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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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満蒙開拓団-1
3/28

  倉庫からこんなものが出てきました。
  安保反対のデモに参加した時もらった団扇です。
  安保反対うちわ



13期は満蒙開拓団です。
ビデオを見たり開拓団にいらした方の証言を聞いて、あの戦争で、中国で、どんなことがあったのかを学びます。

満蒙開拓団の始まりと経緯

■日本の満州移民構想の始まり

①日露戦争後【1906(M39)10満鉄設立】大陸運営の問題が生じると同時に満州移民が国策として考えられた。

満鉄創立委員長になった参謀総長児玉源太郎は初代満鉄総裁・後藤新平に対し
「日露の戦争はおそらくは満州の一戦をもって、その局を了すべきにあらず。第二の戦争、はたしていずれの年をもってくるべきか。(略)いま鉄道の経営によりて10年を出でざるに、50万の国民を満州に移入することをえば、露国屈強なりといえども、みだりにわれと戦端を開く事を得ず。和戦緩急の制令を居然としてわが手中に落ちん」

②1910(M43)8日韓併合条約調印(桂太郎内閣)

外相、小村寿太郎、議会において20ヵ年で100万人の大和民族満蒙移住を提唱。
しかし満州事変1931(S6)にいたるまで25年間に満州に移住した者は約23万人。
農業移民は1000人未満。主体は満鉄関係者、商工鉱業者、官吏。
移住先は関東州、満鉄付属地、商埠地など。

③中国の満州移民

1923(T12)~1930(S5)7年間に280万人(漢民族)
10月孫文北伐を決定。1928(S3)張作霖(満州の軍閥)北京を退去。

④満州を視察した矢内原忠雄「満州見聞録」1932(S7)11改造

「関東州内で私は若干の日本人経営の農園及び農村を見た。
金州付近の相川村は大正4年20戸を入植せしめたのであるが、いまは7戸だけ残存し、しかも巨額の負債に悩んでいる。
いったい関東州および満鉄沿線においては、在住日本人の過半を占むるものは満鉄及び関東庁の関係者であり、その生活程度は日本内地におけるよりもむしろ高いのである。
而してこの同一地域に入植せる日本人の農家が、満鉄及び関東州の人々と近似する生活程度、生活様式を要求することは自然の勢いであって、それが彼らの創業費及び生活費の負担を重くし、したがって夫妻の原因となることもまた見やすい道理である。
しかも彼らの生産費は生活程度の低き周囲の支那人と競争しなければならない。これらの地域では果樹園のごとき資本家的企業は別として普通の意味における農民移住には大いなる期待をかけ得ないであろう(略)」


■アジア太平洋戦争(十五年戦争)の性格と深く結びついた満州移民

「満州移民の父」と呼ばれた陸軍大尉東宮鉄男とうみやかねお(1892~1937・45歳没)によって計画された。
     東宮鉄男
<参照、引用文献>
 橋川文三「民族移動」(記金現代史に本の百年7)筑摩書房刊

東宮は満州事変がおこると陸軍省の命令で吉林軍顧問となり、吉林軍とともに北満各地を転戦するうちに満州への集団移転計画を実行することを決意。
岡山連帯に勤務時に骨子をまとめていた。

目的
・満州移民の先発者として北満地方に日本人農業移民を有利に実施しうることを立証し、続行者に対して模範を垂る
・満州国軍を支援し地方の治安を回復維持し新国家建設作業を促進する
・対露防衛
・満州国内における治安維持に監視、関東軍の任務の一部を担任する
東宮の移民計画は武装農民を北満各地に定着させることによって、対ソ戦のための第一兵力を扶植することが窮極の目的だったことがわかる。
この軍事額的理念は少年義勇軍を含めたその後の満州移民思想を貫くライトモチーフ(示導動機)

東宮の構想に賛同し実行可能な内容を付加したのは関東軍参謀石原莞爾と秋田県国民高等学校長、加藤完治の二人にすぎなかった。


■第一次武装移民団

1932.9.15佳木斯チャムキ到着
入植地、永豊鎮に入ったのは1933(S8)2(治安不良で五ヵ月後)

5ヵ年で退団者157名(31.9%) ※屯墾病(集団ノイローゼ)
 ・根源的要因は新たな自然環境、孤立した社会環境の中で
  全く新しい人間関係が作り出されたことから生じるストレス
 ・直接的要因は
  治安不良に戦死傷の発生、作業指導の不良、
  幹部の圧制と責任回避、幹部の退院に対する欺瞞行為
  女性移民がないない等


■第二次武装移民団
 
 弥栄村から40キロの七虎力テブリ(後に干振村と命名)

現地住民の反乱激化、東宮も負傷、団員の動揺激しくかなりの脱落者が出る

第三次浜江ひんこう省、王栄廟地区へ
第四次牡丹江ボタンコウ省、城子河及びはるは河へ
第五次東安省、永安屯、朝陽屯、黒台へ


■移民問題綜合研究のために

1934(S9)11  日満鮮にわたる官庁、学者、経験者90余名による「新京移民会議」開催
1935(S10)12 満州拓殖株式会社設立
1936(S11)9  満鮮拓殖株式会社設立
    10  財団法人満州移住協会設立

 満州移民は試験期を脱して本格的国策として軌道にのった


青少年義勇軍と長野県の事情

■義勇軍に応募した理由

①教師の宣伝、勧誘、督励、“国のため”
②家庭の貧困
③自分の進路として
④土地無き次男、三男
⑤広い満州の農業へのあこがれ
⑥国のため
⑦拓務訓練 

※静岡県富士宮市の父親は三人の子どもを義勇軍に出し大東亜大臣の表彰を受ける


■教師も積極的に協力していた

・全国尋常高等小学校校長会会長・下川兵次郎
「義勇軍を一ヵ年に三万人送出は拓務省が実行すべき国策であるが、その成否は全国高等小学校にあり、その男子卒業生48万人、三万人の義勇軍を出す如きは、指導の任にある者の熱意如何によってさして難事ではない。
あらゆる教科を動員して満州に関する認識を深め興亜精神の高揚に努め実施訓練に努めればこの重大国策も容易なり」
 『開拓』1940(S15)3月号

・山梨県、高等科担任教師
昼は学校で生徒に志願するようにすすめ、放課後からは夜になって生徒の家庭をまわって勧誘した。
やがて義勇軍に何人以上応募させるように割り当てが卒業生の数に応じて決められてきた。

・広島県教師・市岡正憲
貧困、学業不振、親の無い子、片親の子、非行の子どもは全て義勇軍のターゲットにされたものです


■長野県は義勇軍送出、書いた区民送出が“全国第一位”

義勇軍




   一般開拓団 26,332人
   義勇軍    6,942人   
   勤労奉仕隊他 467人

      ↓
    合計 33,741人


   
   殉難者   14,939人
   行方不明者   220人   

      ↓
    合計 15,159人(44.9%)



   残留者     884人(1983.8現在)

  (日本一悲惨な結末を迎えた)




■何故長野に義勇軍が多いのか

「長野県おける満州移民送出の熱意の期限は天皇にある」
杉野忠雄(義勇軍編成に関する建白書起草者の一人、戦後東京農大教授)

①1936(S11)地方長官会議で上京の節“陛下の御召を被った近藤知事”は「長野県は土地が狭くて、困っているので満州へ県民を移して愛国信濃村を建設する計画であると申し上げた。
それに対して天皇から「誠に結構な企である」とお言葉を頂戴した。
(略)200名を募集を始めると粒よりの青年が700名も各町村から選出された。
(農村更正時報 1937.8月号)

②1943(S18)4 天皇の下問により長野で盛り上る
天皇は地方長官会議で各地方長官に対し単独拝謁を行い、郡山義夫長野県知事には特に「長野県民の満州開拓移民の状況はどうか」との下問があった。
同知事は「目下満州にある県民は開拓に懸命の努力をいたしておりますが、県におきましても、その後続部隊の要請練成に万全を期しておる次第であります」と答えた。

天皇の下問の浴した長野県では引田重雄内政部長以下庁員はもちろん喧嘩の満州移民関係者は「聖恩の広大に感泣した」
引田内政部長は、ありがたい大御心伝達するために現地開拓団長宛に通知を発した。
また地方事務所長、各群教育会長にも「関係者一同いよいよ一致協力開拓事業の進展努力して以て大御心に応え奉ることを期せられたし」と同文の通牒を発した。

更に郡山知事は関係機関及び市町村長に毛筆による「告諭」を通達した。
「告諭」が各位は聖旨を奉戴し開拓事業の進展にいっそう奮励努力し「以テ大御心ニ応ヘ奉ランコトヲ期スベシ」
県では6月慰問班を五班編成し、満州に派遣して「告諭」を伝達させた。
(長野県満州開拓史『総論』)


■義勇軍創設者の一人が語った義勇軍の目的


那須皓ひろし 
義勇軍創設「建白書」署名者 1984(S59)95歳没
戦後インド大使、ネパール大使を歴任

「満州事変の後始末をどういうふうに付けるのか、それは多数の日本人農民を植えつけることが一番確実な方策である」
1932関東軍統治部専業諮問委員会
1977「過去のことは誇りもしなければ悔やみもしない」


関東軍は引きあげ、開拓団は置き去り


■1944(S19)9関東軍、作戦大変換、攻勢から守勢、持久戦へ

24個師団、9個独立懇請旅団、2個戦車旅団、1個機動旅団(75万人)
最古師団でも1年前に編成、16個師団、懇請旅団はソ連参戦直前に編成

■大陸令で軍は引揚げ


天皇が裁可した大陸令第1340号(1945.5.30)により関東軍の放棄地域が決定され、核開拓団民や青少年義勇軍の少年たちは棄民とされ、ソ連軍の侵攻や敗戦の混乱の中で命を奪われた。

大陸令

更にそのうえ1945年に入ってからも青少年義勇軍や開拓団員としての集団移住は続いた。
長野県の「松本開拓団」が入植地とされた場所に到着したのは1945.6.14
この開拓団に入団した桐原綾子さんは「満州は食べ物が豊富で空襲もないし、それは良いところだと係員に説明され、父母は日本にいても子どもたちにひもじい思いをさせてかわいそうだし、新天地にも魅力がある」と1945年4月に決意した。
父親は8月5日に現地招集され、綾子さんは入植予定地で父母と妹を亡くし1953年に帰国した。
開拓団、青少年義勇軍、満州建設勤労奉仕隊ら27万人中、根こそぎ動員で残された棄民22万人は老人、子ども、婦女子が大半だった。


■カモフラージュに使われた国民

大本営作戦課「今、国境付近の居留民を引揚げることは軍の企図を暴露することになり※、ひいてはソ連信仰の誘い水となるおそれがある。また国境付近の開拓団の引揚げは、満州国原住民に対して動揺を及ぼすことが懸念されて好ましくない」

※関東軍お作戦の大転換、天皇が裁可した大陸令で関東軍の放棄地域が明らかになる


■8月9日 天皇とのやり取り


9時55分 木戸内大臣、天皇に呼ばれ拝謁
「ついては選挙区の収拾につき、急速に研究決定の要ありと思う故、首相と十分懇談するように」

10時10分 鈴木貫太郎首相 参内

※ソ連8月8日、9日より日本と戦闘状態に入ると通告
 零時より侵攻開始
 4月5日 ソ連日ソ中立条約不延長を通告(1946.4期限終了)


■日本からの荷物が届いた日に避難命令が出た

石原政子さん「今でも誰か官僚に聞きたい、何で私たちを満州へ送り出したのかって」

「戦争が進む中、父母は五人の子どもを抱え、食うや食わずの生活に陥る。
役場の人に『満州へ行けばお米もあるし、作物は誰でも出来る』と何度も勧誘され一家で満州へ渡ることにした。かの地に着いたのは昭和20年5月26日、間もなく終戦。
開拓団から避難命令が出たその日に日本から届いた荷物を紐とくことなく逃避行。
満州で父母妹らを亡くす。」
(嗚呼満蒙開拓団のチラシより)


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昭和 | 09:47:54 | Comments(0)

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