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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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明治政府による新しい神道の国教化
2/23
    
 日本には近代という時代がなかったと思います。
  2014/2/23コムナーレ
 明治維新は士農工商の身分制度の解体で終わってしまった。
 討幕派の革新的な下級武士が全てを新しくするという建前で
 政治を変革しただけで、政治革命ではなかった。
 西欧諸国では市民革命によって国民主権になり近代に入って行ったが
 日本の歴史には近代がなかったのです。

 1946.11 憲法誕生。日本の近代及び現代の始まり。
 


〇●〇世界の市民革命が近代の始まり〇●〇

ヨーロッパでは産業革命によって生まれた産業資本家が自らの手で製造し販売し、王ではなく自分たちが主権者であると意識し17世紀絶対主義の国から民主主義の国へと変革する。

〇イギリスのピューリタン革命(1642-49)
 勤労と親交を結び付けていた人たち。産業資本家層から清教徒が生まれる。

〇アメリカの独立革命(1775-83)

〇フランス革命(1789-99)

※主権者が「王 → 国民」となるのが近代の始まり


■ 明治政府による新しい神道の国教化

●伊勢神宮の参拝の歴史

・672年壬申の乱の時から伊勢神宮は天皇家にとって大切な神社になる
 671年に天智天皇が亡くなり、翌年内乱起こり、
 弟の天武は伊勢神宮に参拝し勝利
 壬申の乱 - Wikipedia

・江戸時代は無銭旅行としてのお伊勢参りが庶民の娯楽
 当時は農業の豊作を祈願し外宮にお参り

  内宮=天照大御神(あまてらすおおみかみ)
  外宮=豊受大御神(とようけおおみかみ)

・1869年 17歳の明治天皇が初めて伊勢神宮へお参りする

・明治以降、小学校の卒業旅行が伊勢神宮の参拝になった
(善方先生も車中泊で行った)


●神仏習合から神仏分離へ

・8世紀仏教が伝わってくると神道と融合し調和してゆく

・明治のはじめに神仏習合を否定する動き
  ↓
 1868 神仏分離令(明治元年3月)

・本居宣長と平田篤胤が神道の国教化をすすめた

・1870(M3) 大教宣布の詔 大教宣布 - Wikipedia
 (天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とする)
 当時天皇は18歳で時の政府の官僚が作った

・神社は国家の宗祀(そうし=宗教機関)となる

廃仏毀釈 - Wikipedia


●1871年に神社の社格を定めた

近代社格制度 - Wikipedia

・伊勢神宮は別格

①官幣社 → 天皇と皇族を祀る神社

②別格官幣社 → 国家に功績を挙げた忠臣を祭神として祀る神社

③国幣社 

④府県郡村社 

⑤無格社

※国家神道では古い神道の歴史にはない実在の人物を祀る


●対立を避けるためのスローガンが「祭政一致」

・明治時代に太政官と神祇官が復興し、
 神祇官は太政官から独立し行政機関の筆頭に

 神祇官 - Wikipedia  太政官 - Wikipedia

・天皇は天照大神の子孫であるため日本の国土を支配する権限を持つ


●靖国神社

・御霊信仰として軍が管理する軍の宗教施設

靖国神社 - Wikipedia




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明治 | 04:58:46 | Comments(0)
時代を訪ねる旅~五日市憲法と秋川渓谷~
すっかりご報告が遅れましたが、12月5日に五日市憲法発祥の地を訪ねる校外学習に行ってきました。
郷土館で学んだあと、美味しい五日市ほうとうを食べて渓谷を眺めながら林の中をてくてく歩いて蒟蒻屋さんの外のベンチで一休みしたあと瀬音の湯で足湯をして家路につきました。

明治14年(1881)に人権と自由を謳った憲法草案が五日市町(現あきる野市五日市)に誕生しました。
なぜ郊外のあきる野市に?どんな人が作ったのか?内容は?
当日のお話はとても面白く、当時の人々の暮らしぶりや、生き生きとした学習結社の活動などが時を越えて身近に感じられました。
メモを取っていなくて先生が以前に蕨の講座で作られた資料を参考にまとめました。


武蔵五日市駅
武蔵五日市駅

郷土館
郷土館

市民解説員さんにお世話になりました。
市民解説員

■五日市(現あきる野市)について

・五日に立つ定期市によって命名された
 (戦国末期の1574年の文書に「五日市」の名称あり)

・中世では鍛治用であった木炭が江戸期では上層階層の
 燃料・暖房用として使われ始め、秋川谷など食料生産不適地では
 売れ出した木炭の生産に専念

・五日市は炭と穀の交換市となり繁栄
 百姓たちの中から商人が生まれ
 その中から物品税委任により専売権を持つ炭問屋

・杉、桧の植林が盛んになり木材を筏に組んで秋川から多摩川経由で
 江戸に運んだ
 筏」
 (秋川木材協同組合のホームページより)

・林業で多摩の農民の雇用提供され、有力な元締(材木商)生まれた

・江戸後期に黒八丈という絹織物の主産地となる

・江戸末期の1858年に締結された日米通商条約締結により
 黒八丈の原料である生糸が増産され、以後養蚕が最大の産業に

○炭・木材・黒八丈が秋川谷の主要産物として取引の主役となり
 秋川谷がその地方の中心の地位を確立

○富農=在方商人=村役人 という三位一体の家々が
 実質的に自治体としての村々を支配してきた

○秋川谷は多摩川によって川崎と結ばれ横浜に近いことから
 早くから欧米文化と触れ、情報も早かった

○身分は武士だが通常は高持ちの百姓という八王子千人同心
 幕末の五日市地方に33名いた。
 農民とは違う彼らの視野と意識は時代に敏感に反応したと思われ
 直接の関係はなくとも自由民権運動に影響したのではと思われる


<参照・引用文献>
五日市町率五日市町郷土館『五日市憲法草案の碑』碑誌


■秋川谷の『自由民権運動』の始まり

★時代背景 
全国で農民一揆と士族の反乱が起きていた
(クリックすると大きくなります)
ikki.jpg

1月に東日本を代表する民権運動の結社、嚶鳴社が八王子支社設置

嚶鳴社(おうめいしゃ)とは、明治時代前期の政治結社。

元老院大書記官の沼間守一が1878年(明治11年)に設立。自由民権・国会開設を主張。東京に本社を設立、関東や東北など全国各地に支社を置き、盛期には社員1000人以上の規模となった。(Wikipediaより)

国民の手で憲法を
1880(M13)11.10国会期成同盟 第二回大会を東京で開催
大日本国会期成有志公会と改称
次回1881.10.1開催とし憲法見込み案持参のことなど決議


★1880(M13)4月 五日市学芸講談会結成

五日市の自由民権運動の中心的組織で、様々な学芸上の問題を討論した。
政治的な問題は討論しないとした。
あきる野市デジタルアーカイブ「五日市学芸講談会の活動」

 講談会規約
 本会ハ万般ノ学芸上ニ就テ講談講義或ハ討論シ
 以テ各自ノ智識ヲ交換シ気力ヲ興奮セン事ヲ要ス

 会員39名(1979年12月時点)
 大地主3~4名 残りは中農と小作人

 年齢構成(27名)
 10代(6名、22.2%) 20代(13名、48.1%) 30代(3名、11.1%)
 40代(4名、14.9%) 50代(1名、3.7%)


・教員グループの参加者
 勧農学校の永沼織之丞以下の訓導や助教たち、旧仙台藩下級藩士が主で、
 五日市憲法の起草者、千葉卓三郎もその一人

・「各人一回は発言しなくてはならず、発議者は15分
  その他は10分、論旨は二度と変更できない」というルール

・学芸討論会は市の日に開催され、若者だけでなく老人年配者も
 富者のみならず貧者も参加しみな「気力ヲ興奮」させた

・討論題集
 ①憲法は国民が決めるか、国王が決めるか
 ②議会は二院制か、一院制か
 ③死刑は廃止すべきか、否か
 ④人民に武器を与えてよいか
 ⑤皇居は東京におくべきか、田舎におくべきか
 ⑥衆議院議員に給料を払うべきか、払うと悪いことをするか
 ⑦外国人政治犯の亡命を受け入れるべきか、どうか
 ⑧女性に選挙権を認めるべきか、否か

(クリックすると大きくなります)
gidai.jpg


■千葉卓三郎と深沢権八

★千葉卓三郎
千葉卓三郎
  
嘉永5年(1852年)栗原郡白幡村に出生。
父は仙台藩下級武士。
明治元年(1868年)16歳で戊辰戦争白河口の戦いで敗戦。
その後、医学・数学・ロシア語・国学・一向宗・
儒学・正教・カトリック・プロテスタントを学び
明治13年(1880年)五日市勧能小学校に勤務。
翌年(1881年)五日市憲法を深沢権八らと起草。
明治15年(1882年)結核が悪化し療養生活に入る。
明治16年(1883年)東京本郷の竜岡病院にて死去。
享年31。

★深沢権八
深沢権八

1861(文久1)深沢名生(なおまる)の長子として生まれ勧能学舎
(1875年に学校と改称)第一期生。
権八は13才で深沢村(戸数20戸ほど)の代議員となり
15才で村用掛(村長に相当)に任ぜられた。
五日市村の北の渓谷を4キロ近く入り込む山村のインテリ親子。
当時の東京の新刊書の7~8割の蔵書を持っていた。
明治23年(1890年)29才の若さで死去。


深沢親子にとって千葉は知的飢餓を満たす貴重な存在として
援助を惜しまなかった。
放浪型インテリの明治維新の敗北者たちと、在地の名望家層とが
生活共同体の中で学芸講談会や討論会の対等のメンバーとして
互いに切磋琢磨し創造的エネルギーを生み出した。
しかし時代が、その実りを許さなかった。



■五日市憲法草案

Wikipedia 五日市憲法草案
(下敷きは嚶鳴社の草案 1880.12.13入手)

・204条の草案は毎月2,3回開催される学芸講談会で具体的テーマを
 60余あげて討議を重ねて、その間多くの書籍を読みあって
 作り上げられた

・基本的人権に重きをおいた

・学芸懇談会のメンバーは五日市以外にも周辺の村々から
 あるいは青梅や八王子、横浜などからも
 宮城県から5名、秋田、福岡出身者も含まれている

・草案起草は千葉卓三郎となっているが、起草の背景には
 『五日市法学セミナー』と言えるような集団討議があったようで
 1880~86年に他にも7グループの学習結社、民権政社が結成された

・五日市憲法草案が参考にした憲法
 日本が弱小国だったことから、大国のではなくヨーロッパの
 先進小国のポルトガル・オランダ・ベルギー・スイス・
 オーストリー・スペイン等の憲法を参考にしたと言われている

・この草案を千葉が書き終えた時期は1881年5~6月と思われる
 同年教員が政治を議論すること不可という法律が施行されて
 千葉は憤慨し退職して6月に五日市を離れ北多摩郡へ転居

・重要な条文
五日市憲法


■忘れ去られていた草案を色川教授らが発見


昭和43年東京経済大学教授色川大吉教授らにより、
五日市深沢家 旧宅の土蔵より発見
タイトルは「日本帝国憲法」だったが
発見者らによって五日市の若者らへの思いをこめて
「五日市憲法草案」と名付けられた

「当時の草案は全国で約80件確認されているが、
 五日市町のように草案完成までの資料が残っているものは
 極めて少ない」
(草案発見した調査時のゼミ生の一人新井勝紘専修大教授)


・・・・☆以下資料☆・・・・
 
東京新聞 2007年5月5日
【憲法を歩く 施行60年】
第1部 焦土から生まれた希望 <下>五日市憲法 民権の精神脈々と
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/kenpou/news/070505.html


あきる野市デジタルアーカイブ
http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/
 
上記の中の五日市憲法草案のページ
http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/gallery/index.php?mode=image&id_1=1&id_2=1




明治 | 00:58:38 | Comments(0)
明治から続いた官僚政治のルーツ
9/13  

(ものすごく申し訳なさそうに)
8月は私にとって時間がある月ですので、また資料を作りまして
12期の当初の予定より遅れて満蒙開拓団は10月以降になりそうです。
10期で取り上げた日本の資本主義と天皇制をまた取り上げて鮎川コンチェルンが満州に進出する理由になった軍事資本の多さや、日本が国際連盟を脱退する経緯などやろうと思っています。
予定が遅れてしまってすみません。
 すみません
(常に探究心が旺盛な先生です) 



明治時代の資本主義の発達と天皇制の資金強化

★絶対主義と資本主義のかかわり

イギリス、フランスは市民革命により絶対主義が倒されてから資本主義が発展した。
日本は絶対主義(天皇制)が自ら資本主義を育成しただけでなく、資本主義の帝国主義的発展を補充した。

  何故日本の資本主義は絶対主義と結びついたのか
            ↓
  政権基盤の弱かった下級藩士出身者が作った明治政府が
  天皇制の権威を利用するために強化した


★資本主義と天皇制

1890(M23)前後から産業革命始まる
1890年輸出
1880年製品を買う余力無くて初めての恐慌発生。
1890年生産高が輸入高超える

日清戦争(1894(M27)~95)後「産業資本」確立

  当時の農民、民衆から集めた税金で官営事業を保護育成
  やがて財閥となる者たちに格安で払い下げ
  官僚と産業資本家の癒着の始まり


  ※官僚が税金を使って産業界と癒着の構造が麻生政権まで続く

①1884(M17)より官営事業を政商に払い下げ始まる
②財政と金融・重化学工業の結合(政商から財閥に)
③軍事産業中心に自ら資本主義的企業の主体となった
払い下げ
  ※軍事産業以外払い下げ ※25年ローンで優遇

★天皇制国家による軍備拡張


次第に産業の中心が軍事産業にシフトしてゆく

1881(M14) 参事院(国会開設、憲法制定のための準備の役所)出来る
        (民権運動を抑える役目もあった)
1882(M15) 参事院議長、山県有朋、タバコ増税で軍備拡張を建議
        宮中に地方長官を集め軍備拡張・租税増徴につき勅語発布
        酒税増税(地租を除く最重要税) →軍艦購入費に
        (※この年明治天皇30歳)

1887(M20) 「朕惟うに立国の務めにおいて防海の備え一日も
         緩くすべからず。しかして国庫歳入未だにわかに
         その巨費を弁じ易からず。
         朕これがために診念しここに宮禁の儲余30万円を出し
         いささかのその費を助く閣臣旨を体せよ」(詔勅)

1893(M26) 
      1.12 衆議院、明治26年度予算案修正議決
         ・軍艦建造費削除
         ・官吏俸給、官庁経費の減額など871万円削除

      1.16 第二次伊藤博文内閣は不同意(衆議院5日休会)

      2.7  衆議院内閣弾劾上草案可決(181対103)

      2.10 天皇"在廷ノ臣僚及帝国議会の各員ニ告グ”詔書発布

          「軍拡拡張のため内廷費毎年30万ずつ(1割)6年間下付
          同期間中は文武官俸給の1割を納付させ製艦費に
          あてることを命ずる」
         (※お金出すから私と同じように軍艦建造費だしなさい)
        
      2.22 衆議院、予算修正可決 製艦費全額承認他262万円削除
         (※他のは減らしたが軍艦を作るお金が通る)

      2.26 貴族院も可決

   天皇の一言でで軍事費に関することが決まった
   ブルジョアジーは絶対主義を資本主義発展の阻害とはとらえず
   かえって絶対主義の支柱である天皇制による保護・指導に頼った

■2001年の情報公開法が出来て初めて公開された天皇家の資産天皇家敗戦時の資産
 敗戦時には天皇家はこんなにも財産があった
 当時の財閥(三井、三菱・住友など)の財産資産は3~5億円)

   9月13日

■島崎藤村の「夜明け前」

幕府の天領時代には下草や枝も刈れたのに
御料林になると立ち入ることも出来なくなって農民は困る
農民を代表して天皇に直訴した父は格子の入った部屋で死んだ

■皇室自律主義

国が天皇に与えた財産については誰も口出しできない

天皇家あっての日本という立場で国家が集めた地租や酒税から
豊富な資金が天皇家に渡った

★「明治維新」とは何か

・山川出版 用語集から

西南雄藩(薩摩、長州、肥前、{土佐})の革新的下級武士の主導で
幕府を倒した後、殖産興業で富国強兵をスローガンとする
近代化政策を推進した

新政府の成立を政治の一新の意味でご維新と言うが
また中国の古語を当てて維新とも呼んだ。
幕末の尊皇攘夷運動に始まり廃藩置県の断行に至る過程を称して
明治維新と呼ぶことがある

・実教出版 必携日本史用語より

明治維新とは幕藩体制を解体した
近代天皇制国家と資本主義の成立をもらたした変革 


明治 | 00:24:35 | Comments(0)
「一国万民」の国家理念の普及
明治政府は宗教と教育で天皇制を徹底
10/12
 「皇民作法」という本です。
 おかしなところもありますが、
 今私たちが身につけなければいけない作法も出ていて
 非常に面白い本です。
  10月14日10期三回目
 古本市に行くと楽しいです。
 すごく嬉しいのは書き込みがあるものなど安くなるし、
 いろんな人がどこに力点を置いて読んだのかわかるので
 読んでいて臨場感があります。       


昭和10年代(1930年代)天皇に対する特別な感情が
根強くしみこんで行ったのは何故だったのか


1.宗教による天皇支配の徹底

★天皇信仰強化のために神社を系列化

・新神社の創建と神社合併

・1869 招魂社=靖国神社
     官軍の兵士と国の戦死者を祀り、死者の神格化

・1871(M4)系列化する 

  神宮
   |
  官幣社(かんぺいしゃ=国営)(靖国神社は別格)
   |   大65 中23 小5 別格8 計101社
   |
  国幣社 (国が管理するが天皇とは繋がってない)
   |   大(戸隠、金比羅、熊野など)中小
   |
  府県社
   |
  郷社   町や村の中心
   |
  町村社
   |
  無格社  田舎の小さな祠

・一村一社で19万社の町村社、無格社が10万社に削減される
   
  多い所 三重・・・・10411 → 989(伊勢神宮がある)
       和歌山・・・3772  → 874(大逆事件参加者多し)

  南方熊楠は精神の自由から反対した。

・町村是 制定運動 → 中央集権化

    信仰の頂点に天照大神と天皇をおいた

      格付け後の神社と廃仏毀釈の寺

格付けにより大きな神社に人が集まるようになる
小さなところは不満が溜まるが諦めざるをえない

末社を信仰していた人たちは必ずしも天皇信仰でなく
氏神様を大切にしていたと思われるが
建前としてそれは言えない状況

廃仏毀釈後のお寺のダメージ
祖先信仰は廃らなかったので庶民はお寺に行った
国の保護はなくなり副業で農業をやったりした


 
★大多数の農民の日常的基本原理

・農民の日常生活の行動規範となったのは祖先信仰
 祖先に恥じないような生き方

・地域社会の共同体(稲刈りなど協同作業)の信仰の対象は氏神信仰

穀霊信仰 稲に宿る神
 大嘗祭はそれを利用した天皇が神になる行事

太陽神信仰

    自然に根ざした土着の信仰があった

★天皇の巡幸の利用

・明治9年(1876)から明治10年代前半に各地を巡幸している

・秩父事件など自由民権運動がおこった時期に天皇が巡幸

・時の政府と天皇が自由民権運動を抑えるために利用

 巡幸始めた1876年農村地帯での庶民の姿の記録(仙台)によると
 みな泥だらけの日常生活のまま「それ拝まぬか」とたたき起こされ
 特に緊張する様子も無く天皇を迎えていた。
 しかし1881年の酒田では10日間で10万人余り巡幸に参加し
 天皇を有難がる様子が記録されている
 
    巧みに天皇への信仰を民衆に浸透させた

★天皇のために死ねるという思想の流れ

 楠正成 
 「七生報国」例え死んだとしても七度生き返って国のために報いること
   ↓
 本居宣長 
   ↓
 吉田松陰(明治のリーダー、伊藤博文や山県有朋など育てた)

 「生きることは天皇のために死ぬこと」
 「死ぬことは永遠に生きること」
 永遠の生を受けることができるのは天皇のおかげ

★本居宣長が明治の思想のルーツ

・「古事記伝」1764-98の宣長の天皇論「直毘霊(なおびのみたま)」

 人は皆、産巣日(むすび)神の御霊によりて、生まれつるまにまに…

        ↓ (現代語にすると)
 
 人間というものは、みなムスビの神の御霊力によって、生まれ来た
 そのままで自分にふさわしい行為をなすことのできる存在なのであるから
 かつての多きなる聖代には、どんなに下の人であっても、ただただ、
 天皇の御心を自分の心として、ひたすら天皇の仰せを畏敬の念とともに
 うけたまわってはそれに従い、ただ天皇の大いなる恵みのなかに安らい
 ひとり一人が自分の祖先の祭祀をおこないおこないして、分相応の
 できるかぎりのことをして、おだやかに楽しく生活するほか格別に
 しなければならないこともなかったのだから…   

    天皇は「善悪の彼岸」に在る神

 ※しかし歴史を振り返ると桓武天皇は権力争いし
  終生怨霊に苦しめられたなど、神様らしからぬ人間くささであった

      江戸幕府が本居宣長を認めたわけ

天皇より征夷大将軍の位を貰っている将軍
国司・何々の上(かみ) 
大名も全て縦の関係で成り立っている

天皇が実権を持つと困るので祭祀専門の地位に置いた。
綱吉は頭のいい将軍で途絶えていた大嘗祭を復活させて
天皇をあらためて神にし権威を利用した。


2.天皇中心の国家作りの教育

 吉田松陰の作った言葉「一君万民
 ただ一人の君主にのみ生来の権威・権限を認め、
 その他の臣下・人民の間には原則として
 一切の差別・身分差を認めないとする思想・主張

①文字を通して国家による国民に対する「支配通路」の確立

②富国強兵、殖産興業を実らせる

③一国万民の理念を理性を通して浸潤させる

 「教育勅語」=天皇自身が作った絶対のもの

 ※当時は教師は出来上がった体系的知識を次の世代に伝えることを
  役割とする「伝達者」で上からのものを全てそのまま伝えるだけ。 
  決まったことしか喋れない、教えられない。
  師範学校ではもの言わざる教師でしかいられない。

★修身の中味

・「修身訓話・工女の鑑」1912(M45)製糸織物新報社発行

 人ニハ男女老幼ノ差別ガアリマシテ男ハ男タル本分ヲ尽クシ…

        ↓ (現代語にすると)

 男女老幼の差別があり、それぞれの道を守らなければならず(中略)
 工場に居る間は主人重役たちを父と思い
 忠実に仕えなければいけません
 主人への恩返しは、命令に従い撓(たゆ)まず屈せず仕事に精出し
 工場に勤めて多くの糸を外国に売り込みたくさんのお金を
 外国から儲けるようにするのが天皇への忠義である
 工女自身、規律が必要なことを自覚してすすんで厳守し…

・「第2期国定教科書 高等科2年修身教科書」

 女子が内にいて一家の世話をなし、家庭の和楽を図るはやがて
 一国の良風美俗を造る所以なり
 女子の母として子どもを育つることの良否はやがて其の子の
 人となりに影響し延いては国家の盛衰に関係するものなり
 
    日本の教育は政府が上から押し付ける限り天皇制のもと
    資本家、地主階級の利益に奉仕する教育となる



★教学聖旨・元田永孚の考え

教学聖旨

元田永孚(えいふ)という儒教学者が実際に執筆し
1879(M12)天皇名で出された教育方針

元田は洋風開化の実学的教育を戒め、仁義忠孝の徳育教育を
教育の中心にすえることを説いた
「教育勅語」の起草に関わった天皇絶対主義の推進者の一人

 仁義忠孝ノ心ハ人皆之有リ、然レドモ其幼少ノ始メニ、
 其脳髄ニ感覚セシメテ培養スルニ非レバ、…

        ↓ (現代語にすると)

 仁義忠孝の心が皆あるけれど、小さい時に脳髄に叩き込まなければ
 他の物事も耳に入ったりして先入観となったりするので
 取り返しがつかなくなる
 だから、小学校で絵図を使って古今の忠臣・義士・孝子・節婦などを
 まず説明し忠君の大儀を第一に脳髄に感覚せしめんことを要す
 そうすれば後々本末を誤ることがないだろう

    個人としてでなく、天皇の臣下、民草として生きることを求められた


明治 | 08:49:07 | Comments(0)
明治の祝日の作り方
明治に作られた紀元と祝日
9/14
      9月14日10期一回目
12月8日の開戦の詔書ですが、詔書に出ている言葉というのは
人間の言葉でなく神の言葉なのです。

豈(あに)朕カ志ナラムヤ → 戦争責任回避

徳富蘇峰が最終的に仕上げる時に下記を付け加えた

皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ → 八紘一宇=世界全体が一軒の家
(上はウエでなくカミと読む)

詔書を見ても日本という国の主権が国民でなかったことがわかります。 


★日本の紀元の制定 1872(M5)11.15(旧暦) 

 日本がいつから始まったのかを決めたのは明治時代の初めであった

 神武天皇の即位年をもって紀元とする 即位日1月29日(太陽暦)

      どのように紀元が決められたのか

辛酉(しんゆう)年
中国では辛酉の年に大きな変化があるという説=箴緯説

1元=60年 21元=1蔀(ぼう)=1260年

「日本書紀」によると西暦601年(推古9年)が辛酉の年
推古天皇9年から1蔀、つまり1260年を遡った辛酉の年が
大きな変化があった年として神武天皇の即位の年と定めた

西暦1940年(S15)が紀元2600年となった

参考サイト 「『神の赤子』になり損ねた少国民物語」2006年

1873(M6)1.4人日(じんじつ)五節句を廃止

   ・人日(じんじつ)1.7 人の日 七種(ななくさ)の粥を祝う
   ・上巳(じょうし) 3.3 女児を曰く節句 桃の節句
   ・端午       5.5 端は初めの意 午は五 男子の節句
   ・七夕(しちせき)7.7 奈良時代から行われ江戸時代に民間に広まる
                天の川で牽牛星と織女星が七夕の夜に会う
   ・重陽       9.9 菊の節句

   ※庶民のお祝いを無くしてしまった

同年3.7 神武天皇即位日を紀元節と称す

    国が決めた紀元節と天長節を祝うことになった

同年10.14 祝祭日を定め休暇とする

   ・元始祭       1.3 天孫降臨 天皇の位の元始を祝う
   ・新年宴会     1.5 天皇、豊明殿で皇族、大勲位、外国使臣らと宴会
   ・孝明天皇祭   1.30 67(慶応3)1.30没 36歳
   ・紀元節      1.29 → 計算しなおして2月11日に変更
   ・神武天皇祭り  4.3
   ・神嘗祭      10.17 当年の新穀を大御饌(おおみけ)として天照大神に
                   奉る伊勢神宮の祭儀
   ・天長節      11.3 
   ・新嘗祭      11.23 天皇が新穀を天神、地祇にすすめ親しく会食する儀式
                  天皇即位の年は『大嘗祭』=天皇の神格化    

78.(M11)6 春分の日、秋分の日のアレンジ
  
   皇霊をもちこみ春季皇霊祭、秋季皇霊祭とする
   彼岸の中日、前後7日間が『彼岸会』

   ※江戸時代の庶民の中で年中行事=祖霊信仰 → 神道行事に

1912(M45)9.4 休日に関する勅令

   祝祭日のうち、孝明天皇祭がなくなり
   明治天皇が亡くなった日明治天皇祭に
   天長節が11.3から大正天皇の誕生日の8.31へ

1913.7.18 休日に関する改正
 
    10.31を天長節に変更する(理由は謎)

    ※その後、孝明天皇と大正天皇の祝日は無くなった

 1927(S2)1.25   3.3に明治節といいう新しい祝日を作る

 天皇絶対主義の時代が始った

 ☆田国男は公権力による民衆の祭祀代行を否とした
 
 常民とされる私たちが先祖供養することに公権力が介入し
 江戸時代まで庶民の中にあった素朴な信仰を
 皇祖信仰に摩り替えられてしまったことに異を唱えた

 ☆丸山真男の講演で

 明治維新の精神的なスタートは
  ・尊王論 
  ・公儀世論
 
 江戸時代はある意味、地方分権であった
 中央に全ての権力を集中させる → 尊王
 
 ※中央集権化は政府によって支配しやすい

公議輿論と薩長土佐の違い

 尊王論者の目指すもの
   ・中央集権国家を作る
   ・外に向かっては国権を拡張(朝鮮半島などへの進出)

 公議輿論とは政治に関する関心を広め多くの意見を集める
 幕末にペリーが来た時老中阿部正弘が諸大名に意見を聞いたのが
 最初の公議輿論と言われている

 薩摩長州は力によって幕府を倒そうとしたが
 土佐などは公議政体論で議会制を主張した

 薩摩は死の商人からたくさんの武器を買っていた
 イギリスの死の商人たちは倒幕戦争でさらに武器が売れるのを願う
 鳥羽伏見の戦いで圧倒的な武力の勝利で新撰組壊滅

 篤姫が武力でという薩摩を押え江戸城無血開城したことにより
 江戸市民の命を守り日本が焦土となるのを防ぎ
 和宮も京都の御所が薩長に襲撃されることなく助かった
 
 竜馬を殺したのは見まわり組と言われているが怪しい…
 高杉晋作や坂本竜馬が維新を生きていたらきっと日本は変わっていた
 権力を目指す者は、無いものを作り出して怖い


敗戦後に決まった祝日

   元旦      1.1
   成人の日   1.15
   春分の日  
   天皇誕生日  4.29 
   憲法記念日  5.3
   こどもの日   5.5
   秋分の日
   文化の日    11.3
   勤労感謝の日 11.23

建国記念日の祝日化の経緯

 1957(S32) 衆議院で自民党が紀元節復活をねらって建国記念日出す
 
 1965(S40) 再度提案

 1966(S41) 野党反対したが敬老の日と抱き合わせで建国記念日できる


 明治政府は休日の制定にあたって国民生活に密着した行事を無視して
 天皇制の箔付けをするために紀元を作り出し
 それに基づいて休日を作り
 日常生活に天皇制を浸透させるようにした

  

明治 | 03:20:14 | Comments(0)
明治の国づくりの骨格
明治の絶対主義体制の成立と整備
7/13

  7月13日善方先生
天皇制イデオロギーの目標をやろうと思っていたのですが
資料を読んでいく中で、「蟹工船」を読んだこともあり
資本主義社会と天皇制の関係を理解しておかなければと思いました。
経済面から見た天皇制のテーマはこれからも時々取り上げて
敗戦まで継続してやっていこうと思っています。


天皇家は日本一の資産家であった

敗戦翌年の天皇家の資産
1946.3 GHQにより公にされた天皇家財産は37億1563万円 
     (三井、三菱、住友の資産は平均3億~5億)

 長野県と同じ広さの山林を私有していた。御料林。
 それを売って株を買っていた。

天皇制の成立と絶対主義体制の整備

★何故江戸幕府が滅びていったのか

 産業革命による資本主義で力をつけた西欧諸国の植民地政策により
 江戸幕府もいつまでも鎖国をし続けていられなくなる。
 貿易によって経済力をつけ海外の情報を得た西南諸藩の下級武士たちが
 京都・大阪の商業ブルジョアジーと手を結び武器を輸入し
 対立する農業主体の東北諸藩を破り幕府を倒し新国家を造っていった。

 五箇条のご誓文の三、四番目は陋習(ろうしゅう)を破り知識を世界に求める
 
★新しい支配階級の急務事項

 ☆新支配階級の権威付けと支配制度の作成

 ☆民族的危機の回避(アジアの植民地化)

 新興勢力であり権威のなかった西南諸藩の新リーダーたちは
 新国家をつくるにあたって徳川幕府に代わる権威を探し
 幕府と一定の距離を保っていた天皇を国家統一のシンボルに据えた。

 ※当時の天皇は「新天子」祭主王、3万石の小領主であった。

 欧米各国の公使に天皇が支配者だと伝えた。「王政復古」

新しい国造り第一段階
明治維新

★民衆と天皇制イデオロギー

 京都以外の地域では民衆にとっては、将軍と藩のお殿様が権威。
 天皇はほとんど知られていない存在であった。

 ※本居宣長(1730~1801)の国学的尊王論、
  水戸学の儒教的尊王論が
 天皇が日本統一のシンボルになるという理論のバックボーンとなった。

 天皇を特別な存在だと知らしめるために国学、水戸学を利用。

 当時の町や村の豊かな資産家が国学を学んでいたので
 そこに集まる小作たちを思想的に天皇崇拝へと導いた。

★民間に天皇制イデオロギーに反対の思想、心情があった

 ☆民間宗教「天理教」「黒住教」など弾圧を受ける
        ↓
   「天理教
    教祖中山みき「谷底(民衆)文句変わるぞ」

   「金光教
    教派神道と認めるから国家神道に従えと国が圧力
    「天子さまも人間でないか」と教祖が答える

   「大本教
    出口なお「この世は弱肉強食の悪の世である。獣の世の中。」

   三つの神道

    ・教派神道 … 明治政府によって公認された。
              T3派(黒住教、天理教、金光教)など

    ・神社神道 … 宗教として扱わず国家神道として保護し     
              天皇崇拝、国家思想の統一に利用した。
              お稲荷さん、鎮守様など

    ・国家神道 … 民間の神社神道を再編成して皇室神道に結びつけた。
              祭政一致を唱え政策的につくりあげた。

 ☆九州などの隠れキリシタン

 ☆明治維新を迎えるまでに広がっていった「世直し思想」
  新しい国を共和制国家にしようという動き
         ↓
   薩摩、長州が民衆の運動を巧妙に潰した。
   「ええじゃないか」運動をおこして、ある日突然伊勢神宮のお札が舞う。
   そのお札を持ってゆけば金持ちのところの商品を持ち出せる。
   薩長と岩倉具視が画策して世直し思想の芽を摘んでしまった。

 ☆農業、商業に携わる人々の中で合理的な考え方をする人たちが
  育っていった

 ※新興宗教の思想的背景に福沢諭吉の言葉があった。
    「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」
    共和制国家の考え方の核。天皇中心ではなかった。
    

★平田篤胤の唱えた皇国

 当時農民は世の中が変われば御領林がもらえると期待していたが
 明治政府になると、勤労奉仕させられて、下枝さえもらえなくなった。
 不満がたまる民衆を抑えるために平田国学が利用された。
 
 篤胤「皇国は万の国の祖国である。六つの帝国の国の至高の国である。」

 平田国学を学んだ町や村の有力者たちは支配者にとって有難い存在。
 小作人たちは豪農たちに従わざるをえないので民主的な運動が押えられた。

★仏教はどうなっていたか

  江戸時代に出生届はお寺に出されていた。
  そのことにより何々宗の信者として支配体制に組み込まれていた。
  仏教も権力に従っていた。
  江戸時代から葬式仏教になってしまった。

  国家神道が大きな力を持った。
  元々八坂神社はお寺であった。全部壊して神社にした。

  ~宗教が国家権力と結びつくと堕落する~
  
  日本には信仰に対する熱い想いがないので節操のない暮らし。
  クリスマスを祝い新年には神社にお参りする。

新しい国造り第二段階
★明治14年(1881)の政変

 当時の国務大臣の大隈重信(佐賀出身の勤皇の志士だった)
 M14に民権の動きをみて憲法を制定し国会を開設することが
 必要でないかと閣議に意見書を出す。


 何故政変なのか?

 大隈は参議を免職になり薩摩と長州が藩閥として主要な地位を独占。

★「天皇」の粉飾と加工

 ・福沢諭吉の共和主義的な思想が変化してゆく。
      ↓
 天皇中心の考えを支えてゆく「帝室論」を発表。
 我帝室は日本人民の精神を収攬する中心なり。其功徳至大なり。
 我帝室は万世無欠の全壁にして人身収攬の一大中心なり。
 
 ・加藤弘之(東京大学初代総理=学長)

  「人権新説」を発表。
  ダーウィンの生物進化論の適者生存を説き天賦人権説を否定する。
  (日本の経済界で今も根強い)

新しい国造り第三段階
★憲法と教育勅語
1889年 明治憲法の発布
1890年 天皇により道徳を国教化

教育勅語

勅語とは全責任を天皇が負う。
詔書は副書が必要で、各大臣が署名し国務大臣が責任を負う。

教育勅語=天皇による道徳の国教化。
       100%守らなければいけない。
       神の言葉だから人間の言葉に変えられない。
       子どもは訳もわからずに覚えた。

教育勅語の目的は?

「一旦緩急あれば義勇公に奉し」=戦争になれば行く

第2の国歌「海ゆかば」
全てをなげうって命を捧げることを求められている。

★新国家支持基盤の造成

 ☆全国の豪農商層に天皇制イデオロギーの浸透
  
  ・招魂社による天皇への忠誠心
  ・天皇の地方巡幸の活用
  ・農民の年中行事に皇室行事の割り込み

 ☆1898(M31) 民放公布

  ・「家制度」の確立 ~個々の家が国の家に組み込まれる~

      頂点に立つ家=皇室=宗家 →赤子の家
                     ↓ 
                   赤子の家
             (赤子の家は分家、家族は国家ぐるみ)
ここより7/27の分 

  ・「宗家」直接血の繋がりがないけれど従わなくてはならない

  ・国の為に命を捧げなくてはいけない

  ・赤子にも差別がある

     臣 … 閣僚 将官 官僚 政商
     民 … 私たち

  ・天賦人権説を日本で初めて紹介した加藤弘之が「人権新説」

  ・福沢諭吉の「帝室論」の元になったのは平田篤胤(秋田出身)

★祖霊が国家神道によって系列化されてゆく

  神宮
   |
 官幣社(かんぺいしゃ)
   |      大65 中23 小5 別格8 計101社(靖国神社も別格)
  国幣社
   |
  府県社
   |
  郷社
   |
  町村社
   |
  無格社
   |
  私の祖霊=氏の神=非政治的神

私も家族も祖霊もみんな縦の系列に組み込まれている

 明治維新後の「新国家の支配制度と新支配階級の権威付け」
 王政復古
 西南諸藩の下士軽輩層 商業ブルジョアジー(問屋制)
                 
★1868(M1)神仏判然令(神仏分離令)

①祭政一致。
 神社神道を宗教として扱わず『国家神道』として国家が保護

②廃仏毀釈運動

 高知(土佐)藩 596社中451社整理された

★1870(M3)大教宣布の詔~神道国教化を推進~
 
★『町村是』制定運動中“神社の系列化”進行(日露戦争後1906~10)

 19万社の天皇に関係ない町村社、無各社が10万社に削減された
 
 伊勢神宮関係の三重と大逆事件に関わりの多い和歌山が多く削減

 ・三重県   10411社 → 989社
 ・和歌山県 3772社 → 879社
                     南方熊楠が抗拒罪で留置

 国家神道と民間の氏神信仰をきちんと区別して民間の方を極力整理し
 廃仏毀釈運動に伴って仏教から護法一機がおこった
 キリシタン弾圧がおきた

 ※国家神道に経典はなく詔のみ。内容を具現化したものが教育勅語。

 明治から人として生きる道を全て宗家(天皇家)と結びつけられた

 

明治 | 23:11:12 | Comments(2)

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