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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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1945年、敗戦までの経緯
4/27
    
   4月27日ヤルタ会談の説明

  私は「終戦」という用語は不当な用語だと思います。
  「終戦」という用語には天皇の決断により不当な戦争が
  終わりを告げたの意味が含まれており、
  そこには開戦を命じた天皇の責任をあえて問わない意味が
  含まれており使用すべき用語でなく
  「敗戦・降伏」と明言すべきだと思います。
 


◆重臣たちの目指した「終戦」

〇44.5.17
米内光政「皇室の擁護が出来さえすればよい。本土だけになっても我慢しなければならぬ」

〇44.7.18近衛文麿の重臣会議での発言
〇45.2.14近衛文麿の上奏文
軍部内の共産主義者のために「大東亜戦争」がひきおこされたという前提に立ち、敗戦よりも恐るべきは革命であって「国体護持」のために一日も早く戦争を終結せねばならむと説いている。

〇45.6.22(初めて公の機関で正式に問題とされる)
御前会議で近衛文麿は、ソ連に特派して終戦の斡旋を依頼しようと企てた。
ソ連は既に対日参戦を約束していたので、時すでに遅かった。

重臣たちは「国体護持=天皇制支配機構」を温存のために、混乱の発生に先立って戦争を終結さようとし、降伏は国民を戦災から救うためになされなかった。

結局、原爆投下とソ連の開戦というダブルショックが8月10日、14日の二回にわたる御前会議において鈴木首相、米内海相、東郷外相らの幸福論を支持した天皇の聖断によるポツダム宣言受諾の決定を導いた。

御前会議では事前に天皇に内容が知らされているので、天皇の意向をくんだ内容。
天皇は何も発言しない。

◆ソ連の参戦

〇45.4.5 ソ連は日ソ中立条約の有効期間が過ぎれば不延長を通告
 1941年4月にモスクワで調印し、日本軍は満州の北の心配解消
 日ソ中立条約 - Wikipedia

〇45.6.22 日本がソ連に終戦の斡旋を頼もうとしてたのは何故か
 日ソ中立条約の期限内であった
 ソ連は世界の強国であり、共産主義国であったので他に頼る国がなかった

〇45.8.8 広島に原爆投下の二日後、ソ連が参戦し満州に攻めてくる
 関東軍はいちはやく撤退し満蒙開拓団の人たちは軍隊に守られず悲惨
 多くの残留孤児が生まれた

◆ヤルタ会談

ヤルタ会談 - Wikipedia
ヤルタ会談は、1945年2月4日~11日にクリミア半島のヤルタ近郊で行われたアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談。

第二次世界大戦が佳境に入る中、ソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなった(ヤルタ体制)。

「ヤルタ(クリミア半島)69年前の教訓」朝日新聞2014年4月1日
(クリックで大きくなります)
朝日ヤルタ会談記事

〇ソ連は日ソ中立条約を破棄し連合国と結んで秘密協定を結んだ
日本の領土であった千島列島と日露戦争で獲得した樺太の南半分をソ連の領土に
ドイツが降伏した後、に三カ月後にソ連が日本に宣戦布告する
    
◆ポツダム宣言

ポツダム宣言 - Wikipedia
ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英語: The Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言。

他の枢軸国が降伏した後も抗戦を続けていた日本はこの宣言を受諾し、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)は終結した。

ソビエト連邦(ソ連)は後から加わり追認した。宣言を発した各国の名をとって、「米英支三国共同宣言」ともいう。

〇日本と長い間戦争していた中国の同意を得た。

〇ソ連は6日間の参戦で戦勝国の仲間入りし大きな利益を得た。
 米英も日本の降伏を早めるためにソ連の参戦が必要と考えていた。

〇戦勝国が日本に求めたもの
・日本の領土は本州、北海道、九州、四国と周辺の島々
・日本を非武装国家にする
・戦争犯罪人の処罰
 ※米国世論は天皇の処罰を望んだがマッカーサーは安く占領するため
   天皇の利用を考えて処罰しなかった
・自力での経済復興のためにアメリカは賠償を要求しなかった
 ※アメリカは日本の経済が立ち直れなくなるとソ連の影響を危惧した

〇45.8.14 スイスを通じて日本は通告を受諾

◆敗戦後

〇45.8.14 夜
あくまで抗戦を主張する軍隊の一部が宮城内で反乱を起こし「玉音放送」の妨害を企てたり、鈴木首相らを殺害しようとしたり、厚木その他の航空隊が抗戦ビラを撒いたり、不穏な動きも生じた。

宮城内の氾濫計画に対し、陸軍大臣阿南惟幾が一時これを容認する態度を示したばかりでなく、その防止のためになんらの措置も講じなかった。
(「終戦史録」下巻・参謀本部「敗戦の記録」資料)
阿南は氾濫の予備陰謀に参加した罪、少なくとも氾濫防止の義務を故意に尽くさなかった不作為の罪を犯した責任は免れない。
阿南惟幾 - Wikipedia -

〇45.8.15
「玉音放送」が行われ、国民の多数派はじめて戦争が敗戦となって終わりを告げたことを知った。

「敗戦」により降伏したが、「終戦」という言葉に置き換えたので
天皇のおかげで戦争が終わったという世論が作り上げられていった。




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昭和 | 07:34:10 | Comments(0)

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