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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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小林多喜二はいかに殺されたか
江口渙の「多喜二虐殺」を読む

今年の三月に京都に行って古本や巡りをし見つけた本に
多喜二の遺体を引き取った江口渙(かん)という人の
「多喜二虐殺」が出ていました。
小林多喜二:年譜

ロシア文学に傾倒。労働運動に参加。
昭和初年より代表的プロレタリア作家として活躍。
『蟹工船』『不在地主』『工場細胞』『党生活者』『地区の人々』
などプロレタリア文学運動高揚期に代表的記念碑となる
数々の作品を残した。
24才(1927)共産党に入党、非合法活動中
1933.2.20正午過ぎ、スパイ三船留吉の手引きで逮捕され
警視庁特高・中川、山口、須田らの拷問により
7時間後に殺された。

宮本百合子は多喜二が“傑出したプロレタリア作家”
でありえたのは文学的才能や頭脳のよさのみによらず、
その不撓の精神でプロレタリアートの闘争を全く自身の闘争とし
その課題を自らの課題として倦むことなく刻苦し続けたからである
としている。
(同士、小林の業績の評価に寄せて)1933.4より

悲報を聞いた中国の作家魯迅からの弔電
「日本と支那との大衆はもとより兄弟である。
 資産階級は大衆をだましてその値で世界をえがいた。
 又えがきつつある。
 しかし無産階級とその先駆者は血でそれを洗っている。
 同志、小林の死はその実証の一つだ。
 我々は知っている。我々は忘れない。
 我々は堅く同志小林の血路にそって前進し握手するのだ」

    ドキュメント昭和五十年史2 ファシズムと抵抗 1974.11刊
    〈ドキュメント昭和五十年史〉 著者名 川口浩 編  より


          ~内容を簡単にまとめました~

★警視庁、中川の多喜二への怒りと憎しみ
 地下活動に潜った多喜二は警視庁に探し回られていた。

★1933.2.21夕刊一面に多喜二の死
 江口は慌てて八時過ぎに築地署にかけつけると
 大宅壮一など大勢集まっている。

★遺体の引き取り
 警察の言い分(病死)のままに
 母親は病院から遺体を引き取り家に連れ帰る。
 病院に入れたのは病名をつけるため。

★母の涙
 眩暈で倒れてはならないと手ぬぐいで鉢巻をして
 母親は遺体を抱き起こし初めて泣く。
 「ああ、いたましや。いたましや。
 心臓マヒで死んだなんてウソだでや。
  子どもの時からなんだに泳ぎが上手でいただべに… 
  しめ殺しただ。警察のやつがしめ殺しただ。
  しめられて息がつまって死んでいくのが、
  どんなに苦しかっただべか。… 
  ああ、いたましや。いたましや。」
 と泣きながら
 「これ。あんちゃん。もう一度立てえ!
  みなさんの見ている前でもう一度立てえ!」
 と叫ぶ。

★遺体の検診
 安田博士の指揮のもとで検診がはじまる。
 すさまじいほど青ざめた顔はでこぼこになり、
 げっそりと頬がこけ眼球がおちくぼみ
 十歳も老けて見え左のこめかみには
 バットで殴られたような跡がある。
 首にはひとまきぐるりと細引きの跡。
 両方の手首にも縄の跡。
 下腹部から両足の膝頭にかけて
 墨とべにがらを混ぜて塗りつぶしたような
 ものすごい色に一面染まっている。
 内出血により膨れ上がっている。
 ももには錐か釘を打ち込んだような穴が
 15~6箇所もあいている。
 脛にも肉を削り取られたような傷がある。
 右の人差し指が反対側につくぐらい骨折。
 背中も一面の皮下出血。
 上の歯も一本ぐらぐらとぶら下がっている状態。
 内臓を破られたために大量の内出血が
 すでに腹の中で腐敗し始めていた。

★警察側の説明
 親戚の小林一二さんが警察につかまえる時
 あばれたので多少傷ができ
 検束の時も逃げようとしたので縄をかけたが
 心臓マヒとは無関係と言われ
 信じてそのまま遺体を引き取ってしまったと悔し涙を流す。

★十時過ぎさらに人が集まる
 死に顔を油絵で書いたり、デスマスクをとったり、
 写真をとったりする。
多喜二の死

★伊藤ふじ子がくる
 潜伏中に一緒にいたらしい女性がきて最期の別れをして夜中に去ってゆく。

★翌朝
 小樽時代の愛人で一度は結婚していた美しい田口滝子が
 妹と妹の友人の三人で訪ねてきた。
 身分が低いことを多喜二のためにならないと
 身を引いた滝子も帰っていった。
 友人たちが花などもって弔問にきて葬式らしくなる。

★遺体解剖
 東大と慶応はすでに警視庁の手がまわり断られる。
 慈恵医大が引き受けてくれて寝台車に遺体を乗せて向かう。
 医大は警視庁からの圧力にいったん引き受けたのに
 頑として受けられないと拒否。

 およそ天皇制の絶対的支配のもとにおかれていた戦前の日本では
 どんな学問研究の自由も、いかなる大学の独立も
 あったものではなかったのだ。
 それはただ支配階級の利益に奉仕する場合にだけ
 許されたのだ。
 少しでもその利益に反する場合には、学問の自由はおろか
 遺体解剖の自由さえもない。
 このようにして私たちは、
 小林多喜二の遺体をもう一度寝台車にのせて
 むなしく阿佐ヶ谷の家に帰ってきた。


★非常警戒態勢
 家の周りは多数の武装警官によって非常警戒態勢がとられ
 留守番の人たちは家から追い出され、
 弔問客は杉並署に検束され
 留置場は人があふれた。
 家のものと親戚の人々と江口と佐々木孝丸だけが
 出入りを許される。
 たくさんの花が届くが、
 もってきた人たちも留置場に入れられた。

★告別式
 2月23日の午後1時から書斎兼居間でおこなわれた。
 不当な検束がつづき弔問の人も新聞記者も路地に入れない。
 親戚たちだけの寂しいお葬式になった。
 江口が司会をしたが涙があふれ警視庁の中川の言葉が浮かぶ

 自分たちは天皇陛下の警察官だ。
 共産党は天皇制を否定する。
 天皇制を否定することは天皇陛下を否定することだ。
 そんなやつらはつかまえしだいぶち殺してもかまわない。
 このことを小林に伝えておけ。


★本当の敵は
 警視庁の下っ端のナップ係りの警部なんかに復讐しても
 なんにもならない。
 彼らをして天皇の名において多喜二を
 こんな残忍な拷問で殺させたのは何か。
 日本を明治以来息のつまるほどの専制支配化においてきた
 絶対主義的天皇制。


★火葬場へ
 家から火葬場へ行く時警察の自動車がついてきて、
 沿道にも武装警官。
 大勢の人たちが街にでて多喜二を見送ってくれた。
 午後三時に杉並区の火葬場で焼かれて骨にされた。

★直接の下手人
 須田と山口という大男が多喜二を殺した。
 焼き場から帰ろうとしていると須田が江口をつかまえて
 「よくも小林を東京じゅう持って歩いて
 共産党の宣伝をしてくれたな」
 と検束しそうになったので
 骨壷を抱いて車に飛び乗って難を逃れた。

★三年後
 多喜二と一緒につかまって市ヶ谷刑務所にいた
 詩人の今村恒夫が膀胱結核で保釈になり
 会いに行き当時の話を聞く。

★つかまった様子
 共産同盟の責任者に会う用件があり
 二人で出かけたら特高三人がいた。
 二人が同じ方向に逃げ、
 多喜二は着物で道がぬかるんでいたので追いつかれ
 特高が「どろぼうだあ」と叫んだので
 近くの大勢の運転手に取り押さえられた。

★築地署にて
 水谷特高主任や悪名高い特高係の芦田が取り調べ
 警視庁からはナップ係の中川警部が須田巡査部長と山口巡査をつれてくる。
 よってたかって残忍な拷問が始まる。
 丸裸にされた小林はあくまで頑張り続け、
 床に寝かされて上から踏みまくられ内臓が破れた。
 四時過ぎに死にそうになったのをみて
 調べ室から留置場におろした。

★最期の様子
 同じ留置場にいた鈴木伝三郎の言葉

 それは寒い日の午後二時ごろだった。
 (江口注・四時ごろの記憶違い)
 ひとりの男が二人の刑事にかかえられてはいってきた。
 ひとめ見て、ひどくヤキを入れられたことがわかるようなやられ方で
 ふらふらして歩けなかった。
 わたしはチンピラで不良狩りにあい
 築地署の留置場の第四房に入れられ雑役をしていたので、
 看守とふたりで『この男』をうけとり、
 両側からかかえて監房の中に入れた。
 刑事は『これは共産党のえらい者だ。
 雑役、しっかり見ておれ』と言った。
 もちろん名前はわからなかった。
      … 略
 そのうちにすやすやといびきをかいてねてしまった。 …
 あんまり静かなので顔をのぞきこんだら
 どうも息をしていない。
 ゆすっても目をあけない。
 体に手をあててみると冷たくなっている。
 いつのまにかみんなの知らないうちに
 死んでいったのだ。 


★スパイにより
 留置場では、その日の朝から
 「今日は小林多喜二がつかまってくる」
 という噂が流れていた。
 共産青年同盟の中央委員長であった
 スパイの三船留吉がおびき寄せた。

★多喜二の労農葬
 3月15日に築地小劇場で行われた。

 *******************************

 多喜二虐殺を報じる1933年28日付「赤旗」

 *******************************

治安維持法(天皇制を批判するものは許さない)によって
200名近い人が獄死した。
実際に手を下した人たちは誰一人処罰されなかった。
(天皇制を護持したから)

病気、その他で獄死した人が1503人。

戦前、戦中の国民の思想弾圧に大きな役割果たした治安維持法。
普通選挙権と抱き合わせで
反対派が当選するのを阻止するために出来た恐ろしい法律。

戦後GHQによって、やっと廃止された。

言葉を奪われたり、考える自由を奪われた人間が
どうやって抵抗できるのか。
それは許されないことだがテロという行為をせざるを得なくなる。

今電車に乗るたびにテロ防止を呼びかけているが
過去のテロをやった、そこまで追い込まれた人たちの存在を
気付かなければいけない。

言葉を失い、考える自由を失った人たちが
どう自分とむきあってゆくか。
テロに走らなければいけなかった状況に追い込まれたことを
過去の歴史から学ばなければいけない。
国民がテロに走らないですむような社会を
これからも維持しなければいけない。

 *******************************

小林多喜二の母の語りで多喜二の人間的な魅力が描かれ
心をゆすぶられます。
母 (角川文庫)母 (角川文庫)
(1996/06)
三浦 綾子

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 *******************************

冬の時代、他の文学作品にも弾圧があった。

与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」など。

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昭和 | 22:06:35 | Comments(22)
冬の時代
 ◆先生の口癖 その2

 大切なことはみんな生徒に教えてもらいました。


  大切なことはみんな生徒に教えてもらいました

 <助け合うことの大切さ>
 17歳で小学校の代用教員になった時、
 出来ない子に出来る子が自然に教えてあげるのです。
 出来ない子がわかると嬉しそうで
 教えた子もそれを見て嬉しそうでした。
 みんなとても仲良しでした。

 <何故だろうと考えることの大切さ>
 小学校でakikoという利発な女の子が
 「先生、4の次は5と誰が決めたのですか?」
 そう質問されてハッとしました。
 大学に行くきっかけになりました。

 <きちんと向き合うことの大切さ>
 高校の教師をしていた時先生たちからも
 怖がられている子がいました。
 その子は授業が始まる前にわざと教室の前で
 邪魔をするような場所にいたりしました。
 卒業式の日その子がつかつかと歩み寄り
 すっと手を出して握手を求めてきました。
 「入り口で目を合わせないのは先公
  『授業だよ』と声をかけて行くのは先生」なのだと。
 子どもはよく見ています。

 本当に大切なことは、みんな生徒に教えてもらいました。 
                              
 

冬の時代 ~多喜二虐殺(1933)の時代背景~

★大逆事件から始まった冬の時代

 1910(M43)5.25~6.1 冤罪の大逆事件の容疑者が次々逮捕される

 1911.1.18 判決で2名に無期
        22名に死刑(翌日明治天皇の御仁滋で10名無期に減刑)

★石川啄木の時代を見るまなざし

 1911.1.18 判決の日の興奮を日記に書き記す「日本はもうダメだ」

 1911.6.15 遺稿「時代閉塞の現状」 青空文庫より

 我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。
 強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。
 現代社会組織はその隅々(すみずみ)まで発達している。
 ――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、
 その制度の有する欠陥(けっかん)の日一日
 明白になっていることによって知ることができる。
 戦争とか豊作とか饑饉(ききん)とか、すべてある偶然の出来事の
 発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は
 何を語るか。
 財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦(ばいいんふ)との
 急激なる増加は何を語るか。
 (略)
 かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、
 ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に
 到達しているのである。
 それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、
 じつに必至である。
 我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞(へいそく)の現状に
 宣戦しなければならぬ。
 自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷(や)めて
 全精神を明日の考察 ――我々自身の時代に対する組織的考察に
 傾注(けいちゅう)しなければならぬのである。


 時代の先を見ながら自分たち自身が今置かれている現状をどう捉えて
 それをどういう風に切り拓いてゆくか、
 そのために自らに問いかけていく必要があるということが出ています。
 
  詩「ココアのひと匙(さじ)」 せせらぎ文庫より

 われは知る、テロリストの
 かなしき心を――
 言葉とおこなひとを分ちがたき
 ただひとつの心を、
 奪(うば)はれたる言葉のかはりに
 おこなひをもて語らんとする心を、
 われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を――
 しかして、そは真面目にして熱心なる人の
 常に有(も)つかなしみなり。

 はてしなき議論の後の
 冷(さ)めたるココアのひと匙(さじ)を啜(すす)りて、
 そのうすにがき舌触(したざは)りに
 われは知る、テロリストの
 かなしき、かなしき心を。


 判決があって、幸徳たちがこの世を去った5ヵ月後に出された詩。

★徳富蘆花の演説

 徳富蘆花 wikipedia
秋水の死刑ののち、二人の一高生に頼まれ大逆事件についての演説を頼まれた。

 「 謀叛論」草稿

 舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ
 苦しまぎれに死物狂(しにものぐるい)になって、
 天皇陛下と無理心中を企(くわだ)てたのか、否か。僕は知らぬ。
 (略)
 大逆罪の企に万不同意であると同時に、その企の失敗を喜ぶと同時に、
 彼ら十二名も殺したくはなかった。生かしておきたかった。
 彼らは乱臣賊子の名をうけても、ただの賊ではない、志士である。
 ただの賊でも死刑はいけぬ。まして彼らは有為(ゆうい)の志士である。
 自由平等の新天新地を夢み、身を献(ささ)げて
 人類のために尽さんとする志士である。
 その行為はたとえ狂(きょう)に近いとも、
 その志は憐(あわれ)むべきではないか。
 (略)
 国家百年の大計からいえば眼前十二名の無政府主義者を殺して
 将来永く無数の無政府主義者を生むべき種を播いてしもうた。
 忠義立(ちゅうぎだて)として謀叛人十二名を殺した閣臣こそ
 真に不忠不義の臣で、不臣の罪で殺された十二名は
 かえって死を以て我皇室に前途を警告し奉った真忠臣となってしもうた。
 (略)
 諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。
 諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。
 自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。
 新しいものは常に謀叛である


 国家犯罪者を志士扱いした演説について文部省が責任を問い
 当時の一高の校長新渡戸稲造が
 「一切の責任は私にある」と毅然として答えた。
 
 明治末、日露戦争の終わったあとから大正デモクラシーが始まった。
 その最中の知識人のきちんとした抵抗であった。

 そんな時代に詠まれた歌『昭和万葉集巻2』1930(S5)~1933(M8)
☆冬の時代~小林多喜二に関する歌~
冬の時代
・格闘したから道へ倒れたから捕縄をかけたから
 それで四時間の「心臓麻痺」がおどうして起こった。
 死体の解剖まで拒絶され、病院という病院からみな拒絶され。
 告別式の参列者まで総検束 その中にはほんの一読者だった
 花束を持ってきた女性さへ     (S8.5矢代東村)

・汝(なれ)の為こころばかりの歌をよみ眼がしらあつく一日ををり
 骨となりひとりの母に抱かれ帰り港の小樽は汝に寂しき
                       (S8.5 本間源治)

・階級の敵も味方もたたへたる君が誠実は昔より然りき
                       (山下秀之助)

・小林多喜二を悼む文よめば削除されてきれきれなるが
 腹だたしかり              (安倍俊子)

・たゆみなき時世のなやみ遂にして若き人らは捕はれ行けり
                       (松村英一)

・思想犯くみするゆゑに栄職を罷めゆくひとをまのあたり見つ
                       (S8.6 竹尾和一)

・時潮に投ぜんとするにあらねども をりをり思ふ社会機構のことを
                       (田中義美)

・その父母の嘆ふかからむ才豊かに心あたたかき友がゆく道
                       (S7.6 関みさと)

・改造を読みをる姉に老父はマルクス主義を恐れてをりぬ
                       (S8.2 鈴木正義)

・わが思想説くすべもなし父も母も悪魔の業と我に嘆かふ
                       (S7.4 内田穣吉)

・真実に飢えた心をもてあまし動物園に来てけだものを見る
                       (内海繁)

☆きびしい生活

・給料(かね)袋を投げいだしつつ給料の値下されしを母に告げたり
                       (S6.4 志田仁太郎)

・五年間に二度の減給二度の昇給ありたれどつひに初任給に及ばず
                       (S8.9 金剛地徳次郎)

・村税が集らぬと先月の俸給は未だ我らに渡らず
                       (S6.5 両角七美雄)

・出納簿開きてみつつ憤ろし収入欄に記するものなき
                       (S8.6 時松好昌)

・窓口に保険解約日々多し険しき世相おもひやらるる
                       (S7.6 小谷種一)

・職工等未払い賃金取る来ぬ 家内(やぬち)にひびくその荒きこゑ
・職工等いひつのれども腹立てず言葉尽くせる夫は忍べり
                       (清水千代)

・失業してよるべなかりし我友の犯せし罪は憎めざりけり
                       (S6.2 檜田陽七)

・失職して妻をカフェーに働かせるありふれたるしくみが
 友を死なせり              (S8.1 滝沢八郎)

・この紹介状ひとつひとつ持ちて東京中巡らば我に職ありといふか
                       (S6.12 真島武)

・求職の看板かざし自ら該当に立つをとこありけり
                       (S6.1 三枝凡平)

・とぼしき財布をおもひ就職の依頼のかへり電車にのらず
                       (S8.6 秋田富士彦)

・貧しき子は押さなくて知りをれり 丁稚(でっち)に行けと云ふをうなづく
                       (桐田蕗村)

・髪売りて米を買ふとふあはれさの今の世にありと新聞は報ず
                       (S6.3 大友虹路)

・病父(やむちち)の蒲団さえ差し押さえられし今日のけはしさや
 来るところまできぬ          (S8.4 柴谷武之佑)

・職のなきルンペンの群れたちゐたり雪もよひせる日のガードの下に
                      (S7.1 桑本ちゑ子)

・求人放送にのぞみをつなぐ人ならむ つぎつぎにラヂオの前に足を止むる
                      (S7.8 小島清)

・夜更けしラヂオの前にいくたりか職業紹介を聞きつつ去らず
                      (武田尊市)

☆労働争議

・工場の堀に貼りたる争議団のびらは夜明けぬうちに剥がされぬ
                      (S6.2 岩沙政一)

・朝霧をともしみ来れば貼られたる檄文はがす巡査おりけり
                      (S6.1 工藤頼彦)

・薬缶提げ帰るわれに女工たらはせはしく罷業のビラ握らす
                      (S8.5 香川頼彦)

 
こういう厳しい生活を詠った歌の時代に
小林多喜二は「蟹工船」などの筆をすすめていった。


昭和 | 10:47:12 | Comments(0)
昭和初期の世相
 ◆先生の口癖

 私は皆さんと共に学べて、本当に幸せです。
 退職してお声をかけていただき、お蔭様で家にこもって
 テレビを観るだけの老人にならないで済んでいます。
 ありがとうございます。


 先生は北浦和のくらぶルーム暖の近現代史講座の他にも
 蕨の長く続いている歴史講座や宮原の女性史講座、
 新座の「憲法を読む会inにいざ」でも講師をなさっていらっしゃいます。
 歴史だけでなく文学についての講義もしてくださいます。
 単発の講座でもよく講師を頼まれていらっしゃって
 7.25(金)には浦和コルソの『平和のための埼玉の戦争展』で
 先生の体験を下に作られた紙芝居「さくら」が上演され
 オリジナル「さくら」の歌の演奏と先生の短い講演がありました。

 戦争で死んでいった方たちの想いを決して無駄にさせない
 その想いから暑い日は汗をかきかき、寒い日はマフラーをまいて
 ボランティアでくらぶルーム暖まで通ってくださっています。

 二月に鎌倉に課外授業に行った時は蕨と新座の講座の方もいらして
 新座の講座の方とはその後もずっとメールのやり取りしています。
 先生のおかげで“共に学ぶ”お仲間とも出会えました。
 「仲間がいることの素晴らしさ」も先生はいつもおっしゃいます。

 下の写真は「憲法を読む会inにいざ」の会報で先生の講義録です。
 お仕事を引退なさった方の作られたものだそうで
 その立派さにびっくりしてしまいました。
憲法を読む会inにいざ 会報

 先生の夢は奥様と大好きな京都に引っ越して大学院に入って
 思う存分学びたいということです。
 早く夢がかないますようにと願いつつも
 いつまでもずっとお元気で講義していただきたい
 と思っています。

                              ひさごん
 

不況から生まれた文化、思想について

★不況の労働者の生活

・都会で失業者の急増
 (エコノミスト誌の推定で20~30万人)
       ↓
 帰農者が増え農村の窮乏に拍車がかかる

・賃金不払い、カット

・東京では

 職業紹介所には深夜2~3時より求職者が押し寄せ3人に1人職に就く
 しかし9日に1日の割で就労

 低賃金、労働時間の延長
 (植民地労働力と労働条件の移入)

 1927(S2) 女子賃金は男子の39% 日給50~70銭
        
  (当時の物価) カレーライス7~10銭 銭湯6銭 市電7銭
            熟練工、大工月給換算50円 少年工10円
            大卒初任給50円 

 フレデリック・ルイス・アレン(米のジャーナリスト)
 「オンリー・イエスタディ 1920年代のアメリカ」27年刊

 『不況とは単なる経済状態以上のものである。
  それは一つの精神状態を表す。
  その時代に特有の思想文化状況を生み出す』


          ↓
 マイナスの文化、思想が誕生する 

 エロ・グロ・ナンセンス モダン


★明治の仏英の文化から、昭和は米の文化へと

 アメリカ文化とは最も進んだ資本主義社会にあう文化

 実利的=アメリカニズム アメリカ主義
 機械文明に影響受ける 大量生産大量消費
 日本にもそれに即応するような生き方が市民に広がる

★日本人が憧れた消費文化

・自動車、映画、ラジオ

・カフェ、ジャズダンス普及

 大宅壮一の言葉『モダン層とモダン相』1930年刊
 
 「モダンライフとは感覚的満足を目的とする
  一種の消費経済であり感覚文化である」

 「モダンライフとは刺激はあるけど感激はない。
  昨日もなければ明日もない。
  あるものは人工的な刺激。
  人工的な刹那があるだけだ。」

 「消費生活においてトップを切るものは常に没落した
  中産階級である。
  上流階級の享楽生活は回顧的であり
  下層階級のそれは追随的である。
  前者は歌舞伎と謡曲と待合を愛し
  後者は剣劇と安来節と遊郭を喜ぶ。
  しかるに没落した中産階級であるところの
  有識無産階級は西洋映画とスポーツとカフェーの中に
  生の喜びを見出すのである」


★なぜ刹那に生きるのか

 金融恐慌がおこり預金が保障されない。
 後を追うように昭和恐慌が襲ってきた。

 そんな中で刹那だけを追い求めてしまった。

★そんな時代にどんなことがあったのか

・1927年(S2)

 <流行語> モボ・モガ

 3.27 アメリカから“青い目の人形”(約1万個)贈られ歓迎会
     返礼に日本人形贈る

 5.30 東洋モスリン亀戸工場妥結
     女工が初めての外出の自由獲得

 7.24「ぼんやりとした不安」という言葉を残して
     芥川龍之介、服毒自殺。

 11.19 北原泰作二等卆、名古屋練平場で天皇に軍隊の差別直訴

 12.30 日本発の地下鉄開通(浅草~上野 約2.2キロ)

1928(S3)
 
 <流行語> マネキンガール 人民の名において

 3.15 共産党 大弾圧

 3.25 全日本無産者芸術連盟(ナップ)結成

1929(S4)

 <流行語>大学は出たけれど=就職難

 全国の大学、専門学校の就職率 50.2%
 1923(T12) 関東大震災のあった年は79.8%
 1927(S2)  金融恐慌の年は64.7%
 1931(S6)  30%台になる 不況が数年間続く

 初任給

・三菱、住友の財閥系ではあまり大きな差別がなかった
 (役人と違い人間の能力の開発を考えたと思われる)


1930(S5)

<流行語>ルンペン、銀ブラ、エログロ、ナンセンス、OK

 傾向映画-1930年代に左翼思想、時代批判の映画

 浅草で5週間連続映の新記録。「何が彼女をそうさせたか」
 孤児院で育った少女が世間の荒波にもまれながら
 虐げられ最後には放火犯になってゆく物語。
何が彼女をそうさせたか クリティカル・エディション何が彼女をそうさせたか クリティカル・エディション
(2008/03/29)
高津慶子

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 映画「下郎」
 忠実にご主君に仕えていた者が最終的に主君によって
 死に追い込まれてゆく。
 人間として生きる権利を奪われた最下級の人間の物語。

 4月 初の紙芝居始まる(浅草、水松武雄)

 11月24日 警視庁、エロ演芸取締り規則を各署に通牒

★今に通じる生活の様相

 刹那的に享楽主義に走る人たち

 大宅壮一『モダン層とモダン相』1930年刊

 「今日のサラリーマンの前には100%まで
  自我を提供して忠実なる機会となるほか無いのだ。
  サラリーマンが自由となりうるのは、
  その消費生活においてのみである。
  彼らは毎月末に会計から受け取る一定のサラリー以外に
  なんら収入の道を持たない。
  しかもサラリーの額は彼自身の意思から独立した
  他の人の意思によって決定される。
  彼に許されているのはその限定された額をいかに配分し
  その部分部分をもっとも効果的に消費することだけである。
  消費生活の振幅の広い点にかけてはあらゆる社会層のなかで
  サラリーマンが第一である。」

 青野季吉『サラリーマンの恐怖時代』1930年刊

 「サラリーマンの恐怖時代であり…誰一人として明るい光明的な気持ちで
  生きてゐるものはなく…
  その物質生活の窘窮(きんきゅう・苦しみ行き詰まること)
  その精神生活の萎縮、そしてただあるものは不安であり恐怖である」



★抵抗する知識人たち

 モダン相の上に位置する、日本の明日を考える人たち

 大宅壮一『中央公論』1930年12月

 某大印刷会社では「女」と「階」という字の二つの活字が
 需要が急激に拡大して1万個のストックが出払っている。


 ※「女」…モダニズム エログロナンセンス
       伝統的な社会的、文化的構造や規制の道徳、権威に
       反抗し、そこからの脱却をはかる精神的傾向。
       自由や平等、現代的な市民生活、機械文明などを尊重する。

 ※「階」…マルキシズムの隆盛と関係
       28(S3)改造社「マルクスエンゲルス全集」
       白揚社「レーニンの主要著作集」刊行
       三木清、羽仁五郎ら雑誌「新興科学の旗の下に」刊行

       歴史学では史的唯物論の立場から日本資本主義研究に
       新生面を切り開いた
       野呂宋太郎、服部之総、平野義太郎、山田盛太郎ら

       「日本資本主義発達史講座」の講座派
               ↑
               ↓   (この論争は強烈な知的刺激与えた)
       雑誌「労農」による労農派

プロレタリア芸術運動

・文学  徳永直 「太陽のない街」
     小林多喜二 「蟹工船」
     窪川(佐多)稲子 「キャラメル工場から」

・演劇  新劇界がプロレタリア演劇の上演開始
     劇団築地小劇場と新築地劇場が
     「生きる人形」「何が彼女をそうさせたか」
     「磔茂佐衛門」「西部戦線異状なし」上演

     ※大衆との結びつき欠き31年ごろから衰退

農村青年たちの読書
 
・大正教養主義からマルクス主義へ

 長野県清里村1922(S11)清里村報 愛読書「出家とその弟子」など

 1927(S2)清里村図書館便りでは前年末三ヶ月の読者数438人
 貸し出し図書数788冊
 「読み物として文芸物が依然多く、春季に比べて社会問題及び
  思想的なものが多く、次に位せるは一般青年諸君がいよいよ
  社会の問題に対して心を向けてきたといふことを物語るもので
  あると思われます。」
  28.2.1「資本主義に於ける農業」
  29.5.20「資本主義社会と農民の覚悟」
  30.3.10「未来は青年のものだ」
  32.10.25「昭和農業青年の理想」

・25歳の伊沢さんが別所温泉の高倉輝に教えを請うたりして
 図書館便りを書いた

図書館便りにのった「未来は青年のものだ」

 略…不合理な地主うあ資本の搾取の下に耐え忍んで居た時代は
 永久に過ぎ去ってしまった。惨虐な搾取機構の下に半奴隷的生活を
 続け行く農村青年男女をしてついに年労働階級と違わず
 遅ればせながら、次第々々んい或いは急速に
 プロレタリア意識を呼び起こし、忍び得ない生活条件に対する闘争に
 彼等を結合せずにはいかなかった。…略


※1928(S3)以降、浦里青年会の幹部も上田自由大学(講師高倉輝)
  の聴講生として参加し、上田小県地区の青年たちとともに
  社会主義思想に急速に接近していたのである。

 ※欧米の30年代の知識人も世界恐慌とナチズムの台頭の時代に
  急速に社会主義に接近していった。
  日本だけでなく世界的広がりの中での抵抗だった。

★都市化の進展

・1930(S5)国勢調査 東京市の人口 495万9300人
                   (1920 335万8000人)
 10年間に旧市内人口減、郊外の人口急増
 ~中野、杉並、世田谷、三河島、王子、等(省線JR)~

 ※市電、乗り合い自動車など交通機関の発達によって通勤圏拡大
 ※関東大震災による被害者による大量移住が重要な要因

鉄道図


・1932(S7)10 旧中野町と旧野方町が合併して中野区として誕生
          東京15区が35区に増加した。
         
 ※中野区は農民の町からサラリーマンと労働者の町へ変貌

服装の変化

・恐慌が収まりやがて満州事変にむかう昭和の始めに
 和服から洋装化していった。男性が先。
・木綿のものから絹織物の外出着。

新しい盛り場・新宿

買い物と娯楽の民衆センターとして四谷・神楽坂にから
繁華を奪い銀座につく盛り場としての地位を確定した。

・4分ごとに発着する中央線、6分ごとの山手線
 小田原急行電車、信州・甲府からの列車で
 乗降客18万4700人

・三越、パンとライスカレーの中村屋、海と山の幸の二幸
 映画館の武蔵館、新宿松竹、新宿歌舞伎座

ビル建設ラッシュ

・帝都復興事業(当時の金額で7億の予算)

・総理大臣官邸、明治座、三井本館、丸ビル、日比谷公会堂
 東京中央郵便局、松坂屋上野店、三越新宿店、白木屋
 上野停車場、新宿武蔵館、警視庁、新聞社本社
 資生堂本社、など156のビル建設
 昭和通、隅田川にかかる橋が全て鉄橋に変わった。
 

昭和 | 00:22:01 | Comments(2)

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