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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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「二・二六事件」青年将校はなぜ『昭和維新』を思考したか
2/13

大尉は中隊長、少尉が小隊長、小隊は三個分隊からなっていました。
一個小隊が45人くらい。中学一クラスがだいたいそれくらいでしたから一組が第一小隊、二組が第二小隊と言われ級長が小隊長でした。
級長になるとサーベル下げることが出来ました。
それ以外は古い銃を持ちました。

   2011年2月13日

一回級長に指名され小隊長になりました。
軍事教練の時、学校に来た配属将校が「前に進め」と命令しプールがあったのですが命令変更がなかったので5月頃でしたがそのままプールに入って塀まで直進しました。

教室に戻るとびしょびしょでしたが、よそのクラスでは級長がプールを回避したら命令違反だと配属将校に革のスリッパで殴られ出血した者もいて、仲間から「お前のおかげで助かった」と言われました。

当時の学校は恐ろしいくらい軍人が全てを握っていましたね。



調書などはすべて濁点なしのカタカナ表記ですが
とても読みにくいのでひらがなに直して載せました。


◆『昭和維新』を思考した青年将校

★青年将校の思想形成は家庭環境・社会環境、体験によるもの

◇一般的には下記のように言われているが…

・山川出版「詳説日本史」
 二・二六事件は「北一輝の思想的影響を受けていた皇道派の
 一部青年将校」が起こした

・神戸大学「近代日本の政治と社会」アンケートより
 「二・二六事件とは、北一輝の思想に影響をうけた皇道派の
  青年将校による統制派に対するクーデターである」

◇実際に処刑された将校の証言


・磯部浅一(公判調書)
「私は北および西田両氏のかかる思想によって啓蒙されたことはありません。
それに煽動されたことはありません。
他の青年将校もまた同様であります。
私の国体観は私自身が持っているものでありまして私はこれによって行動し居ります」

北一輝(1883~1937)西田税みつぎ(1901~1937)は
青年将校に指導的影響を与えたわけではなく、彼らの思想形成はそれぞれ独自に1920年代から30年代前半にかけて思想形成を遂げた。


★青年将校が『昭和維新』を考えた理由

①陸軍内部の硬直した派閥への反発

 さまざまな差別があった

 ○長州閥 …陸軍は長州、海軍は薩摩が中枢に

 ○学閥  …陸軍大学をでたか、士官学校卒では出世しない

   ※二・二六事件起こした青年将校たちは大学出てない

 ○兵科閥 …歩兵(エリート)、騎兵、砲兵、など

 ○門閥  …家柄

 ○閨閥  …結婚のよる縁戚

・菅原三郎歩兵大尉(禁固五年)
「自ら討閥粛軍に当たらんとの大望を抱く」

◇陸軍士官学校内の良くない雰囲気

磯部浅一(元一等主計、常人、反乱罪・首魁、死刑)
 ※常人=軍人でない人
(公判調書)
 当時思想方面における学校の空気は社会主義・共産主義にかぶれて対抗処分を受けたり、婦人問題にて心中したりその他校規則を犯して放校その他処分をうけたりする者がありまして実に混沌たる空気でありましたが菅波三郎、村中浩次(元陸軍大尉、常人、死刑)ら37,8の中の同志でありました。
 その人たちが士官学校内の腐った空気を刷新せねばならぬというので国家改造運動が発展してきたのであります。
 

真崎甚三郎(1926~1927陸軍士官学長)
(1936 軍法会議の聴取書)
「第一に職員も国体精神、皇室観念が頗る薄らいでいると痛感しました。」 

「第二に頭の中には文化と軍事とは相いれないものであるとの如く考えておったことであります(略)」

「第三に新カントの学説が流行しておりました。その内容がいかなるものか(私は)今日まで不明でありますが、その学説の道徳方面に現れたるものは人の道徳的行為の価値は自立(自律)にある、他より強制されてやることは不可(略)上官の強制によって姿勢を整えていっても価値がないという風潮がありまして(以下略)」

「第四に(前略)当時生徒隊中の区隊内に労兵会の如き物を作り、或いは無記名投書により、或いは中隊長に希望を述べて希望通りやるという状態にありました。(以下略)当時予科生徒の中には、化粧道具や「スター」の写真などを持つという状態であり、休養室のものが脱柵して『カフェー』に行くという状態でありまして(略)当時の菊池教育総監はこの状態を見て泣かれた様な次第であります」

※硬派の士官学校生徒は外部の青年将校の働きかけがある中で結集が始まるが、少数派だった。
  
※真崎は青年将校たちの後ろ盾であったが軍の都合で死刑になるのを免れた。


②対外危機感
(二・二六事件の将校だけでなく周囲の人々も)

西田税(常人 反乱罪 首魁 死刑)
「動機は大本教の日本戦争関係を聞いて大陸発展の必要を感じこのためには国内を改造する必要があると感ずるようになった」

大本教 …神道系の新興宗教。1892年出口なおが開教。


③庶民の窮状への反発と共産主義への脅威

磯部浅一(1925~27朝鮮派遣軍の初年兵教官)
「余が数年間の軍隊教官教育において接したる入営兵士の家庭の大半は貧困であった」

その一例
 オドオドしている兵から
「さらにやさしく色々と彼に聞いてみると私生児である事、母親に早く死別した事、父親だというのは居るけれども始末におえぬ極道ものである事、小さい時から奉公ばかりして他人の手塩にかかって苦労した事、貧乏人に生まれると一生頭が上がらぬ事、社会より少年刑務所の方が楽であった事などを吶々と話した。
 無学な訥弁な兵士であるが人並みならぬ世間の苦労と戦ってきているのでその実感を聞いて私は肺腑を刺される思いがした」


香田清貞(第一旅団副官 反乱罪 首魁 死刑)
 1925年からの隊付経験を通して非常に強い変革志向を抱き始める。
被告人尋問調書で兵たちが「誠心誠意頭の先から足の先までご奉公の誠に燃えて居る事」を実感すると共に兵の実情に「思想悪化」への懸念を強めた。

「然るに兵の中には赤貧洗うが如き家庭の者がありましてこれらに対する処置としては高々軍事救護(≒生活保護)を受けしむる位が山でありまして、しかも軍事救護を要すべき者として初年兵入隊当時、関係市町村長に請求いたしましても1/3位しかこの恩典に預かる事が出来ませぬ。
 かくては奉公の誠を致す兵の思想の中に共産主義的な萌芽の発生を促し、国軍の戦闘力にも悪影響を及ぼすばかりでなく、国体を破壊する様な者を発生せしむる事となり、陛下の兵を預かっている者としては真に申し訳ない事になると思いまして、この貧富の懸隔に対しては何とかしなければならんと考える様になりました」
 
「国民全般が上下を通して私有という観念を捨てること」
「ここに私有と申しますは、決して私有財産制度を否認するという意味ではなく、倫理的に自分のものであるという観念を捨てて、陛下から御預かり致している物を運用させて頂いているという観念にならぬという意味であります」
 
※農村の極端な貧しさをどうにかしたいという思い

④時流
~政党政治・金権的風潮・日本人のあり方への反感~

対馬勝雄(歩兵中尉 豊橋陸軍教導学校 28歳
                    反乱罪 謀議参与 死刑)

早い時期から政党政治・金権的風潮への反発を抱いていた。
「特に士官学校本科において(T14~S4)余はつとめて諸上官を訪問しその薫陶に浴し」「郷里青森においては歩兵第五連隊の将校の大半を訪問」
(この連隊に末松太平歩兵大尉、在隊 反乱者を利す 禁固4年)
「その結果、社会問題・思想問題につき注意を喚起せられ当時政党・財閥その他、みな腐敗し健全なるものは軍人と司法官のみなりとの概念を得たり」
少尉任官、弘前歩兵三一連隊付に「一般社会は暫時不況に陥り左傾思想に増々跳梁を逞しくす。余の郷里(岩手県)一般の貧困は益々甚だしく、また特に入営壮丁の家庭の状況を調査し制度機構の矛盾を痛感し漸次これが改造の必要を感ずるに至る」

※腐敗した社会を変えなくてはという思い


村中孝次(元陸軍大尉 常人)
(公判調書)

1928(S3)~1929.6天津駐屯期間に「塘沽タンクー泰皇島テンホワンドォに出張して日本人の生活状態をつぶさに見」「日本人が無理想、無方針で密輸などをして生活しているような誠に情けない状態にあることを知りました。私は従来日本人に対してもっと高い理想を持っていたのでありますが、この状態を見て人心の大敗を思い、国家の前途を憂え国民の精神を振作し、日本人の理想を高める必要あることを知りました」

※商社勤務の人たちの金権主義を見て、一部の者が利益を得ている社会を変えなければと思う


軍法会議はすべて非公開で行われた。
記録として戦後残っていたの明らかになったが、当時は秘密裏に処理された。

昭和 | 13:27:03 | Comments(0)
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