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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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満州事変後 その2
4/12続き
奈良のお蕎麦屋さんでもらったお箸 先日家族五人で
 京都奈良に行ってきました。
 常宿では仲居さんがいつも
 「おかえりなさい」
 と言ってくれます。
 柳生の里で美味しいにしん蕎麦を
 いただきまして、
 地元の杉で作った
 割り箸が素敵だったので
 お断りして貰ってきました。
 娘が箸袋を買ってくれて
 いつも持ち歩くようにしています。

満州事変・日本社会はどうなっていったか

 日本が起こした事変を中国がやったと思い込まされて
 人々は満州の権益を守らなければならないと思うようになり
 次第に戦争へと突き進んでゆきました。

◆子どもや作家はどう、とらえ見ていたか

「アサヒグラフ」1932.1.1号
東京泰明小学校尋常科5・6年生男女児童
『小学生座談会』より

記者 満州事変てどういふ事ですか?

加藤(浜三郎) 
    支那人が日本人に対して大変無礼であるから
    吾々日本の軍人はこれを懲らしめるために満州で
    支那ぐんと戦って居るんです。

    (中略)

記者 この頃国際連盟がやかましく言って居ります。
    国際連盟といふものをどう思ひます。


加藤 世界の臆病が集まって相談する所です。

    (中略)

記者 これから先き日米戦争が起こると思ひますか。

中島(孝子)
    わからないわ。

福沢(三郎)
    僕は起こると思ふ。
    アメリカ人は威張りくさって居るから、一度負かしてみたい。

加藤 米国人の高慢な鼻をヘシ折るために一度撃滅してみたい。

福富(ふみ子)
    私もそうして見たいわ。


直木三十五著「日本の戦慄」1932年

元々、アメリカは、日本人の移民を禁止したぢやないか。
だから、増加する人口のは決議を、満州に求めるのに、アメリカが、それまでに何うして口を出す権利がある。
アメリカ、それ自らが、北アメリカの東海岸の小さい土地しかなかったのに、必要上、テキサスをとり、カリホルニヤを取ったのだ。
土地を遊ばせてゐるインデアンの土地を、アメリカ人がとるのが肯定されるように、支那の土地を、日本がとるのはゝ事ではないか―――
支那人を、人間だと考えるから間違ふ。あいつは化物だ。化物退治には、君、武力の外にないんだ。
こっちが引込みや、いくらでも、毒気をふきかけてくるよ。
この連中が、こうした便衣隊(ゲリラ)をつかまへてやっつける心の中には、内地人に判らぬ復讐心が、ひそんでゐるんですよ。(中略)私も、よく、惨酷だとか、無茶だとか、聞きますが―――
第一に、こんな場合、一々便衣隊を殺すって、非難しますが、外国人に―――虐げられなかった毛唐に、この鬱憤が判るもんですか。
とにかく支那人は、人間よりも、狡猾な獣だと思へばいゝ。それと、隣り合ってゐる国が、何う、獣に対して、出て行くかだ。
これを、人間並みに、取扱はうとするから、が言う交換など一般外交論第一章で、躓いてしまふんだよ。


    
◆当時中国の状況は

事変勃発時、国民政府(蒋介石)は共産軍の包囲網に全力集中して
長江の数十年ぶりの氾濫で広範囲な地域に被災人口3000万人を
抱えていたので、中国東北部に対して行動を起こせなかった。
       
◆狂気の軍国美談「死の餞別」とその人気

1)1931年12月13日 井上清陸軍中尉(29)が満州へ出征する前夜
 妻、千代子(21)は喉に一尺の短刀を突き立て自刃。
 死を迎えた部屋の床の間に天皇、皇后の写真を掲げ、
 白木綿を部屋一杯敷き詰めて
 白羽二重を襟に覗かせた牡丹に七草の裾模様の黒の紋付を着て
 真新しい白足袋を履き、ほんのり薄化粧さえした姿で
 体を折るようにくずれていた。
 室内はきちんと片付けられ、台所には夫の前途を祝うべく
 赤飯と鯛の準備がしてあった。
 遺書が三通残されていた。

 ~夫への遺書~
 「私は嬉しくて嬉しくて胸が一杯でございます。
  なんとお喜び申し上げてよいやら、明日のご出征に先立ち
  嬉しくこの世を去ります。
  何卒後のことを何一つご心配くださいますな。
  私は及ばずながら皆さまをお守りいたしますから
  御国の御ために思う存分の働きを遊ばして下さい。
  願うところは、ただこればかりです。
  満州は寒いところと聞いております。
  ただ心配なのは貴方様は不断胃腸が強く御座いませんから
  冷やさないようにくれぐれも御注意あそばせ。
  封じました金四十円は彼地にいらっしゃいます兵隊さんがたへ
  お分け下さい。
  御成功を御祈りいたしております。

2)千代子さんの葬儀には母校の岸和田高女(大阪府)が臨時休校して
 全生徒参列、会葬者は1500余名。
 参会者のすすり泣きの中で、国粋大衆党総裁・笹川良一は
 「壮烈崇高鬼神を泣かしむ故女子の夫君に対する餞別死
 日本婦道中外に宣揚したるものにして大日本全国民を
 感激せしめたり」と弔辞を述べた。

3)この死は「死の餞別」(新興キネマ)、「ああ井上中尉夫人」により
 映画化された。
 ※1931.8.1国産初のオールトーキー映画上映

 この後、出征する恋人を励ます遺書を残して東洋紡の女工が
鉄道自殺した。

4)井上中尉夫妻の媒酌人の安田せい(44才)は翌32年3月18日に
 大阪国防婦人会を結成し駅頭で出征する兵士の湯茶の接待
 歓送に励んだ。
 年末の12月13日に陸軍省の指導で大日本国防婦人会に発展。

 ※愛国婦人会=上流階級 国防婦人会=庶民
 
      (安田喜彦「十五年戦争史学習資料 上」汐文社刊)

 ・他に参照・引用した文献
    大内 力「ファシズムへの道」日本歴史24(中央公論社刊)
    藤村 道生「日本現代史」(山川出版)
    北 博昭「日中開戦」(中公新書)
    秦 郁彦「日中戦争史」(河出書房新社) 他




女性も子どもも戦争に丸呑みされていました。
華々しく送りこむことが女性の役割だった。
元気に送り込むことが天皇への忠義であった。

私が忘れられないのが、中学生の時でしたが
出征する兄が下を向いているのがすごくイヤで軽蔑して
もっと胸をはって祝辞を受けるべきだと思いました。
戦争が終わって義姉になるはずだったひとから兄が
「国のためには死なない。罪を償うために死ぬんだ。」
と言っていたことを聞いて兄が死を覚悟し、
その死が名誉の死でないことをわかっていたのだと
その時初めてわかったのでした。



排外主義と軍国主義の高まり


◆世論の動向
 
 事変開始直後は、民衆の戦争支持の動きはまだ鈍く
 事変に対する疑問や軍部に対する批判を表明する者も
 いくらかいた。

 しかし10月24日国際連盟理事会で日本が完敗して一変。
 満州撤兵勧告案 13対1(日本)で可決。

 中国と連盟に対する敵意、憎悪と軍将兵への感謝・激励が
 一挙に噴出し、排外主義的、軍国主義的風潮が高まった。

 国連理事会の決議で日本軍の撤兵期限の11月16日に向けて
 全国各地で集会が開催され「満蒙権益擁護」「連盟干渉排除」
 「支那膺懲」「在満将兵感謝」などの決議がされた。

 名古屋市では全市96連区(小学校区)77連区で80回の
 連区民大会が1名から数名の陸海軍将校を講師に開催された。
 
 また新聞社などの主催するニュース映画会・講演会・展示会も
 頻繁に開催され神社・仏閣には地域・職場単位の
 組織的、集団的参拝・祈願が盛行した。

◆戦争支持へ民衆を動員するシステム

①もっとも中心的役割を果たしたのは軍部

 1932年のジュネーブ軍縮会議に備えて1931年8月から
 在郷軍人会の組織を動員して国防思想普及講演会を
 31年10月23日までに全国で1868回開催
 165万余人の聴衆を動員した。

 軍部・在郷軍人会は一般の講演会集会にも将校を講師として
 派遣し軍部の主張を宣伝した。
 各地の師団・連隊区の各司令部は同時に民衆動員の司令部。

②決定的役割を果たしたマスコミ(新聞・ラジオ)

 四大紙(大阪毎日・東京日々・大阪朝日・東京朝日)
 以下マスコミは柳条湖事件について軍部の発表を鵜呑みにして
 報道したのみでなく事変の拡大とともにそれを正当化し
 関東軍の奮戦・勝利を讃え、中国・国際連盟を敵視し
 憎悪するニュース・言論を大々的に展開させた。

 この時期の都市部では殆どの家が新聞を購読
 農村部でも次第に各戸が新聞をとるようになった。
 ラジオも急激な普及の時期に入り1932年契約数1,419,722
 (11.1%)

       (江口圭一「十五年戦争の開幕」小学館)

 慰問金を出した人の名前が並んでいる大阪朝日新聞の紙面

慰問金
 ↓(切り抜き続き)
飛行機46機、鉄帽2万4278個、その他とも559万円、
学術時芸奨励寄付金36万5000円を数えた。
ちなみに日露戦争の才のじゅ兵金は焼く127万、
慰問袋は約60万個であった。
慰問活動ではこのほか、現地への慰問便派遣
在満兵留守宅慰問、出勤・凱旋部隊や遺骨の送迎なども
活発におこなわれた。
民衆の危機感のたかまりはさらに日本軍への献身の願望となり
血書や血染めの日章旗を差し出すものが続出し
従軍志願とくに女性の篤志看護婦志願があいつぎ
興奮のあまり自殺する例もみられた。
 

16歳の少女が80代の男性の手紙に応えた「論壇」
            
      冨岡 江都子(当時、公立高校生、神奈川在住、16歳)

 八月十三日付けの本紙「声」欄に「侵略の歴史をなぜ教えない」という大で、私の当初が載った。その数日後、八十歳近い方から手紙をいただいた。「雑誌に書いた私の考えです」と言って「日中戦争は侵略戦争ではなかった」という種子の論文のコピーが同封されていた。
 その論文は「日本人が中国の土地を軍靴でふみにじったのは事実だが、それは戦争のなせるわざであって侵略とは言えない」ことを強調している。満州には日本による近代的大建設が進行していて、その恩恵には満州に住むすべての人々が浴した、とも指摘している。しかし、この「すべての人々」とは、一体だれを指すのだろうか。
 日本人は当時、アジアの人々を自分たちより低く見下していた。「強力せざるものはその生存を認めず」といって各地で虐殺もした。「日本は中国の財産を奪ったり、酷使した訳ではない。中国人と協力して満州の開発に努力していたのだ」と断言する論文の言い分は正しいのだろうか。それは、ただの政治的な「タテマエ」んび過ぎなかった、ということを私たちはわずかな知識でも知っている。
 ――中国国内ではあるが、そこに安住し、文化・経済活動をしていた日本人が武力で追い払われそうになった時、それに対して武力で対抗したのは侵略ではない、日中戦争は中国の排日戦争だった、という論文の眼目について、私は視点がずれていると思う。こうした論理が、日本を一歩出て通用するだろうか。なぜ日本は排されなければならなかったか、そこにこそ問題があるのではないか。
 「侵略」であるかないかは、言葉の定義の問題ではない。軍事行動の表面のみを取り上げて、侵略ではなかったとか言うのではなく、当時日本人が、いかに中国を始めとするアジアの人々に多大な害をあたえたか、を認識することが大切なことだと思う。
 「開拓」と称して中国大陸に乗り込み、住んでいた人々を追い出して得た「安住」。それこそが立派な侵略行為ではないか。そして、」アジア各地で行った日本軍の行動についても、我々に弁解の余地はない。日本は相手国の文化を否定し、朝鮮半島などでは教育、言語、さらに名前までも奪い、自国のそれらを押し付しつけ、「してやる」という態度で大東亜共栄だの、五族共和などと唱えて、自分たちの行動を正当化し、天皇まで拝ませておいたのだから…。
 それでも、今なお明確に「侵略」とは認めたがらない日本政府の姿は、余りにも時代錯誤な考え方を持ち続ける老人たちが、今も少なくないことと無縁ではあるまい。
 私たちの教科書は、検定に見られる文部省の市井を反映してか、戦争中日本人がいかに加害者であったか、ということには全く触れていない。だれも教えてくれず、自力で知ろうにも限界がある。私たちが、そのことに無知であるのも仕方がない。
 教えないように、としている一方で、若い人たちを「戦争を知らない世代」としってひろからげにして、何も知らないくせに偉そうなことを言うな、と言わんばかりに時代の逆行を図ろうとするかにみえる風潮は恐ろしい。最近少しずつ、テレビなどでも「加害者日本」を取り上げた番組が増えている。「昭和」が終わったという時代の区切りによるのかもしれない。
 これまでもマスコミも、とかく原爆被害などに比べ「日本の侵略」という側面を軽視しがちだったように思う。ぜひこれからも「夏のイベント」に終わらせず、折に触れ私たちの「加害者」としての立場を追及していってほしい。でないと、若い世代がアジアの人々と真の友情を結べなくなるのではないか。
16才少女の論壇

先生はかつて広島への修学旅行の時、
生徒たちにお話してくださる方に
戦争の被害だけでなく加害についてもお話していただきました。
「戦争ほど全ての人を不幸にするものはありません。
 正義の戦いは、けしてないのです。」



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昭和 | 09:39:06 | Comments(2)

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