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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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滝川事件1・沢柳事件と大正デモクラシーなど時代背景
~異端の追放・滝川事件1~

9/12

四年ほど前に厚生省の方からDNA鑑定をしたいということで
私の唾液を送ったら遺骨の一つの歯の鑑定結果が同じで
シベリアに抑留されていた兄が67年ぶりに帰って来ました。
8月の17日にお骨が届けられたのですが
大変幸せだったと思いますのは
亡くなった場所の住民の方たちが
一体、一体、遺体を納めてくださって
丁重に葬って管理してくださっていたことです。 
葬られた場所の地図もついていました。  

   9/12

(先生の手の中の)この箱に兄の遺骨をひとつ納めて
兄に戦後の日本がどうなったのか見てもらいたいので
どこに行くにもこれを持ってゆきます。

亡くなる時に兄は心ならずも銃を取らなければならなかった
そのことで多くの中国人を殺したのではないか…
という思いでいましたので、亡くなった中国の方への
謝罪をしながら息を引き取ったと思うのですね。
その兄の思いを私は受け継いでいかなければならないと
私自身が弱気にならないように兄が守ってくれていると思います。



滝川事件とは思想信条を理由に大学教員が弾圧された戦前の事件です。
Wikipedia 滝川事件  
   
その20年ほど前に起きた沢柳事件では大学の教授会の自治を確立させるきっかけとなっています。
Wikipedia 沢柳事件 

この二つの事件の間に日本はどう変わっていったのか見てゆきましょう。

◆その前夜 ~沢柳事件~


1913(T2)7.12 ◇沢柳事件

1.総長が7人の教授の首を切る

 沢柳政太郎・京大総長(就任して2ヶ月後)が
 京大のさらなる質の向上のための人事刷新のために
 各教授の所属する分科大学(現学部)教授会に諮ることなく
 7人の教授(医1 理工5 文1)に辞表を提出させた(8/5免官発令)

 ※当時帝国大学は東大、京大、九州、東北の四大学
  しかし文系の分科大学を持つ総合大学は東大、京大のみ

2.教授会の反発
 翌日法科大学は口頭で
 8/2には教授、助教授連署を持って
 教授の任免に教授会の同意が必要と主張

 沢柳総長は現行制度では教授会の同意不要と反駁

 翌14年1月14日法科教授、助教授が辞表提出

3.国の対応
 山本権兵衛内閣の奥田義人文相(東大の講師を務めた民法学者)
 京大総長と法科教授会双方の上京を求め主張を聞いてから
 教授の任免について、教授会と協議決定することは
 差し支えなく且つ妥当であるとし
 共助会の同意を必要とする覚書を教授会に手渡す。


         ~その背景~
 (京大で)
 ◇各分科大学教授会はこぞって法科大学の支援の態度を表明
 ◇各科連合委員会は京大の総意として法科を支持する旨の
  書面を文相に送付
 ◇法科の学生大会も教授が辞任するなら総退学する決意を表明

 (京大以外で)
 ◇東大・小野塚喜平次(政治学) 高野岩三郎(統計学)
  中田薫(法制史)三教授が辞職覚悟で東大法科の総意をまとめ
  京大法科支持の覚書を文相に提出


 ※第一次山本権兵衛内閣(1913.2~1914.3)
  護憲運動で打倒された第三次桂内閣に変わり
  政友会と提携して成立
  文官任用令を改正し、政党員が官吏に登用される道を拓いた


4.1914(T3)4月 沢柳総長、辞職

5.事件の核心
 京大総長vs京大法科 の抗争のように思われるが
 実は大学自治をめふる文部省と帝国大学との抗争であった

6.もたらした結果
 ◇この事件は大学の自治に大きな前進をもたらした
 ・教授会の人事権を確認する文相の覚書を獲得出来た
 ・総長公選要求(沢柳辞任以前)が学内世論になっていた

 ◇文部省の対応
 ・東大山川健次郎総長に取りあえず兼任措置
 ・東大理科大学長の桜井教授と、次いで
  東大山川総長を通してオーストラリア大使を
  辞任したばかりの秋月氏を候補に

 ・京大の各分科大学教授会は拒否

 ・結局山川総長は京大学内の総意を尊重し
  京大荒木医科大学長を文部省に推薦して承認させる

 ・1915(T4) 6各分科大学教授会の信任を得た教授が総長就任

 ◇大正デモクラシー
  大学自治の全身の政治的背景は
  大正デモクラシー運動の高揚があった

 ◇問題点
  学問研究の自由、大学の自治が明確に制度化されなかった

 ~~~~~~~~~事件当時の帝国議会~~~~~~~~

 第31回帝国議会開会中、衆議院で4人、貴族院で3人の
 議員がこの事件について質問

 1人を除いて6人が京大教授の行動 及び 文相の覚書を非難

 文相の答弁に「教授モ純然タル官吏デアリ」
 人事については総長は教授会に対し「参考ノ為ニ相談スルノデス」
 総長の具状が不適当なものならば
 「必ズシモ其具状ニ従ハナケレバナラナイト云フ趣旨ハナイ」
 と教官の人事権は文相が握っており、現在の管理下でも
 「職権ノ運用ノ宜シキヲ得サヘスレバ何等学問ノ独立ニ
  障碍ヲ及ボスコトハナイ」と制度改革の必要性を否定

 ~~~~~~~~~~(議事録参照)~~~~~~~~~~

 この結果、大学の自治は制度ではなく
 慣習のまま存続することになった

 大学の自治が慣習にとどまったのは
 労働組合の結成は黙認されたが労働組合は成立しなかったのと
 動揺の関係にあったといえる
 総長公選は1919(T8)に実行された

 大学の自治が慣習にとどまった結果から
 20年後1933(S8)に滝川事件が発生した

 <参照・引用文献>
     松尾尊『滝川事件』岩波現代文庫
     実教出版『日本史用語』他
   

◆1933(S8)滝川事件発生の年


『非常時』の声が高まる・『準戦時体制造り』・『教学刷新』の実施

1.準戦時体制へ
 五・一五事件 1932(S7)
 天皇、西園寺公望(元老)に後継者推薦を下命

  陸軍中央部…平沼騏一郎・革新派…荒木貞夫 で軍人内閣
  政友会…鈴木喜三郎を後任総裁にたて政権担当

 西園寺は斎藤実(海軍大将)を推薦
 1932(S7)5.26斎藤実内閣が成立

  政党・官僚・軍部による『挙国一致内閣』
  憲政の常道の時代が終焉 1924 (T13)~1932(S7)

2.斎藤内閣の足跡
 『事なかれ主義』から『非常時』へ日本国を追い込む結果を招く

 満州における軍部の行動は国家の行動として
 政府自身が責任を持たねばならないという自覚が
 斎藤自身も欠けていた
 その結果、軍部の独走を抑えられなかっただけでなく
 取り返しのつかない過ちをおかした

 荒木貞夫陸相の主張を受け入れ
 『閣内内閣』インナーキャビネット成立
 五相会議(首・外・陸・海・蔵の五相)

 ※これにより政党出身(政友会・民政党)閣僚の発言権が弱められ
  軍部と革新官僚が政治と経済を牛耳り始めた

滝川事件の20年ほど前に起きた沢柳事件は大正デモクラシーの影響で大学が権力の介入を撥ねつけられました。
Wikipedia 沢柳事件 
大正デモクラシーやその他の時代背景について補足説明をいたします。

◆大正デモクラシー


◇大正デモクラシーとは
第一次世界大戦前後(1914(T4)8.23~1919(T8)6.28)の人口移動がおこり都市化、工業化により地方から出てきた人たちの新しい人間関係を背景とするデモクラシー(民本主義)自由主義的風潮をいう

産業の主流が第二次、第三次産業に移る中、町から都市へと都市化が進行することで人間関係が広がりと深まりを増してゆき一個の人間としての存在であることを考え始めた

狭い地域社会から出てきて視野を広めた人々が主権在君の憲法体制下での民衆の政治参加を主張。政治の自由は人衆の福利、政策決定は民衆の意向によるとして①政党内閣制②普通選挙制の実現を説く
 ~吉野作造 1916(T5)中央公論~

◇その始まり
 ・1905(M38)9.5ポーツマス条約 戦争の賠償金なし
                  ↓
   戦費のための増税に苦しんでいた人々の不満高まる
   日比谷焼打事件・6戒厳令

◇1912(T1)第一次護憲運動

 1912.12.21桂太郎内閣
 (山形有朋が育成した藩閥・官僚と軍部による超然内閣
 成立直後から、政党、新聞記者らが
 「閥族打破・憲政擁護」を主張し倒閣運動を展開
 支持する民衆が議会を包囲、政府系新聞社や交番を襲撃

 桂内閣は長州閥・陸軍に批判が集中し
 翌13(T2)2.11 53日で倒壊(大正政変)

 政党が支える山本権兵衛(ごんのひょうえ)内閣成立

 民衆運動が内閣を打倒した最初の例

◇第二次、第三次産業の発展により

 ・シーメンス事件 1914(T3)
 海軍の腐敗による二つの贈収賄事件
 (独シーメンス社と英ビッカース社)に民衆が怒り
 薩摩閥と海軍とに批判が集中し山本権兵衛内閣が倒れる

 ・陸軍二個師団増設案、議会を通過
 (第二次大隈重信内閣)

 ・シベリア出兵 1918(T7)8
  (寺内正毅内閣)

◆自由民権運動とは異質な思想


◇国民の精神生活の支柱としての天皇の神聖化

 ・天照大神の御教え=日本人の義務であり人道である

 ・教育勅語1890(M23) 明治天皇の示した教育理念
  忠孝を重んじる儒教的道徳思想に基づき天皇への忠誠と
  封建的家族制度の維持を国民教育の方針とした
          ↑
     自由民権運動を抑え込むため

◇日本主義(右翼の立場)

 ・明治政府の欧化主義に対して国家主義的思想のひとつ

 ・高山樗牛・井上哲次郎が雑誌「太陽」を通じて主張
  特にキリスト教を排撃
  天皇制を中心にすえた日本の伝統や価値を絶対化

◇国民主義

 ・陸 羯南(くが かつなん)が説いた思想

 ・表面的な欧化思想に反対、日本国民固有の精神を回復し
  国民の幸福と自主独立のため欧米文化の吸収を説いた
           ↑
        日本主義との違い


◆第二次護憲運動と社会の変化


◇清浦圭吾内閣(山形有朋系の超然内閣)3カ月で倒れる
 1924(T13)1.7~6.7
 山形有朋が育てた官僚による貴族院中心の内閣が
 倒閣運動で倒れる
      ↓
   議会の多数派政党が政権を担当する『憲政の常道』へ

◇第一次加藤高明内閣(憲政会、政友会、革新クラブ)
  1924.6.11~1925.7.31

   普通選挙法 1914.3.2
   治安維持法 1914.3.7
 
  普通選挙法と抱き合わせで治安維持法が成立する
  治安維持法とは国体の変革、社会主義化を許さない法律
  違反者は懲役刑 → その後死刑までになる

◇学校現場で 

 ・1924.3.2
  長野県松本女子師範付属小学校で
  教科書に基づかない授業をした教師攻撃される

 ・1924.11.10
  高等学校長会議で各高等学校の社会科学研究団体を
  解散させると決議
  (※大学教養課程相当、主権を国民にという考え)

 ・1925.4.13
  陸軍現役武官、学校配属令を公布
  中学校以上で軍事教練実施
     ↑
  大正デモクラシーにより1922.3.25に軍備縮小案が可決し
  年額4000万縮小になり軍人がリストラされて
  受け皿として中学の軍事教練ができた

 (※先生も理不尽な軍事教練を受けた経験があるそうです)

五・一五事件

 ・1932(S7)5.15
  海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し
  当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相を暗殺した
  (Wikipediaより)

 『憲政の常道』八年で終わる



◆挙国一致内閣の斎藤実内閣


  閣僚の顔ぶれ  
 
 ・内田康哉外相…
 「満州の独立を否認するようなことがおこれば
  国が焦土となっても満州の独立は断固として実現する」

 ・広田弘毅外相…
  東京裁判でただ一人文官として処刑された

 ・山本達夫内相
 ・高橋是清蔵相
 ・荒木貞夫陸相
 ・大角岑生海相
 ・小山松吉司法
 ・鳩山一郎文相
 ・後藤文夫農林
 ・中島久万吉商工
 ・南弘逓信
 ・三土忠造鉄相
 ・永井降太郎拓務
 ・柴田善三郎書記局長
 ・堀切善次郎法制局長

 15人中6人が革新官僚
 (革新=右派、憲政の常道を否定、軍部寄り)

◇大学の自治の慣習化の継続

 大学の自治の条件として
 「学長の文部省への答申が不適当であっても教授会は
  学長には従わなくてはならない」となっていた

      ↓
 第31回帝国議会で文相の官立大学の人事について
 総長は教授会に対し「参考のために相談する。
 しかし総長の具状(上司への説明)が不適当の場合
 教授らが従わなくて良いという趣旨はない」
「現在の管制下でも職権の宜しきを得ば何等学問の独立に
 障害を及ぼさない」

 大正デモクラシーの中から生まれた大学の自治は
 日本主義を唱える官僚たちにとっては目障りであった。

 ※1919(T8)6年後の原敬内閣時に総長公選実行された




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昭和 | 00:12:33 | Comments(0)
満蒙開拓団-2
4/11

   毎年桜の季節に京都を訪ねる先生
   亡くなられた お父様、お母様、お兄様、お義姉さま 
   「勉強しろよ」と言ってくれた特攻隊の青年…
   4/11
   京都に桜の季節に行くのは、
   大切な方たちとの一年に一度の巡り合いの旅なのです
   京都の桜




◆満蒙開拓青少年義勇軍-1


国策により幼い子供たちが甘い言葉に騙され、行政の命令により集められ
国を挙げて煽って満州に渡らせられたのでした。

◇満蒙青少年義勇軍の出来た経緯

1937(S12)11.3 
 石黒忠篤・加藤完治ら「青少年義勇軍編成に関する編成建白書」を
 近衛首相以下、全閣僚に提出
 「将来、移民を管理し、あるいは交通線を確保し、一朝有事の際においては
  現地後方兵站(へいたん)の万全を期す」

1937.12.22
 拓務省(1942年大東亜省設置で廃止)「満州青年移民実施要項」発表

 ・第一回 16~19才の若者3万人募集
  内原青少年義勇軍訓練所(満州移住協会建設、総面積40ヘクタール、1万人収容)
  で訓練したあと現地に送出

 ○訓練所入所資格
  尋常高等小学校卒業見込み(現中学2年終了)
  14~18才 身体頑健
  内原で2~3カ月の集団訓練を経て渡満し基本1年実務で2年の訓練を受け
  最年少は17才で満ソ国境に入植

 ○甘言
  当時16才の青年学校2年在学中の伊達正男さん(寄居町在住)の話
  「熊谷で説明を交えた講演会があり、講師の拓殖公社の説明の中で
   私の意欲をそそったのは訓練終了後に一人当たり10町歩の土地が
   交付され個人経営に移行することが約束されているという
   耳よりの話だった」

 ○第一次募集 定員5000名 応募者9950名 ※定員増7700名
  (埼玉県合格者 311名 入所者308名)

◇精神教育に力を入れた

 内原訓練所では小隊、中隊を単位とした軍隊式の部隊編成で
 訓練が行われ、所長加藤完治(54才)自ら「皇国精神」を担当
 
<義勇軍綱領>
一、我等義勇軍ハ天祖ノ宏謨ヲ奉ジルヲ一ニシテ追進シ
  身ヲ満州建国ノ聖業ニ捧ゲ神明ニ誓ッテ天皇陛下ノ大御心ニ
  副ヒ奉ランコトヲ期ス。(以下略)

 ○日輪兵舎
  直径10m 内部2段 60名収容 215棟 
  訓練生15人位で半月ほどで1棟完成 杉皮ぶき
 兵舎

<義勇軍の任務>建白書より

 ○国策移民の完成を助ける(成人移民団を匪賊から守る。治安維持)

 ○移民地の管理(他民族の入らぬよう確保・管理)

 ○交通線の確保(10,000km余の鉄道を守る)

 ○一朝有事の際には現地後方兵站(へいたん)の万全に資する

◇壮行会

1939(S14)6.7 満蒙開拓少年義勇軍2500人の壮行会挙行
     6.8 市内大行進

    「我等は若き義勇軍」 星川良夏・作詞 飯田信夫・作編曲

 我等は若き義勇軍 祖国のためぞ鍬とりて 万里はてなき野に立たん
  今開拓の意気高し 今開拓の意気高し

 我等は若き義勇軍 祖国の衣鉢受け継ぎて 勇躍つとに魁けん
  打ち振る腕に響きあり 打ち振る腕に響きあり

 我等は若き義勇軍 秋こそ来たら満蒙に 第二の祖国うつたてん
  輝く緑空をうつ 輝く緑空をうつ

 我等は若き義勇軍 力ぞ愛ぞ王道の 旗ひるがえし行くところ
  見よ共栄の光あり 見よ共栄の光あり

                 1938年11月

◇埼玉県における義勇軍の送出

 ○第一次募集 1938年(S13)
  高等科二年在学中の生徒を対象に直接的に参加を呼びかけた
  市町村当局は該当年齢の指定をもつ家庭を調査し、教師同行で
  家庭訪問し、国策による満蒙開拓であrことを強調しながら
  本人と親を説得した

 ○行政へ通達
 1939年(S14)9
  県学務部長から市町村長・学校長宛て通達
  「強度中隊編成ヲ目標トシテ所要数(註300人)ノ半に達セズ
   遺憾ノ極ミニテ候」

  ※割当以上ニ入所セシメタル町村、
   割当ノ一名ヲ入所セシメタル町村ヲ公表
   (埼玉近代史研究会『埼玉近代百年史』下巻)

 1942年(S17)10 
 県学務長「昭和18年度選出青少年義勇軍強度部隊編成ニ関スル件」
  各市町村・国民学校長宛て
  来年度は15000名と決まり、本県に対しては250名ほどの割当があり
  相当大変だけれども大東亜共栄圏の確立のためにも
  どうぞよろしくお願いするという内容の手紙

 一、市町村内各種団体・国民学校協力ノ上、必ず一町村一名以上ノ
   適任者御推薦相成様致度(以下略)

  ※当時343町村
       (金子吉衛『蕨の空襲と戦時下の記録』さきたま出版)

◇群馬県でも


1940(S15)12 国策非協力校にプレッシャー
 「貴校ヨリ一名ノ応募者モ無之其テハ国策遂行上
  マコトニ遺憾に不堪(略)」

教科書にも「満州国」
教科書

  
◇埼玉県の人数などのデータ

 ○埼玉県における年次別入所者数

(在籍者名簿 及 外務省管理局資料などによる)

 1938年(S13)第一次 421名

 1939年(S14)第二次  95名

 1940年(S15)第三次 178名

 1941年(S16)第四次 460名

 1942年(S17)第五次 192名

 1943年(S18)第六次 124名

 1944年(S19)第七次  99名

 1945年(S20)第八次  ? (←3月の東京大空襲の月も送りだす)

         合計 1569名+α

 
○上記町村別では

 大宮(62) 忍(55) 川口(43) 川越(32) 秩父(26)
 浦和(23) 本庄(18) 深谷(17) 寄居・藤田(各16)
 高麗川(14) 飯能・新座(各13) … など

 ※県南地区が多かった

○1941年(S16)送出した460名

・年令別

 19才 16名   (3.5%)
 18才 17名   (3.7%)
 17才 22名   (4.8%)
 16才 41名   (8.9%)
 15才 256名 (55.6%)
 14才 107名 (23.3%)   三学年で79.1%
 13才  1名  (0.2%)


・学歴別
 高等小学校卒       48名
   〃  二年在学中  356名(現中二在学中)
   〃  一年修了    8名
   〃  一年在学中   4名
 尋常小学校卒       9名
 
(新編 埼玉県史別冊『曠野の夕陽』より)


◇浦和市1941年(S16)度一次志願者壮行会
壮行会
 
埼玉会館に於いて満蒙開拓青少年義勇軍に対する市町の挨拶
あいさつ

◇義勇軍に応募した動機

・教師の指導による   3422名 (47.4%)
・父兄のすすめによる   429名 ( 5.9%)
・友人のすすめによる   179名 ( 2.5%)
・官公吏の指導による   164名 ( 2.3%)
・本人の意思による   2469名 (34.2%)
・義勇隊の通信による   78名  (1.1%)
・その他         477名  (6.6%)

(1941年(S16)末現在、満州移住協会報告)


  …続く…


昭和 | 09:10:14 | Comments(0)

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