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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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二・二六事件の起きた背景、天皇の対応
10/9
 
  二・二六事件の襲撃の理由の一つにもなった国際連盟脱退ですが
  高松宮は反対していました。
  高松宮はさかんに天皇に戦争をやめるように言っていたのですが
  天皇は耳を貸さなかったのですね。
  そして軍部の意向に従い国際連盟を脱退し孤立化の道を歩みます。
  もし高松宮が天皇だったら、こんな悲惨な戦争はなかったと思います。
  10月9日


※資料のビデオ部分がレポートから抜けていますので、不完全な報告です。

◇なぜ2月26日に蹶起したのか


※たんなる「決起」でなく「蹶起」としたのは政党に支持された政府でなく天皇親政の軍部内閣を作るという意味

「第一師団の満州行き」「軍事費よりも民力充実という高橋蔵相の発言」、その他にも蹶起を促した理由。

〇反ファシスト人民戦線樹立可能性見えた2月20日の総選挙の結果

アメリカの共産党本部日本人部が日本語で発行している雑誌「国際通信」に、当時国際共産主義コミンテルンで日本代表であった野坂参三が「日本共産主義者への手紙」の冒頭(現代史資料14巻)
   ↓↓↓
『この手紙を送ろうとした時、日本に二つの重大事件が起こった。即ち議会の総選挙と2月26日の軍部の陰謀事件である。…』

政友会、1月21日内閣不信任案提出。岡田内閣、衆議院解散。
2月20日第9回総選挙。

<結果>
 与党・民政党 78 → 205議席 (第一党へ)
 野党・政友会 71 → 171議席 (第二党へ)

この選挙結果を野坂参三の「日本共産主義者への手紙」の中で
   ↓↓↓
・反ファシスト人民戦線樹立の可能性が成熟している
 社会大衆党、5 → 22議席

・民間ファシストは敗北した
 皇道派と繋がっていた政友会-71 国民同盟(右翼)-5

・この選挙の結果は国民の大多数がファシズムと戦争に反対していることを明白に物語っている


〇前年の内閣審議会と内閣調査局の設置への危機感

<陸軍統制派が新官僚と社会大衆党とともに内閣調査局を軸に提携>

1935年(S10)3月4日 岡田首相、議会で天皇機関説反対を表明
         5月11日 内閣審議会・内閣調査局、官制公布(勅令)
         8月3日 内閣、国体明徴声明を発表

 内閣審議会… 会長(首相)副会長(閣僚)と委員15人で構成
          重要政策について内閣に建議
             ↓
       政友会を取り込み抱き込むことを画策し失敗
       翌年の1936年5月6日に勅令で廃止

 内閣調査局… 首相直属の国策調査機関
          長官と15人の調査官、任期2年
          省庁の枠をこえて国策の調査、立案が主任務
          内務省社会局、警保局を中心とする「新官僚」(革新官僚)
             ↓
        二・二六事件の翌年の1937年5月14日に勅令で廃止
        林内閣が企画庁を作り内閣調査局が組み込まれていった
        企画庁は国家総動員計画で全ての産業経済進めてゆく

 ※新官僚は労働組合の健全な発展を願う点など資本家より進歩的だった

・内閣調査局誕生の背景に美濃部達吉の「天皇機関説」
 -天皇は国家の最高機関-
 憲法第55条・国務大臣は胆嚢を輔弼し、その責に任ず
 法律・勅令・国務に関する詔勅は核国見大臣の副署を要す
              ↓
           内閣中心説

・内閣調査局を社会大衆党は支持、陸軍統制派も支持
 議会を迂回した国策決定を目指す
              ↓
 戦後、亀井貫一郎(社会大衆党)は回想で
 「『内調』は永田(鉄山・軍務局長)の妥協案なんです」

・陸軍統制派は内閣調査局の国防と経済の政策立案重視し、クーデターによる政治体制の激変は目指さない

・政友会は内閣審議会・内閣調査局は衆議院を軽視し議会政治を否定していると反対、皇道派は内閣調査局を自派の包囲攻撃と受け止め、両社は急速に接近


◇二・二六で襲撃対象の主な五人とその理由

・牧野伸顕前内務大臣(2か月前辞任)と鈴木貫太郎侍従長
1930年(S5)ロンドン海軍軍縮会議の際に軍令部長の帷幄上奏(首相や軍部大臣を経由せず直接天皇に上奏すること)を妨げた
1933(S8)国際連盟脱退を天皇を担ぎ出して阻止しようとした

・岡田首相と高橋是清蔵相
内閣審議会・内閣調査局設立の中心人物とみなされていた
二人の殺害が最大の目標

・渡辺錠太郎教育総監
統制派で真崎甚三郎の後任

主要襲撃事項一覧(目標、襲撃地・時刻 指揮官・兵員 装備 被害者)
(クリックすると大きくなります)
首領襲撃事項一覧

牧野は河野が銃声を聞いて殺されたと思い生き延びた。
鈴木貫太郎は奥さんが覆いかぶさりとどめは自分がと言い、安藤大尉は以前訪問して畏敬の念を抱いていたので敬礼して立ち去る。
岡田首相は別人と間違えられて難を逃れた。

asahi.jpg


 ←「日本を震撼させた四日間」より
  東京朝日新聞社の襲撃

  言論の自由許さない


海軍は斉藤内大臣や岡田首相は海軍出身だったので皇道派に怒り、連合艦隊が東京湾終結。


◇「蹶起主意書」と「陸軍大臣要望事項」

蹶起主意書は野中四郎大尉の原案に、北一輝と村中孝次が筆を入れたもので、永田町の陸軍大臣官邸に午前五時頃、歩一旅団司令(副官)香田清貞大尉、歩一丹生誠忠注意、山本又予備歩兵少尉、村中孝次、磯部浅一らが150名を率いて陸軍大臣官邸に到着、午前六時半ごろ川島義之陸相に合、香田大尉が「蹶起主意書」を読み上げ、「陸軍大臣要望事項」を手渡し、善処を要請している。(「震撼させた四日間」より)

要望書

川島陸相の返答
3以降の人事権については拒絶。
7については「皇軍相劇の不祥事を惹起せない様に努力するのは当然」と答え「別命あるまで、現在の占拠位置より動かない様にせよ」と指示したが、直ちに撤退せよとは言っていない。


◇二・二六事件と天皇

■2月26日

〇5:40頃
当直侍従長・甘露寺受長、宮内省・内大臣亭より電話で事件発生を知らされ、①ただちに天皇を起して報告、天皇は「とうとうやったか」と言ったままでしばし呆然としていたという。
天皇の両眼に涙の光るのを見た甘露寺は、「ここでお上にしっかりしていただかなければなりません。青年将校たちは皇道派とかなんとか、さも忠臣のように言っていますが、この際よくお考えになって下さい」と進言。②
この言葉にわれに返った天皇は「そうだ、あの者たちは反乱軍だ」と断じた。③
天皇は直ちに陸軍大元帥の軍装に着替えた。←大元帥として討伐を決意

〇6:00頃
本庄侍徒武官長が報告した時点ですぐさま事件を「禍」と断じ反乱軍の鎮圧を指示。
天皇は反乱軍を当初から「暴徒」と呼んでいた。
皇道派に同情を寄せていた本庄は「暴徒といふお言葉を差し控えて頂きたい」と発言している。④

また天皇は川島陸相をしばしば呼びつけては「一時間のうちに暴徒を鎮圧せよ」と言い、それから15分ほどたつと「もう撃ち始めたか」と攻撃を催促し、本庄に様子を見に行かせる⑤というおおきにいらだった状態だった。
 
 ①甘露寺受長「背広の天皇」東西文明者 1957年刊

 ②③④⑤岸田英雄「天皇と侍従長」朝日文庫 1986年刊

「昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記」より
(寺崎英成・マリコ・テラサキ・ミラー編著 1991年刊)
「当時叛軍に対して討伐命令を出したが、それについては町田忠治を思ひ出す。町田は大蔵大臣であったが、金融方面の悪影響を非常に心配して断然たる処置をとらねばパニックが起こるとちゅうこくしてくれたので、強硬に討伐命令を出すことが出来た」

※経済混乱(海外為替の停止や銀行の取り付けなど)

※高橋是清に代わり2/27より商工相の町田が蔵相を兼任

※町田が経済混乱を憂慮する旨の内奏したのは事件発生二日後の28日午後3時以降
 (町田に内奏をすすめた大蔵次官、津島寿一の記録より)

※天皇の経済パニックの心配は、当時内大臣秘書官庁だった木戸幸一の日記と28日の「本庄日記」にも見られる


■2月27日

天皇の鎮圧要求がエスカレートする。
27日未明、枢密院への諮問をへて、天皇は東京市に開眼を実施する緊急勅令を公布した。

〇午前8時20分
反乱軍は減退に復帰せよ(命令に服さない場合は攻撃)との「奉勅命令」を裁可

(参照・引用文献 山田朗『昭和天皇の軍事思想と戦略』校倉書房刊)

本庄が天皇に対して反乱軍の行為を「其精神ニ至りテハ君国ヲ思フニ出デタルモノニシテ、必ズシモ咎ムベキニアラズ」と弁護すると、天皇は側近たち(斉藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長ら)を殺傷したことだけでなく、自分が命令を出してないのに勝手に軍隊を動かしたことに怒っていた。
 (本庄繁「本庄日記」原書房 1967年刊)
 (原田熊雄述「西園寺公と政局」岩波 1951刊)


■2月28日

本庄侍従武官長は午後7時半、軍事さん技官を代表してやってきた荒木貞夫大将に対して「速やかに鎮定せよ」との天皇の意思を伝え「ご心中を拝察するに」として、天皇が鎮圧を急ぐ理由をいくつか挙げた

①「日本帝都の陸軍省、参謀本部は暴徒に占領せられ、三日を費やして尚回復し得ず。日本軍部の内容はなはだ薄弱なりとの感想を海外列強に与ふ。(「本庄日記」)

②反乱を鎮圧出来ない第一師団の様子を「わが軍の堅実を疑わるるまことに憂慮の至りなり」(「本庄日記」)

③荒木の話を聞いた真崎甚三郎は天皇が「外国に笑はれざるか」と憂慮しているのだと記している(「近代日本資料選書・真崎甚三郎日記」第二巻 山川出版)

鎮圧の「奉勅命令」を出してもなかなか攻撃が実行されないという軍の無統制の弱体状態を諸外国に知られ、軍事強国としての日本の維新が低下することを天皇は怖れ、憤慨し早急な鎮圧を命じたのである。

「昭和天皇独白録」より
大体討伐命令は戒厳令と関係あるので、軍系統限りでは出せない。政府との了解が必要であるが、当時岡田の所在が不明なのと、かつまた陸軍省の態度が手緩かったので、私から厳命を下したわけである。
私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言を埃故、その進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回だけは積極的に自分の考えを実行させた。

ビデオを見た後で先生のコメント
この後も松本清張のビデオを見ていただく時間が多いと思いますが、「もう一つの二・二六事件」というビデオがあるんですが、真崎などを中心とした人物を対象としたもので、裁判の中で磯部と真崎が対決をしていきます。そういったことで真崎が最終的に無罪になってゆくんです。真崎を有罪にしようとした法務官が活動するのですが、陸軍の上層部が犯罪を冒したことになると、陸軍の軍部自体が批判を受けることになるので無罪にしてゆくのです。
そして盧溝橋事件が起こるのです。そういう中で軍法会議は最終的には解散してしまうのです。
ですから、きちんとした最後の結論が出ないうちに二・二六の裁判は幕を閉じるのです。
昭和 | 00:30:48 | Comments(0)
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