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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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「二・二六事件」1920~30年代の状況
1/9

昨年の12月3日に市民アカデミアの「植民地主義から見たアイヌモシリ(北海道)、琉球(沖縄)」という上村英明恵泉女子大教授の講座に行ってきました。
憲法が出来たことにより軍国主義は解消されたけれど、植民地主義は解消されてないというお話でした。
沖縄は米軍が元々植民地という発想なのです。

  2011年1月9日



二・二六事件を起こした青年将校たちが、なぜ彼らが事件を引き起こしたのか
彼ら自身の思想形成の時期はどういう時だったのか


◆統帥権干犯論争

★1930(S5)ロンドン海軍軍縮会議 浜口内閣調印

・第58特別議会 4.25 軍縮を巡っての論争

 政友会の鳩山一郎が「用兵と国防の計画を立てることは憲法11条の
 統帥権の作用の中にある」と主張し統帥権干犯論争スタート

・5.25東京朝日新聞社説「統帥権より国民負担の軽減を」

 国備充実は他国に対する脅威であり、軍備競争の禍因である。
 国民が負担の軽減を欲するや切にして国民の涵養を望むや久しい。
 この機会を逸して海軍の主張に屈して政府が軍部に譲歩したならば 
 統帥権問題よりも切実に国民の心が動くであろう。
 政府は軍備縮減による国民負担軽減においてさらに大なる責任を
 感じ、覚悟を決めんことを希うのみ。

★条約に対する国家の最終的な確認

・1930(S5)9.17 枢密院審査委員会、ロンドン条約諮諄案を可決
     10.1 枢密院本会議で可決
     10.2 批准

 国民が支持した軍縮を進めた浜口内閣に対して軍部は不満を持ち
 国会では政友会が統帥権干犯であると攻撃した



◆1920年代~30年代の
  経済・社会状況、軍事行動・思想状況と国際関係


~『昭和維新』を思考した青年将校たちが思想形成した時期~

★経済状況--三度の恐慌と飢饉・取り付け騒ぎ

・1920(T9)  戦後恐慌
 1920年代から30年代は非常に日本の国は経済状況が極めた悪かった
 第一次世界大戦でヨーロッパで戦っている先進国がアジアに輸出しなくなり
 その隙を狙って日本がアジアに大量の生産品を輸出してゆくのだが
 以外に早くヨーロッパが復興し貿易が再開したので
 日本のアジア向けの製品が倉庫にうずたかく残ってしまったのが
 戦後恐慌の始まり

・1922(T11) 全国で銀行取り付け騒ぎおきる
 
・1927(S2)  金融恐慌
 関東大震災で手形の決済が出来なくなり、金融不安がおこり
 鈴木商店(戦前の財閥)に台湾銀行が融資していたものが
 不良貸し付けとなり台湾銀行の救済を政府がやっていく中で
 中小銀行が潰れていった
 恐慌を乗り切ったのが五大銀行(三井、三菱、住友、安田、第一)

・1929(S4) 世界恐慌おこり生糸価格暴落

・1930(S5)  豊作飢饉、農村の不況深刻化
       ○不況時の豊作
       ○朝鮮・台湾から安い移入米が入ってきた
       ○不況下の賃金カット

 ※当時地方譲与税がなかったので
  村の財政は村民税でまかなわれていたが
  村税がたかいので裕福な地主たちは税の安い町へ移籍
  残った収入の少ない農民の税は重くなっていった
  滞納すれば財産差し押さえ、子女の身売り

 青年将校たちは政府に対して怒りを持っていた


★社会状況--労働運動・農民運動の激化

・労働争議
      1929(S4) 576件
      1930   906件
      1931   998件
      1932   893件

・小作争議
      1929   2400件
      1930    同上
      1931   3400件
      1932    同上
      1933   4000件
      1934   5800件
      1935   6800件
      1936    同上

・労働組合
      1929   600余 32万人
      1933    4800 30万人

・農民組合
      1929   4000  32万人
      1933   4800  30万人

・社会主義運動
      1920(T9) 大杉栄ら社会主義同盟結成、即解散
      1921   山川菊栄ら日本で最初の社会主義婦人団体
           「赤瀾会」を結成
      1922   日本共産党、非合法政党として結党
      1925   農民労働党結成

・虎の門事件
      1923(T12) 社会主義運動者を殺害されたことに反発し
           議会開会院式に向かう摂政宮・裕仁を
           難波大助が狙撃し失敗し1924.8死刑

 青年将校たちは危機感を感じていた


★軍事行動・思想状況と国際関係

・1928(S3) 満州某重大事件

・1931(S6) 満州事変勃発 ファッショ団体多数設立

・1932   五・一五事件

・1933   国際連盟脱退

・1935   天皇機関説が国体を破壊するものと
      軍部・右翼・政友会がこぞって攻撃

ファシズムについて
1919 イタリアのムッソリーニがファシスト結成
1921 ドイツでヒットラーがナチス結成

・ファッショ(イタリア語、結束の意味)
国民を反民主・反革命的に再編して全体主義体制を構築
1920年代に生じた資本主義の危機、中国革命から生じた共和体制の
成立などから、天皇制の下に軍部や右翼が国家改造を要求
戦争体制を強化

経済格差の問題がファシズムを生むきっかけとなる

日本のファシズムは欧州のような政党でなく、軍部に依存する
 
・日本のファッショ団体
 ○大日本国粋会
         1919(T8)結成、関東関西の博徒の親分が中心
         1922     関東国粋会が分立

 ○国本社
         1924(T13)結成、平沼騏一郎
                (第二次山本権兵衛内閣法相)
                国民精神作興を期して組織
                司法・内務官僚、軍人が中心
                日本ファシズムの総本山と目された
         1936(S11)   解散

 ○国体用語連合会
          1932(S7)  民間右翼団体の連合組織
                共産主義から自由主義に至るまで
                言論圧迫えを強めた


・平沼が国本社を作ったきっかけとなった詔書
 1923(T12)11.10
 関東大震災後の人心の動揺と社会不安が高まる中で
 政府は「思想の善導」の必要性を痛感し
 『国民精神作興ニ関スル詔書』発布 

syousyo.jpg
(クリックすると大きくなります)

 軽佻浮薄な風潮や社会主義の台頭を戒め
 臣民の助けによって国体を堅固にするのが
 国の大きな仕事であり天皇の願いである

 関東大震災のあと右翼が力を蓄えてゆく状況


◆天皇制下の権力の正統性を裏付けるイデオロギー

★家族国家観~伊藤博文の発想~

 19世紀未(M30年代)以降、共同体秩序(法律・規則)は
 『家族主義』によってい基礎づけられた
 個人よりも家が優先

 共同体秩序は「家」に存在する

 一系制 -- 伝統に基づく

 一体制 -- 家父長制による


★天皇は宗家の家長、臣民は天皇の赤子

 「家族国家観」により忠君一致のモラルによって
 祖国愛は『忠君愛国』へと変形


鶴見俊輔のこの本の一節を紹介します

戦時期日本の精神史―1931‐1945年 (岩波現代文庫)戦時期日本の精神史―1931‐1945年 (岩波現代文庫)
(2001/04/16)
鶴見 俊輔

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15年戦争の始まるまで、日本の教育体系は二つに分かれて設計されていた。
具体的には小学校の教育と兵士の教育においては、日本の国家の神話に軸を置く世界観が採用された。
最高学府である大学とそれに並ぶ高等教育においてはヨーロッパを模範とする教育方針が採用されていた。

 ※教育のダブルスタンダード
  高等教育では海外との交流があるが、国内向けには洗脳教育


★「家族国家」=権力者によって統合された「政治国家」

 権力行使は「すめみまのみこと(すめらみこと)」=天皇
 の命令として至上化された

  すめ=神聖を表す詞 みま=肉体
  みこと(命)=神や貴人の呼び名に添えた語

 権力の無制約な行使は社会的な対立が生じるが
 国内で『一家相和す』『醇風美俗(非政治性)』によって
 上下・対立の摩擦が中和された

 家族国家とは国内の対立が紛争にならないというのが特徴


★敗戦まで続いた暗黙のルール『天皇制は自然の秩序』

 体制の変革を企てるものは自然の破壊者と見なされた


★個人と郷土民の完全な一致

 日本では郷土は「国家の郷土」、郷土を離れた個人はなく
 郷土を離れた国家はない
(個人が郷土社会と繋がりを失うことは祖国を失うこと)
 国家は「一村、一家の延長」
 
 伊藤博文
 「個人と郷土民との全人格的な心情的結合が
  即、公的な国家秩序の支柱となる」


◆宗教になった日本の国家主義
  
 日本の国家主義は国家そのものが天皇そのもので天皇は神
 神に対する絶対的な信頼と服従
 一般の市民が先祖崇拝(氏神信仰)が鞍替えさせられてゆく

 国民の犠牲の上に立つものであり国民益でなく国益ばかり
 
 国家の命令、秩序、軍事的な栄光を維持すること
 軍事力によって他国よりの上に立つことが価値である
 外に向かって勢力の拡大を求めてゆく

 日本は神の国、『八紘一宇』という考えにより
 世界を日本の支配下に置こうとしたことで戦争が拡大した


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昭和 | 08:14:58 | Comments(0)
「二・二六事件」日本の軍隊
11/28
15期と16期で二・二六事件をやりますが
14期の最後の一日は予習として
明治期の日本の軍隊の成り立ちをやりました。

      ・・・・☆15期、16期の予定☆・・・・

二・二六事件 その1(第15期)

  軍人勅諭からうかがい知れる日本の軍隊
  昭和維新を施行した青年将校
  五・一五事件以降の青年将校と陸軍中央部の癒着
  陸軍部内における二派閥(皇道派と統制派)
  陸軍パンフレットと国家財政の変動
  内閣調査局・内閣審議会と陸軍二派閥の関わり
  第19回総選挙と政友会の動き
  二・二六決起への決定的契機

二・二六事件 その2(第16期)

  青年将校の結集と決起目的
  雪の二・二六の朝
  陸軍中央の二つの思惑
  震撼させた四日間
  二・二六事件に参加した兵たちの意識と
  高知県が徴兵検査の際行った調査
  二・二六事件の終結と軍法会議
  当時の政治・経済・社会の動きと国外の動き

 ・・・☆日程☆・・・

* 第一回  1/9(日)
* 第二回  1/23(日)
* 第三回  2/13(日)
* 第四回  2/27(日)
* 第五回  3/13(日)
* 第六回  3/27(日)

* 第一回  5/8(日)
* 第二回  5/22(日)
* 第三回  6/12(日)
* 第四回  6/26(日)
* 第五回  7/10(日)
* 第六回  7/24(日)



◆1872(M5)11徴兵告諭

徴兵告諭とは徴兵令にさきだち国民に徴兵制度の趣旨を告げるもの

徵兵吿諭

我 朝上古ノ制、海內擧テ兵ナラサルハナシ有事ノ日 天子之カ元帥トナリ丁壯兵役ニ堪ユル者ヲ募リ以テ不服ヲ征ス役ヲ解キ家ニ歸レハ農タリ工タリ又商賣タリ固ヨリ後世ノ雙刀ヲ帶ヒ武士ト稱シ抗顏坐食シ甚シキニ至テハ人ヲ殺シ官其罪ヲ問ハサル者ノ如キニ非ス
・・・・(中略)・・・・
御趣意ヲ奉シ徵兵令ニ依リ民庶ヲ說諭シ國家保護ノ大本ヲ知ラシムヘキモノ也

          明治五年壬申十一月二十八日

(意味)
上古ノ制=大宝律令で募集し大和朝廷に刃向かう地方豪族と戦った
これが日本の軍隊の始まり(徴兵制でなく希望者)
有事の時天皇が元帥となって兵役に耐えられる者を募って
兵隊の仕事がない時は家に帰り農や工や商の仕事をする
いばって働かずに食べ、切捨てごめんの(武士のような)
ことはない
維新という新しい時代の政治を尊敬し版籍奉還
各大名が領土領民を天皇に返す
1871年廃藩置県がおこり昔をなぞろう
武士が世襲で収入を保証されていたのを減らし
刀剣をはずすのを許し、四民がようやく自由権を得た
四民平等になって兵士も農民も一致団結
血税(血を流して国を守る)という
西洋諸国数百年来の研究実践をもって兵役を定める
海陸二軍に備えて全国の四民男子は二十歳に至る者は
すべて兵籍に編入し緩急の用に備えること


戊辰戦争を指揮した大村益次郎が徴兵制を考えていたが1869年に
徴兵制で武士の特権を失うと恐れる士族に暗殺される

山縣有朋が徴兵制を実現した

      ↓
 
◆国民皆兵の原則にたった徴兵制

Wikipedia 徴兵令

★徴兵令太政官布告 1737(M6)1.10
    全国四民、男子20歳ことごとく兵籍に編入
    常備軍・後備軍・国民軍に分け国内の守衛に充てる

・常備軍…徴兵された者が三ヵ年勤務

・後備軍…常備軍の勤務が終わった者が4ヵ年勤務
     (全国大挙の時召集)

・国民軍…全国男子17才~40才の者、すべてを兵籍に
     (敗戦間際にこの制度が復活する)

★常備軍の免役制度

・第1条  身ノ丈五尺一寸(154.453cm)未満者

・第2条  ルイ弱(虚弱)ニシテ宿痾(しゅくあ=病気もち)及ビ
      不具等ニテ兵役ニ堪サル者

・第3条  官省府県ニ奉職ノ者

・第4条  回陸軍ノ生徒トナリ兵学寮ニ在スル者

・第5条  文部・工部・開拓・其他ノ公塾ニ学ビタル専門生徒
      並ニ医術・馬医術ヲ学ブ者

・第6条  一家ノ主人タル者

・第7条  嗣子、並ニ承祖(しょうそ)ノ孫(将来一家を継承する者)

・第8条  独子、独孫
   
    (※6,7,8条は家制度を重視したもの)

・第9条  罪科アル者(但徒以上ノ刑ヲ蒙リタル者)

・第10条  父兄存在スレ共、病気若クハ事故アリテ父兄ニ代リ
      家ヲ治ムル者

・第11条  徴兵在役中ノ兄弟タル者

    ・・・中略・・・

第15条  代人料270円ヲ上納スル者ハ常備・後備両兵トモ免除

 当時ハガキ一枚半銭 ハガキ54,000枚=270円 現700万余円

 代人料の規定は夫役(人民に強制的に課す労役)的性格

 兵役は夫役と同じと受け止めた農民たちの反発で各地で
 血税一揆や兵役忌避の一揆が起こった

 代人料制度は1883(M16)12月の徴兵令改正で廃止
徴兵兵役料
明治16年に改正したのは明治14年、15年ごろ秩父事件など多発
自由民権運動を怖れてこの制度を廃止した


★布告の年の出来事

1873(M6)1.1 太陽暦実施
    3  横浜で水道の給水が始まる
       横浜で石鹸製造場 開業
    5.13 妾を本妻に直すことが認められる
    5.15 妻の離縁請求権認める
    7.17 アイスクリームの飲用始まる


◆軍人勅諭

★直喩
 天皇が親しく下した告諭、訓示的、特定的意味を含む点で
 勅語と異なる
 副署不要

★近衛兵の反乱により軍人勅諭発布

・発布されるきっかけは1877(M10)の『西南戦争』
 1878(M11)8月近衛砲兵大隊(九段竹橋)の蜂起(反乱)

 近衛兵は天皇の兵士なので名誉な仕事
 家柄、学力、素行、親族なども調査されるエリート

・徴兵制の軍隊の兵士たちの間に『自由民権運動』の
 影響が及んだ

<蜂起の原因>

 ①陸海軍予算減額 → 減給(近衛兵は他諸隊よりも高給与)

 ②西南戦争における恩賞問題
  抜群の功をあげたが凱旋後、恩賞の沙汰なし
  他隊には恩賞あり(靴下二足)

 ※西郷の軍隊はわらじ履きで敗れた
 ※軍隊の革靴を製造して大儲けした藤田組(椿山荘)
 ※長州の井上馨が藤田に革靴製造すすめた
 ※岩崎が軍事物資の輸送を一手に引き受けて大儲け

・10.15鎮圧され陸軍裁判所で判決

 銃殺刑  53名
 長期徒刑 118名(10年)43名(3年) 7名(2年) 18名(1名)
 短期徒刑 17名
     
     計 256名

 二度と反乱軍など出ないようにと軍人勅諭が出された

★国軍から皇軍へ

 軍人勅諭の骨子 ・統帥権の独立(天皇のみ)

         ・軍人の政治不干渉主義(兵士は選挙権なし)

         ・兵権は軍行政より分離独立した権利

◆兵権政従主義


・1907(M40)9 軍令の制定(憲法制定 18年後)
       副署不要 天皇のサインだけで軍が動く
       兵権には国政は不関与
       (天皇の命令のみで内閣は関われない)

※1900(M33)5 軍部大臣現役武官制 
       予備役の軍人も陸海軍大臣になれた
       現役の軍人しか大臣になれない
            ↓
       大臣を出さなければ倒閣も可能

 軍閥が発生 山縣たちが軍部独裁の体制を作った
 




二・二六事件 | 08:21:48 | Comments(0)
時代を訪ねる旅~五日市憲法と秋川渓谷~
すっかりご報告が遅れましたが、12月5日に五日市憲法発祥の地を訪ねる校外学習に行ってきました。
郷土館で学んだあと、美味しい五日市ほうとうを食べて渓谷を眺めながら林の中をてくてく歩いて蒟蒻屋さんの外のベンチで一休みしたあと瀬音の湯で足湯をして家路につきました。

明治14年(1881)に人権と自由を謳った憲法草案が五日市町(現あきる野市五日市)に誕生しました。
なぜ郊外のあきる野市に?どんな人が作ったのか?内容は?
当日のお話はとても面白く、当時の人々の暮らしぶりや、生き生きとした学習結社の活動などが時を越えて身近に感じられました。
メモを取っていなくて先生が以前に蕨の講座で作られた資料を参考にまとめました。


武蔵五日市駅
武蔵五日市駅

郷土館
郷土館

市民解説員さんにお世話になりました。
市民解説員

■五日市(現あきる野市)について

・五日に立つ定期市によって命名された
 (戦国末期の1574年の文書に「五日市」の名称あり)

・中世では鍛治用であった木炭が江戸期では上層階層の
 燃料・暖房用として使われ始め、秋川谷など食料生産不適地では
 売れ出した木炭の生産に専念

・五日市は炭と穀の交換市となり繁栄
 百姓たちの中から商人が生まれ
 その中から物品税委任により専売権を持つ炭問屋

・杉、桧の植林が盛んになり木材を筏に組んで秋川から多摩川経由で
 江戸に運んだ
 筏」
 (秋川木材協同組合のホームページより)

・林業で多摩の農民の雇用提供され、有力な元締(材木商)生まれた

・江戸後期に黒八丈という絹織物の主産地となる

・江戸末期の1858年に締結された日米通商条約締結により
 黒八丈の原料である生糸が増産され、以後養蚕が最大の産業に

○炭・木材・黒八丈が秋川谷の主要産物として取引の主役となり
 秋川谷がその地方の中心の地位を確立

○富農=在方商人=村役人 という三位一体の家々が
 実質的に自治体としての村々を支配してきた

○秋川谷は多摩川によって川崎と結ばれ横浜に近いことから
 早くから欧米文化と触れ、情報も早かった

○身分は武士だが通常は高持ちの百姓という八王子千人同心
 幕末の五日市地方に33名いた。
 農民とは違う彼らの視野と意識は時代に敏感に反応したと思われ
 直接の関係はなくとも自由民権運動に影響したのではと思われる


<参照・引用文献>
五日市町率五日市町郷土館『五日市憲法草案の碑』碑誌


■秋川谷の『自由民権運動』の始まり

★時代背景 
全国で農民一揆と士族の反乱が起きていた
(クリックすると大きくなります)
ikki.jpg

1月に東日本を代表する民権運動の結社、嚶鳴社が八王子支社設置

嚶鳴社(おうめいしゃ)とは、明治時代前期の政治結社。

元老院大書記官の沼間守一が1878年(明治11年)に設立。自由民権・国会開設を主張。東京に本社を設立、関東や東北など全国各地に支社を置き、盛期には社員1000人以上の規模となった。(Wikipediaより)

国民の手で憲法を
1880(M13)11.10国会期成同盟 第二回大会を東京で開催
大日本国会期成有志公会と改称
次回1881.10.1開催とし憲法見込み案持参のことなど決議


★1880(M13)4月 五日市学芸講談会結成

五日市の自由民権運動の中心的組織で、様々な学芸上の問題を討論した。
政治的な問題は討論しないとした。
あきる野市デジタルアーカイブ「五日市学芸講談会の活動」

 講談会規約
 本会ハ万般ノ学芸上ニ就テ講談講義或ハ討論シ
 以テ各自ノ智識ヲ交換シ気力ヲ興奮セン事ヲ要ス

 会員39名(1979年12月時点)
 大地主3~4名 残りは中農と小作人

 年齢構成(27名)
 10代(6名、22.2%) 20代(13名、48.1%) 30代(3名、11.1%)
 40代(4名、14.9%) 50代(1名、3.7%)


・教員グループの参加者
 勧農学校の永沼織之丞以下の訓導や助教たち、旧仙台藩下級藩士が主で、
 五日市憲法の起草者、千葉卓三郎もその一人

・「各人一回は発言しなくてはならず、発議者は15分
  その他は10分、論旨は二度と変更できない」というルール

・学芸討論会は市の日に開催され、若者だけでなく老人年配者も
 富者のみならず貧者も参加しみな「気力ヲ興奮」させた

・討論題集
 ①憲法は国民が決めるか、国王が決めるか
 ②議会は二院制か、一院制か
 ③死刑は廃止すべきか、否か
 ④人民に武器を与えてよいか
 ⑤皇居は東京におくべきか、田舎におくべきか
 ⑥衆議院議員に給料を払うべきか、払うと悪いことをするか
 ⑦外国人政治犯の亡命を受け入れるべきか、どうか
 ⑧女性に選挙権を認めるべきか、否か

(クリックすると大きくなります)
gidai.jpg


■千葉卓三郎と深沢権八

★千葉卓三郎
千葉卓三郎
  
嘉永5年(1852年)栗原郡白幡村に出生。
父は仙台藩下級武士。
明治元年(1868年)16歳で戊辰戦争白河口の戦いで敗戦。
その後、医学・数学・ロシア語・国学・一向宗・
儒学・正教・カトリック・プロテスタントを学び
明治13年(1880年)五日市勧能小学校に勤務。
翌年(1881年)五日市憲法を深沢権八らと起草。
明治15年(1882年)結核が悪化し療養生活に入る。
明治16年(1883年)東京本郷の竜岡病院にて死去。
享年31。

★深沢権八
深沢権八

1861(文久1)深沢名生(なおまる)の長子として生まれ勧能学舎
(1875年に学校と改称)第一期生。
権八は13才で深沢村(戸数20戸ほど)の代議員となり
15才で村用掛(村長に相当)に任ぜられた。
五日市村の北の渓谷を4キロ近く入り込む山村のインテリ親子。
当時の東京の新刊書の7~8割の蔵書を持っていた。
明治23年(1890年)29才の若さで死去。


深沢親子にとって千葉は知的飢餓を満たす貴重な存在として
援助を惜しまなかった。
放浪型インテリの明治維新の敗北者たちと、在地の名望家層とが
生活共同体の中で学芸講談会や討論会の対等のメンバーとして
互いに切磋琢磨し創造的エネルギーを生み出した。
しかし時代が、その実りを許さなかった。



■五日市憲法草案

Wikipedia 五日市憲法草案
(下敷きは嚶鳴社の草案 1880.12.13入手)

・204条の草案は毎月2,3回開催される学芸講談会で具体的テーマを
 60余あげて討議を重ねて、その間多くの書籍を読みあって
 作り上げられた

・基本的人権に重きをおいた

・学芸懇談会のメンバーは五日市以外にも周辺の村々から
 あるいは青梅や八王子、横浜などからも
 宮城県から5名、秋田、福岡出身者も含まれている

・草案起草は千葉卓三郎となっているが、起草の背景には
 『五日市法学セミナー』と言えるような集団討議があったようで
 1880~86年に他にも7グループの学習結社、民権政社が結成された

・五日市憲法草案が参考にした憲法
 日本が弱小国だったことから、大国のではなくヨーロッパの
 先進小国のポルトガル・オランダ・ベルギー・スイス・
 オーストリー・スペイン等の憲法を参考にしたと言われている

・この草案を千葉が書き終えた時期は1881年5~6月と思われる
 同年教員が政治を議論すること不可という法律が施行されて
 千葉は憤慨し退職して6月に五日市を離れ北多摩郡へ転居

・重要な条文
五日市憲法


■忘れ去られていた草案を色川教授らが発見


昭和43年東京経済大学教授色川大吉教授らにより、
五日市深沢家 旧宅の土蔵より発見
タイトルは「日本帝国憲法」だったが
発見者らによって五日市の若者らへの思いをこめて
「五日市憲法草案」と名付けられた

「当時の草案は全国で約80件確認されているが、
 五日市町のように草案完成までの資料が残っているものは
 極めて少ない」
(草案発見した調査時のゼミ生の一人新井勝紘専修大教授)


・・・・☆以下資料☆・・・・
 
東京新聞 2007年5月5日
【憲法を歩く 施行60年】
第1部 焦土から生まれた希望 <下>五日市憲法 民権の精神脈々と
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/kenpou/news/070505.html


あきる野市デジタルアーカイブ
http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/
 
上記の中の五日市憲法草案のページ
http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/gallery/index.php?mode=image&id_1=1&id_2=1




明治 | 00:58:38 | Comments(0)

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