持ちの悪い夫には妻の財産管理権なし」
       と新判決

7.28   東京府職業紹介所が行った女子求職者5,779人
        →家計補助     2,747人(48%)
        →社会生活したい   590人(10%)
       
       希望職種
        →売り子(60%) 食堂の給仕(20%) 

       学歴
        →高小卒 2,277人(39%) 高女卒1,762人(30%)

9.1    三越、婦人五人を主任待遇に昇進、業界初

10.1   大阪控訴院、未亡人の貞操に関し
       ある程度の性の自由を認めると言う判決

この年の女性労働者146万9千人

その65%は工場労働者で 平均労働時間10.24時間
平均賃金一日(諸手当込)82.3銭

不況脱出のために財テクの本が売れた

開襟シャツ、ノータイ運動

パーマ(洋髪、電髪)

春雨、日本で最初に作られた

秋田で納豆作りが始まる

高級な銀座アパート完成、家賃は25円

(善方先生、1月1日に生まれる)

東京の運送店
運送店

東京・銀座通り松坂屋付近
銀座



★1932(S7)

4.     全国の自動車台数は9万116台で官公署用が60%以上

4.9    中条百合子 検挙

4.23   警視庁、保健婦参院を初の婦人警官として採用
       家出人保護を担当

1.~6.  新潟県内の農村で売られた女子4,962人
       (芸妓1,750人 娼妓1,502人 酌婦1,630人)

5.15   『上海事変、爆弾三勇士の母』表彰される

昭和7年

7.     自殺者急増、一日平均5.8人 
       親子心中多く、この二年間で1,419人死亡

10.    新潟、新発田高女、軍事教練を正課に加える

10.24  大日本国防婦人会結成

12.    ブラジル移民の希望者急増
       9月の支度補助金の奨励法が功を奏す

12.1   日本母性協会(会長、馬場)発足
       戦時制限、健康相談を行う

12.16  日本橋の白木屋デパートの火事で
       裾の乱れを気にして落下する者が続出
       これを機にズロースが広まったと言われるが
       実際には戦争中のモンペにより普及した

12.31  大晦日恒例、NHK除夜の鐘の中継始まる

<参考文献>
近代日本総合年表(岩波) 昭和史年表(小学館) 
昭和、平成家庭史年表(河出書房) 他





昭和 | 04:32:54 | Comments(9)
コメント
前回からブログを読ませていただき次の講義録が楽しみでした。
なんともう今朝でていたのでびっくり。織物、生糸、繭から、また
女性史から女工さんたちの生活史に興味があります。大学のとき
に女工哀史を読んで寮の友人たちが寸劇を作っていたのを
も思いだしました。
 自分につながっている人たちのことをもっと知りたいと思って
います。
 
2011-06-26 日 08:59:37 | URL | mpmp [編集]
今回もいっきに読み進みました。なにせmikeは昭和7年11月誕生ですし・・・興味ある内容をご披露いただき有難うございます。 
このころから三越で女性の主任待遇が採用されたり、パチンコがあったり、ちょっと驚きました。 それにしても女工の待遇、資本家の搾取、それと不況などによる自殺者の多さには驚きますね。
肉弾三勇士のイラストも懐かしいです。思わず三勇士の歌を口ずさんでしまいました。
2011-06-26 日 21:30:40 | URL | mike [編集]
ありがとうございます!
アップしてすぐにお二方からコメントいただき、嬉しいです。
早くやろうと思いつつ…いっつも講座の前の日に慌ててやってます。
今日も昭和初期の続きでしたが、どんどん大変な時代になっていってました。
2011-06-26 日 23:28:36 | URL | ひさごん [編集]
きょうは義母(昭和3年生まれ)が私の家にきました。お土産?は「7000名のハルピン脱出」という本。善方先生のお話もだんだんそちらに近く
なっていきますね。
 前からハルピンの病院長をしていた義母の叔父が、なんらかで終戦の
情報を得、傷病者、病院関係者7000人を連れて?朝鮮半島を経由、
9月初めに博多に帰着したという話を聞いていました。文にまとめたもの
があるとは知りませんでした。義母も最近みつけたようです。
 読み始めたら 最初は大正7年にペストが大流行していたウラジオストックの様子からはじまりその惨状(写真あり)をたんたんと書いていてとっても違和感があります。その叔父の養女にいったんなった義母はどうやってその立場から逃れたかという話を繰り返ししています。
 
2011-06-27 月 22:13:45 | URL | momo [編集]
すごいですね!
まるでドラマのよう。映画のよう。
ウラジオストックのペストとか想像できません。
敗戦を察知して7000人の大所帯で引き揚げだなんて、どんなに大変だったことでしょう。
2011-06-27 月 23:06:54 | URL | ひさごん [編集]
久しぶりにやってきたら、どんどん進んでいて私の時代(昭和11年生まれ)になっている。
ひさごん、頑張ってるわね。
「ふみ子」の映画が1931年(昭和6年、ふみ子4歳)から始まっていて、
その後1935年には高田であんま修行を始めるので、この頃の時代背景を勉強したいと
思っていました。この報告でよくわかって嬉しいです。
momoさんのお義母さま、凄い経験をなさっているのね。
ちょっと前の世代の方は考えられないほどの苦労をなさっている。
朝鮮人に対する差別がこんな形でもあったのね。
貧しく、恐ろしい時代。繰り返さないようにしなければね。

2011-07-02 土 09:26:48 | URL | ごくらくちょう [編集]
ごくさまは昭和11年生まれなのですね。
mikeさまやごくさまの子どもの頃のお姿を想像してみるtと、とたんにリアルに感じられます。
2011-07-02 土 12:34:06 | URL | ひさごん [編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2017-02-09 木 00:27:26 | | [編集]
Fさまへ
申し訳ありません。
嘉悦三毅夫氏のことは存じ上げなくて、お役に立てません。
2017-02-10 金 20:29:31 | URL | ひさごん [編集]
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