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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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昭和初期の暮らし、女性たちの暮らし その2
5/22 6/12

   大正デモクラシーの理念とは『人格の陶冶(とうや)
   (陶冶とは人の性質や能力を円満に育て上げること。育成。)
   そのためには学ぶことが必要ではないか。

   5月22日



昭和4年5年6年あたりで、日本が不況に陥って行った。
昭和恐慌の中で女性たちはどのように生きていたか。

■ 昭和恐慌と女性

・1930(S5)世界恐慌が日本に波及

生糸・米の価格の暴落を引き金に主要商品・農産物・株価が下落し、1927(S2)の金融恐慌以来の不況は一段と深刻に

都市、農村の別なく女や子どもまでも上と失業に追い込んだ

・一番の打撃は製糸・紡績の女工たち

1929(S4)末、製糸業は一斉に休業に入り80%の工場で賃金不払いがおこり、1930年の一年間で46,000人の紡績女工が解雇されたり、一時帰休を強要されたりした

・首切りを免れた女工に合理化と労働強化

製糸業はこれまで以上に優秀な製品を作ることで輸出を維持しようとセリプレーン検査という製品検査法が採用され、女工たちは2秒間、目を離しただけでも製品に村が出て影響するという労働強化を強いられた

紡績業では恐慌直前に多年の要求であった深夜業が廃止され、女工の労働時間はこれまでの12時間から二交代で18時間(一人9時間)に短縮された
経営者はこれによって生ずる損失に備えて新しい機械を導入、これによって女工一人あたりの受け持ち錘(すい・紡績機械の付属品)の数は以前に比べて二倍になり、織布部門では一人あたりの出来高は三倍にも達した

労働時間の短縮は労働条件の改善を意味するのでなく、新しい機械の導入で逆に労働強化を招いた

・堺の朝鮮人女工たち

岸和田紡績では朝鮮人女工が賃金切り下げ撤回の他に、昼食、夕食時に30分の休憩、寝具は夏、冬の二通りに、冬は火鉢を、という最低の生活の要求をし争議に入った

経営者は日本人と朝鮮人を、賃金・食事で多少の格差をつけることで日本人女工との離反を計ってきたので二者の連帯は実現しなかった

経営者は警察・暴力団と組んで実力行使で弾圧
警察は朝鮮人女工をとらえると『口には言えないほど』の拷問を加えた

労働者を支援するはずの組織(日本労働組合全国協議会、日本労働組合同盟、総同盟)の不統一や一部極左的闘争などが犠牲を大きくすることもあって、戦いは労働者側の敗北に終わった


■ 人間らしく生きたい~成長する労働者~

・人間としての当然の要求を踏みにじられ、結果的に敗北した女工たちには、それまでにない成長がみられた

・「女工」と呼ばれる鐘紡の女子労働者は、争議の報告集会で「社長さん、私たちもあなたの娘と同じように女学校へやってください」と皮肉をこめて、その家族主義に抗議した
(鈴木祐子「運動にかけた女たち)

・岸和田紡績の朝鮮人労働者は「日本人だの朝鮮人だのと国は違っても資本家に苦しめられているのは一つ」と叫び、帰郷を説得する父親に「新しい理論で対抗」するまでに成長していった
(金賛汀「朝鮮人女工のうた」)

・織本(帯刀)貞代は、このころ東京亀戸で「労働女塾」を開き、東洋モスリンの労働者に裁縫、料理のかたわら、社会科学の初歩を教え、その闘争を励ましていた

労働女塾


・織本の回想
「料理や裁縫を学ぶ時には『間に合わせでない人間のすることをきちんと学びたい』という意欲に燃えていた。そしてそうした人間らしく生きたいと言う意欲が厳しい闘争のエネルギーとなっていった。
それは深夜業廃止によって女工たちが、とにかく真夜中まで働くことから解放されたことによる」

深夜業廃止が一層の労働強化を引き起こしたとしても、真夜中まで働くという非人間的生活から一歩進んで料理や裁縫や社会科学のささやかな時間を勝ち得たことが、彼女たちに「人間らしく生きたい」という意欲を目覚めさせ、それがよりよい労働条件を勝ち得ようとする戦いも立ち上がらせていった。


<参照・引用文献>
「女の昭和史」永原和子・米田佐代子(有斐閣選書)



■ 昭和4年~7年

★1929(S4)

1.   寿屋ビールを発売

1.15 日雇い労働者、冬場の失業救済のため横浜でデモ

4.   東京府立第六高女など夜間女学校設立し夜間女学校増える

4.   東京文理大(筑波大)男女共学の入学許可する

4.15 鉄道の外房と内房が繋がり一周できるようになる。

5.9  トーキー映画が始まる。新宿武蔵野。

     この頃の流行歌「東京行進曲」

7.   東京で共働きの増加で託児所増設要望高まる

9.   東京小学校女教員修養会、洋装化を決定

9.   長雨で失業者が続出し給食費払えず欠食児童増え
     東京市が食券を配給

9.12 浜口首相、婦人団体代表者を官邸に招き、
     消費節約・勤倹貯蓄の国民運動への協力を要請

9.21  第一回全日本婦人経済大会開催

10.22 東京市、多産に苦しむ細民のために多産制限の指導
      全国から教えをこう手紙殺到

10.24 NY株式大暴落、世界恐慌始まる

11.5  警視庁、中絶禁止法違反の恐れありと警告

11.12 北海道函館の私立大谷高女、全国ではじめて女学生の
      軍事訓練を実施
      この年卒業してすぐに結婚する女性激減

12.   不況で購買力が落ち、見切り品、特価品を売り始める。

12.   清水トンネルが完成。全長9.7キロ。

昭和4年

この年、大学卒も就職率は12%、帝国大生も30%しかなかった。

初任給、官立大卒133円 私立大卒33円。平均50~60円。

教職員の月給初めてダウンする。不払いも。

円定=一円定食。スープとコーヒーのついた定食。

東京駅に八重洲口が完成。

自動車の生産台数437台(米国は533万7,087台)
      

★1930(S5)

1.    富士銀行、サラリーマンに無担保で融資。サラ金の始まり。

2.    東京市、失業保険を実施。

2.    名古屋で第一号のパチンコ屋が開業。

2.1   愛児女性協会が産児制限相談書を東京に開設
      医師間島、尾崎豊子が妊娠、小児保健相談行う
      多くは貧困、多産による
      2月~10月相談来訪者 1,359人、
      6月~10月文書相談者 5,130人

2.11  「君が代」制定50年で文部省が正しい歌い方のためレコード発売。

3.5   大日本産児制限協会開設

4.    上野松坂屋で初めてのエレベーターガール登場。

5.6   大阪府警察部、堺市の産児制限相談所二か所に閉鎖命令

5.10  婦人公民権法案、衆議院で可決、貴族院、審議未了
        ↓
      翌S6年2.28 再び可決 3.24貴族院で否決

6.6   東京にわが国初の独身用アパート「大塚アパートメント」完成
      部屋数157 教員、記者、学生などが入居

6.9   警視庁も産児制限、妊娠調節・禁止命令

7.12  離婚訴訟で、大審院は「子どもが出来ないのを理由に
      夫が妾を囲うのは認められない」tぽい妻の言い分を認め
      夫に慰謝料1万円を支払う判決

8.30  この三年間で親子心中増加。平均して三日に一件。
      自殺者14,000人。

10.1   奥むめお、婦人セツルメントを解説、婦人の協同隣保事業。
       託児部、妊娠調節相談部、健康相談部、夜間女子部
       母の会消費組合、小学生のおさらい会、
       和洋裁縫授産所を設置

11    山形県、西五百川村(現朝日町)で会員組織による産児制限

12.3  田中隆三文相「国運の進展・思想善導のための婦人団体の
      創設を訓令
      同日、大日本連合婦人会設立(政府による婦人層の組織化)

S4~5にかけて、経済的にゆとりのない家庭で、他に娯楽もなく、子どもがたくさん生まれている。

失業して徒歩で東海道を故郷の農村に帰る人が30~60人/1日

山形県谷沢村で不況のための対策。全員早寝して消灯。男性25歳、女性20歳まで結婚しない。

新潟県高田で初めてのスキー学校。

東京、横浜、大阪で初めての公衆電話。

国産初の東芝製、電気冷蔵庫。


★1931(S6)

1.     田川水泡「のらくろ二等兵」が『少年倶楽部』で連載開始

のらくろ二等兵

1.16   佐賀県から第1回ブラジル移民7家族40人出発

3.     東京市内の尋常小学校卒業者のうち約6千人は
       芸者屋や商店に人身売買に近い条件で就労

3.6    大日本連合婦人会発会式

       地久節(国母の日)を母の日と定め各地で開催

3.10   戦時色が強まり、静岡で初の防空演習

4.     禁酒村で有名な石川県河合谷村が満5年を迎え
       禁酒で積立た金(4万5千円)で学校を建設

5.10   民間による母の日(第二日曜)の催し第一号として
       「母を称えましょう」街頭行進が東京で行われ
       全国に広まる

       ※現在の母の日は敗戦三年後1948年から

7.10   木内きょう、東京始発の小学校女性校長
       (志村第一尋常小学校)全国では八人目。

7.24   大審院「身持ちの悪い夫には妻の財産管理権なし」
       と新判決

7.28   東京府職業紹介所が行った女子求職者5,779人
        →家計補助     2,747人(48%)
        →社会生活したい   590人(10%)
       
       希望職種
        →売り子(60%) 食堂の給仕(20%) 

       学歴
        →高小卒 2,277人(39%) 高女卒1,762人(30%)

9.1    三越、婦人五人を主任待遇に昇進、業界初

10.1   大阪控訴院、未亡人の貞操に関し
       ある程度の性の自由を認めると言う判決

この年の女性労働者146万9千人

その65%は工場労働者で 平均労働時間10.24時間
平均賃金一日(諸手当込)82.3銭

不況脱出のために財テクの本が売れた

開襟シャツ、ノータイ運動

パーマ(洋髪、電髪)

春雨、日本で最初に作られた

秋田で納豆作りが始まる

高級な銀座アパート完成、家賃は25円

(善方先生、1月1日に生まれる)

東京の運送店
運送店

東京・銀座通り松坂屋付近
銀座



★1932(S7)

4.     全国の自動車台数は9万116台で官公署用が60%以上

4.9    中条百合子 検挙

4.23   警視庁、保健婦参院を初の婦人警官として採用
       家出人保護を担当

1.~6.  新潟県内の農村で売られた女子4,962人
       (芸妓1,750人 娼妓1,502人 酌婦1,630人)

5.15   『上海事変、爆弾三勇士の母』表彰される

昭和7年

7.     自殺者急増、一日平均5.8人 
       親子心中多く、この二年間で1,419人死亡

10.    新潟、新発田高女、軍事教練を正課に加える

10.24  大日本国防婦人会結成

12.    ブラジル移民の希望者急増
       9月の支度補助金の奨励法が功を奏す

12.1   日本母性協会(会長、馬場)発足
       戦時制限、健康相談を行う

12.16  日本橋の白木屋デパートの火事で
       裾の乱れを気にして落下する者が続出
       これを機にズロースが広まったと言われるが
       実際には戦争中のモンペにより普及した

12.31  大晦日恒例、NHK除夜の鐘の中継始まる

<参考文献>
近代日本総合年表(岩波) 昭和史年表(小学館) 
昭和、平成家庭史年表(河出書房) 他





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昭和 | 04:32:54 | Comments(9)
売買春の構造と公娼制度
5/22 6/12
昭和恐慌の時期のどの本を読んでも売春婦のことが出ていません。
必ずあったと思うので調べてみたのですが、そのきっかけは「歴史と真実」という本です。千葉大学の美術史の先生で若桑みどりさんという方がこの本の中に出ています。

私にとって思い出のある本で、1997年、今から14年前この若桑みどりさんの講演会が浦和であってお話を聞きました。
「女性と戦争」というお話でいくつかお尋ねしたと思うんですが、終わった時に先生が私を呼んでくださって、私にその本をくださったのです。

  6月12日

不況の時に最下層の女性が自分の体を売ったことがあるだろうと思い、改めてこの本を読み、手元の資料集や昭和史の記録を読み返しました。

1.売買者産出の構造

①ローマ時代の法律に既に売春の記述

・東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス534年「ローマ法大全」公布
・533条(売春の定義)
 「相手を選ばず金銭のために公然と身体を提供すること」
 
②支配する側の組織的売春

・人身売買業者、売春斡旋業者、売春宿経営者、ひも

③売春企業が成立する社会的要因
    ↓
 赤字にならない優良企業

(売春する女性側の社会的要因)

1.貧困

2.女性の身体で金銭を得ようとする家族(家長)の存在

3.強姦、姦通などによる”堕落”のレッテル貼りにより
  社会復帰の道を断たれ、娼婦に売られる習俗、
  これを支える倫理

4.女性が経済的自立の不可能

(買春する男性側の社会的要因)

5.単婚(一夫一婦制)の存在
  売春は家父長制度下における必然的制度
  女性を「子どもを産む性」「快楽を得る性」に二分し
  男性の性的自由のみ肯定

 ※明治まで重婚が認められ姦通は女性のみの罪

6.男性中心社会で男性も産業界での絶対服従の疎外感

7.なぜ女性の身体を買うのか

  人類は移住生活時は男女が対等であったが
  定住生活を始めて男性は土地を広げ権力を持ち
  女性を交換価値のあるモノと発見
  (レヴィ・ストロース「親族の基本構造」)

  女性の身体をモノとして扱うことは
  歴史的、社会的に普遍的な観念である
  (ゲルダ・ラーホー「男性支配の起源と歴史」)

      ↓↓↓
 これらが資本主義社会においては金銭による女性身体の
 売買によって利益を追求する売春組織の成立の基盤に

8.結婚できない男性の存在

  貧困、社会的不平等、弱者差別などにより結婚不可

9.軍隊など性の不均等な強制的集団の形成

  従軍慰安婦問題など


2.公娼制度の理論的根拠

①ローマ帝国の公娼制度の始まり

・若い子の無知と貧困につけこんで、巧みに誘惑、契約によって縛り
自由を剥奪、衣食は不足、報酬はピンハネ、極悪非道の仲買業者

・基本的に為政者の皇帝は弊害の少ない売春制度の確立で
 国家事業として売春制度を取り込むことになった

②日本では16世紀末、秀吉の時代に始まる

・天正年間に京都に遊女屋を認める

・徳川幕府は「遊郭」として制度化

  1617年、人形町に吉原遊郭出来る(秀忠の時代)
    18C 遊女  2500人
     ↓
    19c 遊女  7197人

  1641年、京都の島原に遊郭出来る(家光の時代)

・遊郭は1872年(M5)娼妓解放(牛馬ふりほどき)により廃止

・新たな公娼制度を整備、強化

  大正末期から昭和初期にかけて全国に534か所
  そこで働いていた公娼の数は4万8677人

 ※平安時代には庶民だけでなく天皇家も遊女と遊んでいた
   白拍子と白河上皇との間に子どもが出来
   平忠盛に下賜され、生まれたのが平清盛
   

③公娼制度の理論的根拠

・古代ローマ

 「法秩序・良俗の遵守・税収入」
 (ローマの法律家ソロン)

・中世

 「君主たちが金に困っていた事情を考えれば
  売春が繁盛した理由がわかる。
  売春は莫大な収入をもたらす」
  (マンシニ「売春の社会学」)

・近代

 「公娼制度擁護の論点は『家庭の安泰』と
  『自由な性関係がもたらす弊害の阻止』」
  (バーナード・マンデヴィル「公営売春宿擁護論」)
  ※弊害=私生児、性病。子女の堕落

 「公営になれば違法性がなく社会の害にならない。
  売春で儲けるの女性、危害は男性、
  そうすればイギリスの娘たちが身を汚すことなく済み
  よその女を試したいという好奇心を満たす」
  (バーン&ブーロー「売春の社会史」下)

   ↓↓↓

総じて売春の国家的運営の目的は、国民の性の統御にある
それはまず一夫一婦制(単婚)システムの崩壊を防ぐことであり
なおかつ男性の側の多妻制を合理的に可能にすること

また妻・娘の性愛の防壁を作り嫡出子を確保することが出来る
そのため社会の下層もしくは周縁の女性を娼婦として集め
「家庭」の女性から分断する

分断された女性たちは互いの領域に閉じ込められ男性のみが
この両世界を往来する
これを国家的に行うのは家父長制国家の遺児に重要であった

また公娼制度はすべての売春婦を登録させる
この登録制の目的は国家が売春婦と言う身分に
その女性を規定し警察の管轄下に置いた
登録された前歴は以後の人生の希望を挫いた


④日本の公娼制度の終わり

・1947年(S22)12.2国際連合は「売春廃止条約」を提案
 60ヶ国が批准

 6条 すべての登録制度の廃止

・1956年(S31)5.24売春防止法公布、翌4.1施行
 1958年4.1罰則付売春防止法施行により
 全国約39,000軒、従業婦12万人消える


<参照・引用文献>
「歴史と真実」筑摩書房
 『従軍慰安婦問題~ジェンダーの視点から~』若桑みどり
「近代日本総合年表第二版」岩波書店
                        他

未分類 | 21:06:43 | Comments(0)
昭和初期の暮らし、女性たちの暮らし その1
5月8日善方先生2二・二六事件の背景を理解するために昭和の暮らしがどんなだったのか、そこで女性たちはどう生きていたのかを学んでゆきましょう。

大正デモクラシーが始まったのは明治の末年ですね。日露戦争が終わった後に、講和条約で結ばれた結果にノーと言う人たちが日比谷公園に集まって大会を開いたのが大正デモクラシーの始まりだと言われています。
一般の市民たちが自分たちの生存権、生活権を確保しようとしたのがポーツマス条約が結ばれた直後なんです。
日露戦争は大変な借金をした戦争でした。
そしてその大正デモクラシーが消えてゆくのが昭和の始め。五・一五事件の頃から。やがて二・二六事件の頃から軍部独裁の政治が生まれてゆくのです。

5/8(4/24の続き)

■昭和元年~昭和3年

~「戦時体制」に向かって徐々に女性たちを組織の動きも~

★1926(T15)昭和は12月23日から

1.    京橋の電話局にダイヤル式の電話機登場
      
2.    馬車廃止し自動車で市内各局に手紙を配布

3.    初めての栄養士誕生

4.    自転車取締法を改正

5.    聾吃学校が大阪に出来る 東京に6月

7.    日比谷にネオンサイン初登場

8.    東京に、日本初の母子ホーム、愛国婦人会
      「隣保館」が開設

8.20  東京と大阪と名古屋の放送局が一緒になってNHK

8.26  小学女教員 竹田喜代(36才)山形操(37才)
      初の海外視察教員として渡米
      美人で身体があまり小さくないこと
      学識経験豊かなものという条件にかなった

9.28  横浜-桜木町 電車が開通 
      東京-上野 自動ドア一部
      
10.1  健康保険法が誕生

10.   そろばんが必修科目になる

11.   杉野ドレスメーカー女学院
     (生徒は和服で通っていた)

11.  日本橋三越に初めて婦人専用化粧室(WC)が出来た

12.2  午後1時から1時間 銀座で資生堂が衣装調査

      (女性 洋装22人  和装494人)
      (男性 洋装797人 和装349人)

<この年>

・みつ豆が人気デザートに

・不況で借りてなく東京に貸家が急増

・東京上の動物園のラクダ

・一般家庭にガラス戸流行する

・モガ・モボが銀座を闊歩する


<この頃初登場したもの>

 燕尾服、国産ラクダのショール、襟付きシャツ、
 ベビー用シッカロール石鹸、カシューナッツ
 西洋料理の10円料理、スイカの接ぎ木栽培
 セメント瓦、ヒューム製水道管、
 電熱器(電気七輪)=「七厘ほどの炭代」から
 東京電灯という会社が電熱器の貸し出し
 栄養士

<東京の物価>
 天丼・60銭 うるめいわしゴマ入り・15銭
 イチゴ・30~40銭 床屋47~50銭
 新聞代一か月・1円 扇風機37円


★1927(S2)

1.   アメリカから青い目の人形400体

1.   運転免許のための自動車学校が東京に出来る

3.6   大阪連合処女会 発足式
     (府下280余の処女団体の連合体)

3.   横浜に臨海公園 山下公園開園

4.29  全国の処女会を統合して大日本連合女子青年団設立
     (10.10 結団式)
      良妻賢母だけでなく女性も国民としての役割を期待されてくる

5.12  大日本産婆会設立、産婆の登録制
     (産児制限をしないよう、生めよ増やせよ体制に)

5.13  母の日始まる
     (国が母性を管理、賞賛)←国民精神の統合のため

5.   大審院の画期的な判決 大正デモクラシーの成果
5.17  大審院「男子貞操義務に関する判決」
大分県の主婦が、三人の子どもとともに捨てて他の女性に走った夫に慰謝料と養育費を要求

大審院は「妻が夫に対して貞操の義務があるように夫にも貞操の義務がある」

10月婦娼連盟が、この判決を記念する講演会を開催
その席上でこの判決に参加した元大審院長・横田秀雄は「もし十数年前であったなら、このような判決は下されなかったかもしれない。女子の教育程度が高まり、その思想も進み、自覚した女性が多くなり、女権の確立がさけばれるようになったことが、この判断の根拠になった」と語っている。

12月には「民法相続中改正ノ要綱、発表

①妻以外の女性との間の子を家に入れる場合には妻の同意を要すること
②離婚原因や離婚後の扶養について妻の権利を拡大すること
③妻の親権行使や財産上の無能力を改める


5.30  東京モスリン亀戸工場の争議妥結
      女工が外出の自由を初めて獲得

7.   岩波文庫始まる

8.   岡山市内で満州や朝鮮に子どもを売っていった
     現地にいる経営者が労働力として15~20円で

8.   長野県で女子労働者1213人が
     労働組合加入権や食料、衛生管理を要求し嘆願書
     30日間ストライキ 
     経営者は官吏を使って警察、在郷軍人会でスト弾圧
     失敗に終わったが女子労働者の団結が話題になった

9.   日本橋三越で初めてのファッションショー

9.   許可制で電車広告始まる

10.6  東京郊外の主婦たちが東京瓦斯は儲け過ぎと非難
      値下げ陳情

10.15 松坂屋の食堂店員の制服が洋装に変わる

10.   富山県で主婦による電気料金値下げ運動起こる
      ~30年にかけて全国に波及

11.   文部省が女学校と中学校の筆記試験を無くし
      内申書と面接にした

11.   内務省は帝国大学以外の私大卒も採用決める


<この年>
・産児制限の流行と不況で主性人口、大幅に減少
 45041人減

・新宿中村屋インドカレー 80銭 1日200食

・セメダイン登場

闊歩するモダンガール
モダンガール

こういう女性に対して平塚らいてうや山川菊枝らに対して、「感覚的な享楽と頽廃的な趣味とともに生きている。
出身のいかんを問わずブルジョア階級の後継者」と評した。
今もこういう女性はいて、社会の動きにも無関心だし過去のことも全くしらないという状況が続いている。
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★1928(S3)

1.   結婚年齢の高齢化 就学年齢高くなり働く女性も増えて

2.   日本女子大付属女学校生徒募集30人に対し出願者296人
     受験戦争のはしり

3.5  埼玉県草加町で社会運動家の赤松常子らが「母と子の会」設立
     託児所を作り産児制限運動 子どもの学習会など行う

4.   第一銀行本店(現第一勧銀)初めて女子事務員を採用

5.13 母の日(5月第二日曜日)始まる
国が母性の管理に乗り出す →産婆の登録や母の日の制定

・女性の重視は、人口政策と国家的家族管理の要があったことと国民精神統合のため

・市民や大衆の一体化→『国民意識』の高揚→国家主義へ

・政策・法は国民を物理的に動かすが内面から国民を動かすには文化の動員が必要→そのために知的で社会性をもった女性社会運動家を最大限に利用する

・「母の日」1927年(S2)ドイツの花屋の団体が始めた。このことが日常生活の中に母親崇拝をうえつけることに貢献。ナショナリスト(民族主義者)が熱心に推進し、母親援助綱領、子どもの多い母親の表彰

・1933年(S8)ヒトラーが政権をとると地震の母の誕生日の8月20日に変更したがのちに戻す。子ども8人以上に金など母親勲章を授与

・第一次世界大戦(1914-18)後、ヨーロッパは出生率が低下。フランスでも1920(T9)5.26子ども5人以上の母親に勲章授与。イタリアではムッソリーニが1930年大「出生率への戦争」を宣言。



6.29 治安維持法に死刑・無期を追加

7.   群馬県高瀬村(現富岡市)の処女会、酒飲み男に対する
     拒婚同盟を結成

7.1  婦選獲得共同委員会の結成

7.1  全国に特高警察設置

9.1  鉱夫労役扶助規制改正され、女子の坑内労働禁止となる

10.7 富山市蓮町に市内の婦人の寄付で7年制の高校開設
     (現富山大学)

<参考文献>
近代日本総合年表(岩波) 昭和史年表(小学館) 
昭和、平成家庭史年表(河出書房) 他



昭和 | 01:04:45 | Comments(2)
天皇制を学ぶ
5/8

   5月8日

   NHKの朝のドラマ(おひさま)を見ています。
   今、主人公が師範学校を受験するところですが
   ちょうど私は小学校の三年生でしたが
   あの頃を思い出すのです。
   非常に臨場感があって
   あのドラマを見ていてもいかに天皇制が
   宗教だったことが皆さんにもわかると思います。



二・二六事件の背景として天皇制

■何故天皇が神になって行ったのか

この本を資料として使いました
マンガ 日本人と天皇マンガ 日本人と天皇
(2000/12)
雁屋 哲、シュガー佐藤 他

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★明治維新が、その後の日本の国の道を定めたが、その時の一般市民、天皇、官僚の行く道が別々では困るので一本化しようと考えられた。

★尊王の志士たちが天皇のことを『玉(ぎょく)』と呼んだ。『玉』というのは取引に使われる商品の道具。

★記紀の神話は天皇家が自分たちの支配を正当づけるために作られた。

★明治になってから、天皇家という一氏族の私的な神話を日本人全体が信仰することを強要されたという意味で、天皇を現人神とする近代天皇制は明治になって起こった宗教。

教育勅語に見る事実にそぐわない記述
①皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ
天照大神、神武天皇は建国神話に登場。歴史上に存在しない。

②徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
正史とされる「日本書紀」本文中の記述の中に反する事々が多々あり。

③我ガ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セル我カ国体ノ精華ニシテ
明治維新になるまで大多数の人々は天皇の存在も知らなかったことで克く忠を尽くした事実はなかったと言えるのではないか

④天壌無窮ノ皇運を扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス…爾祖先ノ遺風
臣民と名付けられた当時の人たちすら天王の存在を知らなかったのだから、祖先の人々が皇室のために尽くすことに努めていたと言えるだろうか。

⑤斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ
其の道(兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ)は果たして天皇家の遺訓と言い切れるだろうか。


★少年時代に天皇陛下のために死ぬことが名誉であり誇りであると徹底的に仕込まれて、宗教の怖さを身を持って感じた。

★奈良旅行で気が付かれたと思いますが、高天彦神社があるところは高天原という地名があります。橋本院の所在地は高天(たかま)です。原を取っているのですが、何故かというと高天原だと九州に高天原があるからです。でも実際に高天原という碑がありました。
天孫降臨を命じたのは高天彦神社に祭られている高皇産霊神(タカミムスビノカミ)で天照ではない。日本書紀の正史に書かれている。だから奈良に高天原という地名があるのは当然のこと。

★あきらかに九州の日向に天孫降臨をしたというのは、あとから作られた神話。天孫降臨を九州に持って行ったのは九州から東へ進むことによって日本統一したことにするため。大和という葛城に高天原を置くと九州が入らなくなるから。

★朝廷の始まりは大和。神武天皇もそこの神様の娘をもらっている。

★天照大神が国を広げるために、まず出雲の国を支配地にした。天照の命を受けて天下った神様に対して大国主命が「息子の意見を聞かなければ答えられない」と言った。息子の事代主神(ことしろぬしのかみ)が「わかりました」と言って領土になった。出雲風土記を読むと事代主神をまつった神社はない。事代主神は葛城にいた。彼の娘と神武天皇が結婚する。

★伊勢に行く江戸時代の農民たちがお参りしたのは天照大見神をまつった内宮でなく農業神をまつった外宮であった。ついでに内宮に行ってる。

★大政奉還でなく体制譲渡が事実である。

★「君が代」の君は天皇ではなかった。かつては単なる祝い歌であった。

★天皇制によって一般国民は天皇と臣(官僚)によって支配されている。






昭和 | 07:42:54 | Comments(0)

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