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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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明治の祝日の作り方
明治に作られた紀元と祝日
9/14
      9月14日10期一回目
12月8日の開戦の詔書ですが、詔書に出ている言葉というのは
人間の言葉でなく神の言葉なのです。

豈(あに)朕カ志ナラムヤ → 戦争責任回避

徳富蘇峰が最終的に仕上げる時に下記を付け加えた

皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ → 八紘一宇=世界全体が一軒の家
(上はウエでなくカミと読む)

詔書を見ても日本という国の主権が国民でなかったことがわかります。 


★日本の紀元の制定 1872(M5)11.15(旧暦) 

 日本がいつから始まったのかを決めたのは明治時代の初めであった

 神武天皇の即位年をもって紀元とする 即位日1月29日(太陽暦)

      どのように紀元が決められたのか

辛酉(しんゆう)年
中国では辛酉の年に大きな変化があるという説=箴緯説

1元=60年 21元=1蔀(ぼう)=1260年

「日本書紀」によると西暦601年(推古9年)が辛酉の年
推古天皇9年から1蔀、つまり1260年を遡った辛酉の年が
大きな変化があった年として神武天皇の即位の年と定めた

西暦1940年(S15)が紀元2600年となった

参考サイト 「『神の赤子』になり損ねた少国民物語」2006年

1873(M6)1.4人日(じんじつ)五節句を廃止

   ・人日(じんじつ)1.7 人の日 七種(ななくさ)の粥を祝う
   ・上巳(じょうし) 3.3 女児を曰く節句 桃の節句
   ・端午       5.5 端は初めの意 午は五 男子の節句
   ・七夕(しちせき)7.7 奈良時代から行われ江戸時代に民間に広まる
                天の川で牽牛星と織女星が七夕の夜に会う
   ・重陽       9.9 菊の節句

   ※庶民のお祝いを無くしてしまった

同年3.7 神武天皇即位日を紀元節と称す

    国が決めた紀元節と天長節を祝うことになった

同年10.14 祝祭日を定め休暇とする

   ・元始祭       1.3 天孫降臨 天皇の位の元始を祝う
   ・新年宴会     1.5 天皇、豊明殿で皇族、大勲位、外国使臣らと宴会
   ・孝明天皇祭   1.30 67(慶応3)1.30没 36歳
   ・紀元節      1.29 → 計算しなおして2月11日に変更
   ・神武天皇祭り  4.3
   ・神嘗祭      10.17 当年の新穀を大御饌(おおみけ)として天照大神に
                   奉る伊勢神宮の祭儀
   ・天長節      11.3 
   ・新嘗祭      11.23 天皇が新穀を天神、地祇にすすめ親しく会食する儀式
                  天皇即位の年は『大嘗祭』=天皇の神格化    

78.(M11)6 春分の日、秋分の日のアレンジ
  
   皇霊をもちこみ春季皇霊祭、秋季皇霊祭とする
   彼岸の中日、前後7日間が『彼岸会』

   ※江戸時代の庶民の中で年中行事=祖霊信仰 → 神道行事に

1912(M45)9.4 休日に関する勅令

   祝祭日のうち、孝明天皇祭がなくなり
   明治天皇が亡くなった日明治天皇祭に
   天長節が11.3から大正天皇の誕生日の8.31へ

1913.7.18 休日に関する改正
 
    10.31を天長節に変更する(理由は謎)

    ※その後、孝明天皇と大正天皇の祝日は無くなった

 1927(S2)1.25   3.3に明治節といいう新しい祝日を作る

 天皇絶対主義の時代が始った

 ☆田国男は公権力による民衆の祭祀代行を否とした
 
 常民とされる私たちが先祖供養することに公権力が介入し
 江戸時代まで庶民の中にあった素朴な信仰を
 皇祖信仰に摩り替えられてしまったことに異を唱えた

 ☆丸山真男の講演で

 明治維新の精神的なスタートは
  ・尊王論 
  ・公儀世論
 
 江戸時代はある意味、地方分権であった
 中央に全ての権力を集中させる → 尊王
 
 ※中央集権化は政府によって支配しやすい

公議輿論と薩長土佐の違い

 尊王論者の目指すもの
   ・中央集権国家を作る
   ・外に向かっては国権を拡張(朝鮮半島などへの進出)

 公議輿論とは政治に関する関心を広め多くの意見を集める
 幕末にペリーが来た時老中阿部正弘が諸大名に意見を聞いたのが
 最初の公議輿論と言われている

 薩摩長州は力によって幕府を倒そうとしたが
 土佐などは公議政体論で議会制を主張した

 薩摩は死の商人からたくさんの武器を買っていた
 イギリスの死の商人たちは倒幕戦争でさらに武器が売れるのを願う
 鳥羽伏見の戦いで圧倒的な武力の勝利で新撰組壊滅

 篤姫が武力でという薩摩を押え江戸城無血開城したことにより
 江戸市民の命を守り日本が焦土となるのを防ぎ
 和宮も京都の御所が薩長に襲撃されることなく助かった
 
 竜馬を殺したのは見まわり組と言われているが怪しい…
 高杉晋作や坂本竜馬が維新を生きていたらきっと日本は変わっていた
 権力を目指す者は、無いものを作り出して怖い


敗戦後に決まった祝日

   元旦      1.1
   成人の日   1.15
   春分の日  
   天皇誕生日  4.29 
   憲法記念日  5.3
   こどもの日   5.5
   秋分の日
   文化の日    11.3
   勤労感謝の日 11.23

建国記念日の祝日化の経緯

 1957(S32) 衆議院で自民党が紀元節復活をねらって建国記念日出す
 
 1965(S40) 再度提案

 1966(S41) 野党反対したが敬老の日と抱き合わせで建国記念日できる


 明治政府は休日の制定にあたって国民生活に密着した行事を無視して
 天皇制の箔付けをするために紀元を作り出し
 それに基づいて休日を作り
 日常生活に天皇制を浸透させるようにした

  

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明治 | 03:20:14 | Comments(0)
明治の国づくりの骨格
明治の絶対主義体制の成立と整備
7/13

  7月13日善方先生
天皇制イデオロギーの目標をやろうと思っていたのですが
資料を読んでいく中で、「蟹工船」を読んだこともあり
資本主義社会と天皇制の関係を理解しておかなければと思いました。
経済面から見た天皇制のテーマはこれからも時々取り上げて
敗戦まで継続してやっていこうと思っています。


天皇家は日本一の資産家であった

敗戦翌年の天皇家の資産
1946.3 GHQにより公にされた天皇家財産は37億1563万円 
     (三井、三菱、住友の資産は平均3億~5億)

 長野県と同じ広さの山林を私有していた。御料林。
 それを売って株を買っていた。

天皇制の成立と絶対主義体制の整備

★何故江戸幕府が滅びていったのか

 産業革命による資本主義で力をつけた西欧諸国の植民地政策により
 江戸幕府もいつまでも鎖国をし続けていられなくなる。
 貿易によって経済力をつけ海外の情報を得た西南諸藩の下級武士たちが
 京都・大阪の商業ブルジョアジーと手を結び武器を輸入し
 対立する農業主体の東北諸藩を破り幕府を倒し新国家を造っていった。

 五箇条のご誓文の三、四番目は陋習(ろうしゅう)を破り知識を世界に求める
 
★新しい支配階級の急務事項

 ☆新支配階級の権威付けと支配制度の作成

 ☆民族的危機の回避(アジアの植民地化)

 新興勢力であり権威のなかった西南諸藩の新リーダーたちは
 新国家をつくるにあたって徳川幕府に代わる権威を探し
 幕府と一定の距離を保っていた天皇を国家統一のシンボルに据えた。

 ※当時の天皇は「新天子」祭主王、3万石の小領主であった。

 欧米各国の公使に天皇が支配者だと伝えた。「王政復古」

新しい国造り第一段階
明治維新

★民衆と天皇制イデオロギー

 京都以外の地域では民衆にとっては、将軍と藩のお殿様が権威。
 天皇はほとんど知られていない存在であった。

 ※本居宣長(1730~1801)の国学的尊王論、
  水戸学の儒教的尊王論が
 天皇が日本統一のシンボルになるという理論のバックボーンとなった。

 天皇を特別な存在だと知らしめるために国学、水戸学を利用。

 当時の町や村の豊かな資産家が国学を学んでいたので
 そこに集まる小作たちを思想的に天皇崇拝へと導いた。

★民間に天皇制イデオロギーに反対の思想、心情があった

 ☆民間宗教「天理教」「黒住教」など弾圧を受ける
        ↓
   「天理教
    教祖中山みき「谷底(民衆)文句変わるぞ」

   「金光教
    教派神道と認めるから国家神道に従えと国が圧力
    「天子さまも人間でないか」と教祖が答える

   「大本教
    出口なお「この世は弱肉強食の悪の世である。獣の世の中。」

   三つの神道

    ・教派神道 … 明治政府によって公認された。
              T3派(黒住教、天理教、金光教)など

    ・神社神道 … 宗教として扱わず国家神道として保護し     
              天皇崇拝、国家思想の統一に利用した。
              お稲荷さん、鎮守様など

    ・国家神道 … 民間の神社神道を再編成して皇室神道に結びつけた。
              祭政一致を唱え政策的につくりあげた。

 ☆九州などの隠れキリシタン

 ☆明治維新を迎えるまでに広がっていった「世直し思想」
  新しい国を共和制国家にしようという動き
         ↓
   薩摩、長州が民衆の運動を巧妙に潰した。
   「ええじゃないか」運動をおこして、ある日突然伊勢神宮のお札が舞う。
   そのお札を持ってゆけば金持ちのところの商品を持ち出せる。
   薩長と岩倉具視が画策して世直し思想の芽を摘んでしまった。

 ☆農業、商業に携わる人々の中で合理的な考え方をする人たちが
  育っていった

 ※新興宗教の思想的背景に福沢諭吉の言葉があった。
    「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」
    共和制国家の考え方の核。天皇中心ではなかった。
    

★平田篤胤の唱えた皇国

 当時農民は世の中が変われば御領林がもらえると期待していたが
 明治政府になると、勤労奉仕させられて、下枝さえもらえなくなった。
 不満がたまる民衆を抑えるために平田国学が利用された。
 
 篤胤「皇国は万の国の祖国である。六つの帝国の国の至高の国である。」

 平田国学を学んだ町や村の有力者たちは支配者にとって有難い存在。
 小作人たちは豪農たちに従わざるをえないので民主的な運動が押えられた。

★仏教はどうなっていたか

  江戸時代に出生届はお寺に出されていた。
  そのことにより何々宗の信者として支配体制に組み込まれていた。
  仏教も権力に従っていた。
  江戸時代から葬式仏教になってしまった。

  国家神道が大きな力を持った。
  元々八坂神社はお寺であった。全部壊して神社にした。

  ~宗教が国家権力と結びつくと堕落する~
  
  日本には信仰に対する熱い想いがないので節操のない暮らし。
  クリスマスを祝い新年には神社にお参りする。

新しい国造り第二段階
★明治14年(1881)の政変

 当時の国務大臣の大隈重信(佐賀出身の勤皇の志士だった)
 M14に民権の動きをみて憲法を制定し国会を開設することが
 必要でないかと閣議に意見書を出す。


 何故政変なのか?

 大隈は参議を免職になり薩摩と長州が藩閥として主要な地位を独占。

★「天皇」の粉飾と加工

 ・福沢諭吉の共和主義的な思想が変化してゆく。
      ↓
 天皇中心の考えを支えてゆく「帝室論」を発表。
 我帝室は日本人民の精神を収攬する中心なり。其功徳至大なり。
 我帝室は万世無欠の全壁にして人身収攬の一大中心なり。
 
 ・加藤弘之(東京大学初代総理=学長)

  「人権新説」を発表。
  ダーウィンの生物進化論の適者生存を説き天賦人権説を否定する。
  (日本の経済界で今も根強い)

新しい国造り第三段階
★憲法と教育勅語
1889年 明治憲法の発布
1890年 天皇により道徳を国教化

教育勅語

勅語とは全責任を天皇が負う。
詔書は副書が必要で、各大臣が署名し国務大臣が責任を負う。

教育勅語=天皇による道徳の国教化。
       100%守らなければいけない。
       神の言葉だから人間の言葉に変えられない。
       子どもは訳もわからずに覚えた。

教育勅語の目的は?

「一旦緩急あれば義勇公に奉し」=戦争になれば行く

第2の国歌「海ゆかば」
全てをなげうって命を捧げることを求められている。

★新国家支持基盤の造成

 ☆全国の豪農商層に天皇制イデオロギーの浸透
  
  ・招魂社による天皇への忠誠心
  ・天皇の地方巡幸の活用
  ・農民の年中行事に皇室行事の割り込み

 ☆1898(M31) 民放公布

  ・「家制度」の確立 ~個々の家が国の家に組み込まれる~

      頂点に立つ家=皇室=宗家 →赤子の家
                     ↓ 
                   赤子の家
             (赤子の家は分家、家族は国家ぐるみ)
ここより7/27の分 

  ・「宗家」直接血の繋がりがないけれど従わなくてはならない

  ・国の為に命を捧げなくてはいけない

  ・赤子にも差別がある

     臣 … 閣僚 将官 官僚 政商
     民 … 私たち

  ・天賦人権説を日本で初めて紹介した加藤弘之が「人権新説」

  ・福沢諭吉の「帝室論」の元になったのは平田篤胤(秋田出身)

★祖霊が国家神道によって系列化されてゆく

  神宮
   |
 官幣社(かんぺいしゃ)
   |      大65 中23 小5 別格8 計101社(靖国神社も別格)
  国幣社
   |
  府県社
   |
  郷社
   |
  町村社
   |
  無格社
   |
  私の祖霊=氏の神=非政治的神

私も家族も祖霊もみんな縦の系列に組み込まれている

 明治維新後の「新国家の支配制度と新支配階級の権威付け」
 王政復古
 西南諸藩の下士軽輩層 商業ブルジョアジー(問屋制)
                 
★1868(M1)神仏判然令(神仏分離令)

①祭政一致。
 神社神道を宗教として扱わず『国家神道』として国家が保護

②廃仏毀釈運動

 高知(土佐)藩 596社中451社整理された

★1870(M3)大教宣布の詔~神道国教化を推進~
 
★『町村是』制定運動中“神社の系列化”進行(日露戦争後1906~10)

 19万社の天皇に関係ない町村社、無各社が10万社に削減された
 
 伊勢神宮関係の三重と大逆事件に関わりの多い和歌山が多く削減

 ・三重県   10411社 → 989社
 ・和歌山県 3772社 → 879社
                     南方熊楠が抗拒罪で留置

 国家神道と民間の氏神信仰をきちんと区別して民間の方を極力整理し
 廃仏毀釈運動に伴って仏教から護法一機がおこった
 キリシタン弾圧がおきた

 ※国家神道に経典はなく詔のみ。内容を具現化したものが教育勅語。

 明治から人として生きる道を全て宗家(天皇家)と結びつけられた

 

明治 | 23:11:12 | Comments(2)

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