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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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「二・二六事件」と「五・一五事件」の違い
2/27

   調べると五・一五事件と二・二六事件は全く違っています。
  2月27日


■青年将校たちの思想の背景

★直接は影響を与えていなかった北一輝、西田税
 彼らの主張した国家社会主義の主張

・私有財産の制限
 100万円以上の私有財産と時価10万円以上の土地所有取引の禁止
・金融・工業の国家管理
・華族制度の廃止
・貴族院の廃止

★青年将校たちは時代の空気から感じ取った

青年将校たちは育った社会状況の異常な格差を感じ取って
世を変えてゆかなければならないと決意していった
北らの主張に触れる機会は少なかったが同じような思いを抱いた


★軍隊内に広がる左翼思想=青年将校たちが怖れを抱いた

 師団長が訓話で「共産主義にもいいところがあるね」
 などと将校の中にも左傾化の傾向があった
      ↓
 二・二六を起こす青年将校たちは、
 あくまでも「天皇制国家」にこだわった
 そのためにも左翼思想は受け入れがたい
      ↓
 青年将校たちは世の中を変革してゆくとき
 天皇をシンボルとして考えていった


■五・一五事件後の背景

★五・一五事件の目指したもの
・財界と癒着した犬養内閣への粛清
・郷党社会(権藤成郷)の自治に戻ることが理想

※農本主義の思想家・権藤成郷(Wikipedia)

天皇は人民の儀表となり、善良なる感化指導を与ふるに止まり、
統治は専ら人民の自治に委すべきなり


※五・一五事件の海軍青年将校たちは彼の影響を受けた
 武力によって変えようとしたのではない

※五・一五事件では政党内閣制をすべて否定してたわけではない

※二・二六事件の将校たちは政党内閣制を否定し
 軍部内閣を作らなくてはいけないと考えた

※二・二六事件の将校たちは「力」によって
 金権主義や所得格差の拡大を解決しようとした


★五・一五事件後に青年将校と軍中央との癒着強まる

(証言部分は読みやすくひらがな表記にしました)

◇磯部浅一・元一等主計(常人)~1936(S11)5.22証言
青年将校と軍上層部との関係は荒木大将の陸軍大臣時代から相当深くありましていろいろなことがありますが、金銭関係についてのみ申し上げます。
荒木陸相時代、恐らく陸軍省の金であると思いますが運動に携わる青年将校に当時、荒木大正の私設秘書官とも思わるる故黒木親慶少佐を通じて相当多額の金が出ておりました。
現に私は黒木少佐の宅に於いて同人より五百円の交付を受けた事があります。この金は青山南町五丁目番地不詳の場所に設けた「青年将校の集会所」の費用に充ていつ部は通信連絡の費に支出しました。


※五百円は現在の貨幣価値で100万円以上
 機密費の支出は陸軍次官と軍務局長が担当

※青年将校たちの革新運動を軍上層部は認めていた

◇栗原安秀・歩兵中尉(歩一機関銃中隊)証言
1933年(S8)10月5日以降、石原広一郎(石原産業 海運社長)から斉藤瀏(りゅう)陸軍少将の仲介で運動資金として一万円もらったとした上で

吾々は荒木陸軍大臣には政黒木親慶少佐の手を経て相当に機密費を運動費として渡されておったような関係があった。

※軍部の内閣出現を見越して産業界からも資金が流れた

◇磯部浅一
此金の…から見ても、維新運動は軍上層部に依って認め且つ育成されたものであると私は信じております。

※二・二六事件は五・一五事件とは違い、他からの資金援助
 それも陸軍中央や企業からの資金によってなされた

※金権政治を嫌い変革しようとしたのに、変革を成功させるために
 部隊を率いる資金が必要で体制内の力に頼った大きな矛盾


★人事上の優遇(陸軍中央とのもう一つの関係)

林陸相になってからは資金関係はありませんでしたが、人事関係については相当便宜な取扱いを受けていました。それは松浦人事局長が林陸相時代まで残っていましたため、便宜を計ってくれたのであります。

松浦閣下は、こういう運動をやっておる将校は荒木時代より遠くやらない方針であり、このことは林大臣も踏襲されておる(以下略)


※磯部が松浦に頼み江藤五郎の満州行きを中止してもらったりした

※金銭関係は1933(S8)黒木少佐が慶応病院に入院するまで続いた


陰で二・二六事件に関わっていた二人に対して
★天皇の荒木、林、両相に対するその後の処遇

◇荒木貞夫(Wikipedia)1877~1966
犬養・斉藤内閣の陸相(1931.12~1934.1)病気理由で中退
第一次近衛内閣(1937~1938)の文相となり教育、文化の軍国主義化を推進

1939(S14)5.22平沼内閣
天皇より荒木文相に「青少年額とに賜りたる勅語」を下賜

この日、天皇は全国1800校の学生、生徒代表32,500人、執銃、帯剣、巻ゲートルで二重橋前で親閲。以後、学徒・生徒は『国民精神高揚』の先兵とされた。
『勅語』をうけた中等学校三学年に在学していたものから上は学徒動員で戦場へ。
中二~中一の者の多くは陸海軍少年飛行兵に志願。海軍燃焼兵としてミッドウェイ海戦で15歳の少年は沈没した。空母とともに今も海底に横たわっている。
※荒木はA級戦犯として終身刑のち釈放された

◇林銑十郎(Wikipedia)1876~1943
朝鮮軍司令官1931.9.19独断で出兵を容認
(陸軍刑法第53条死刑)
翌年陸軍大将、教育総監 斉藤・岡田内閣(1932.5月)陸軍大臣。1937広田内閣五、大命隆下で首相に就任、外相を兼任。懐古的な祭政一致を唱え政党と対決姿勢を示す。財界と軍部の調整を図る。勇気財政(財界人の蔵相)は『軍政抱合』と言われる軍備増強予算を作成。議会通過後、優議員を抜き打ち解散。選挙で大敗し六月総辞職。四か月の短命内閣。


   軍部との癒着、人事での優遇
       ↓      
陸軍中央は電荷の宝刀と言われていた『青年将校運動』によって
他の政治勢力を陸軍の主張に従わせることになった


※1936(S11)3 広田弘毅内閣成立 寺内陸相、自由主義排撃声明
      5 軍部大臣、現役武官制を復活

 以前は予備役(退役後)の軍人が陸相になっていたが
 現役の軍人になって軍部の発言力が強くなった
 陸軍大臣が辞職しても後任を出さないと総辞職となる
 このことが、やがて東条内閣の出現へと


■陸軍、二つの勢力

★ 岡田内閣で統制派が台頭

1934(S9)1月 林陸相誕生、3月永田鉄山(統制派)軍務局長に就任
官僚、政財界と提携し合法的な国家改造で軍部主導の総力戦体制の構築を目指した
東条英機ら陸軍省、参謀本部内の幕僚層(陸軍大学出の『天保銭組』)が主で高度国防国家建設、国家総動員体制確立を主張

※第一次大戦後、欧州に行ったエリート青年将校たちが
 独の敗戦研究し戦争は軍人だけでなく民間の力を
 最大限に発揮する総力戦体制が必要と学んで帰る

※陸大出でない将校は『無天組』=二・二六事件の将校たち

◇磯部浅一の公判調書
軍務局長、故永田鉄山中将が就任しましてから私共青年将校の合法運動はとみに圧迫されるようになりました。


★1934(S9)帝人事件で内閣総辞職

4月18日 帝国人絹会社の買受をめぐる疑獄事件で黒田大蔵次官起訴
    (のちに無実が判明)
    検察が内閣を倒すために冤罪に陥れた
7月3日 斉藤内閣総辞職
7月   政友会は岡田内閣援助を拒否
7月8日 岡田啓介(海軍大将)内閣成立で三人の政友会閣僚除名へ
    政党間、軍内部、官僚内部に政界再編の動き活発化

※陸軍が主張する軍部独裁内閣ではなかった

※陸相の林銑十郎はかつては皇道派であったが
 統制派に転じて永田鉄山を軍務局長に就任させる

※政友会は当時、皇道派の陸軍中央部と結びついていた


★1935(S10)2~3月 天皇機関説攻撃、政友会と皇道派の提携

 軍部と右翼に衆議院第一党の政友会が公然と関わっていて
 同党は皇道派と呼ばれる陸軍部内の保守派と隠然と提携
 10月臨時総務会、新指導方針「国体明徴、機関説排撃」
「責任政治の確立」を決定=政友会主体の政党内閣制

★美濃部達吉の政友会批判と提唱
1933年著書「議会政治の検討」で
議会に基礎を有する内閣といえば今の議会においてはいうまでもなく政友会内閣でなければならぬ。しかし、政友会内閣が果たして国難打開の重任に堪えうるものとして国民の信頼を博しうるやといえばそれはきわめて疑わしい… したがって単純に立憲政治の常道に服するということだけでは、われわれは到底満足しえない
・・・
各政党の首領・軍部の首脳者・実業界の代表者・勤労階級の代表者による円卓会議を開き… 真に国家および国民を年として財政および経済の確立につき根本的の方針を議定する


※帝国憲法下では国防・外交について議会に諮らなくてよいことになっていたが美濃部の提唱は、財政および経済もまた議会にはからなくてよいということで議会制度を否定することになる


■陸軍部内で皇道派と統制派が対立

軍部独裁を目指す点で一致していたが
そのための手段をめぐって排斥しあっていた

皇道派
天皇親政、天皇中心主義を唱え、直接行動による国家改造を目指した。
青年将校たちには荒木貞夫(前陸相)真崎甚三郎参謀次長(7月16日罷免)が後ろだてになっていた。

統制派
官僚、政財界と提携して合法的な国家改造(軍部主導による総力戦体制の構築)をめざし高度国防国家建設、国家の総動員体制の確立を主張。
永田鉄山(陸軍省軍務局長在任中、8月12日陸軍省内で皇道派の相沢中佐に刺殺される)東条英機らの陸軍省・参謀本部内の幕僚層(陸軍大学卒)が中心。
五・一五事件(1932)以降、統制派が優勢になってきた。


◇対立のきっかけ
1934年10月の「陸軍パンフレット」(国防の本義と其強化の提唱)と
その翌11月の士官学校事件とに端を発している

◇統制派の方針を示した「陸軍パンフレット」
「国防」を国家の「基本的活力」としてすべてを「国防目的」に
一元化することを強調し、その普及徹底に力を入れた。
加えて経済活動の個人主義を排除した。

『国防の本義と其強化の提唱』 陸軍省新聞班(1934.10)
陸軍パンフレット 
たたかひの意義

 たたかひは創造の父、文化の母である。試練の個人に於ける、競争の国家に於ける、斉しく夫々の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である。

国防の意義

 「国防」は国家生成発展の基本的活力の作用である。
 従つて国家の全活力を最大限度に発揚せしむる如く、国家及社会を組織し、運営する事が、国防国策の目でなければならぬ。(後略)

対外的には第二次5か年計画進行中のソ連を主要目標とする兵力の増強と兵器の近代化(特に飛行機と戦車の増強)国内的には資本主義の修正による国民的基盤の強化を謳ったもので、社会民主主義勢力までも陸軍の支持基盤に組み込もうとした。

事実、社会大衆党書記長も同10月末の「社会大衆新聞」紙上でパンフレットの全面的支持を表明した。
それは第一に陸軍が五・一五事件当時の非合法的改革を放棄し「あくまで合法性」を重視した改革に転換したこと、第二に五・一五事件にいたる軍部の班資本主義的態度が「道義的精神的」なものに過ぎなかったが、パンフレットは「科学的態度」にもとづいた資本主義的機構の改革をめざすものと理解したからである。

社会大衆党は軍部と提携して資本主義を改造する「広義国防論」によって資本主義打倒の社会改革を通して軍部と無産階級の合理的結合が必然ならしめるとした。
1937(S12)の日中戦争の勃発までの主張となった。

※軍部が政治のリーダーを取ってゆくと言いつつ、
 政党内閣に変わるということが出てない
 その点が皇道派にとって不十分だと反対した


◇士官学校事件(Wikipedia)

五・一五事件直前に海軍青年将校を見殺しにして参加を見合わせた皇道派の青年将校がのちの二・二六事件と酷似したクーデターを計画したとして、統制派の陸士生徒中隊長辻正信が、士官候補生から聴取し摘発した事件。
具体的な反乱計画が練りあげられていなかったので翌1935(S10)3月の軍法会議では証拠不十分で不起訴となったが、以後『統制派』と『皇道派』の抗争が一段と激化していった。
陸軍幼年学校
陸軍士官学校予科生徒になるのに必要な素養を与えるための普通学科を教授し、軍人精神を涵養するとともに先進国の軍事地域導入のため、語学教育を重視した。
昭和期になると、東京陸軍幼年学校のみだったのが1936(S11)軍備増強時になると廃止されていた6地方の幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)が復活。採用生徒50人。毎月納金制。但し、陸海軍人の遺児は減免。教育機関は三年。13~15歳の男子。
中等学校出身者などとともに陸海軍士官学校に入学。

陸軍士官学校
兵科将校を要請するため1年間の隊付教育ののち、学校教育を1年半うけ卒業後、陸軍少尉に任官。1937(S12)軍備拡充に伴い採用人員増加で士官学校を本科・予科に分離。

陸軍大学校
選抜した将校に対し、高等用兵に対する学術を習得させ、合わせて軍事研究に必要な学識を増進させ、また高等用兵に関する学術の研究を行う学校。参謀総長の管轄下にあった。修学期間3年。
1933(S8)には選科学生制度が設けられ毎年、少佐、大尉学生訳80にんを選抜して1年間の速成教育を実施し軍備拡張に伴う参謀要員の補充に応えた。

(原剛・安岡昭男編『日本陸海軍辞典』新人物往来社)

■財政膨張政策 → 戦時経済体制へ
(クリックすると少し大きくなります)
財政膨張政策
※時局匡救費とは社会保障費。1935年以降打ち切り

◇その後一般会計に占める軍事費の割合は
 1941年 70.9% 
 1944年 78.7%

※石橋湛山「軍需生産はやがて資源が尽きる。国民の生産力は消耗する」




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昭和 | 02:58:47 | Comments(0)
3.11の原発事故で3月はお休みしました
3月は原発事故のためお休みになりました。

4月10日には臨時講座で原発についての勉強会をしました。
午後からお話してくださった、ご実家が福島の方が、お兄様から聞いたというお話は衝撃的でした。
現地では情報が入って来なくて、場所によってはとても厳しい状況でした。

5月からは通常の16期が始まります。
スケジュール


このブログの管理人は生活クラブ浦和のHPの管理人ブログも書いていて
毎日原発情報を発信中。
よかったらご覧ください。
「管理人二号の日記」
http://blog.livedoor.jp/woo111/

未分類 | 17:31:32 | Comments(0)

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