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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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二・二六事件「陸軍大臣告示」と「戒厳令」
10/23
 
藩閥政権が出来た時に自分たちの出す命令が全て正しいと一般庶民に知らしめるために、自分たちの命令はお上の命令だ、かしこくも現人神さまの命令である、ということで天皇を神にしなければならなかった。
そこで「不磨の大典」=磨くことが不要な=改正することが必要のない、明治憲法が出来ました。
新憲法が発布され国民に知らされたのが5月です。それが正式に制定されたのは11月3日ですが、永久に変える必要のない明治憲法を変えてしまって、お詫びの意味で明治天皇の誕生日の11月3日に制定されました。

敗戦した時に国がなにより大切にしたのは天皇制でした。国民の生活や経済ではなかったのです。天皇制をいかに残すかに一番重きを置きました。

  10月23日



◇反乱軍鎮圧のための東警作命

◆2月26日午前7時 東警作命(東京警備司令部作戦命令)

 司令官=香椎浩平中将(皇道派に属し青年将校寄り)

・第一号 午前7時
 「第一師団ハ速ヤカニ安藤大尉以下ヲ解散セシムル如ク努ムヘシ
 (非常にあいまいな表現)


・第二号 午前7時半
 「近衛師団ハ速ヤカニ兵力出動ノ準備ヲ為シ後命ヲ待ツヘシ
 すぐに鎮圧に出るように言ってない。準備すること。

・第三号 午後3時
 「軍隊ニ対スル告示」

 一、第一師管内一般ノ治安ヲ維持スル為
   本日午後三時第一管戦時警備ヲ下令セラル
  平時ではない。

 二、本朝来出勤シアル部隊ハ戦時警備部隊ノ一部トシテ
   新ニ出動スル部隊ト共ニ師管内ノ警備ニ任セシメラルルモノニシテ
   軍隊相互間ニ於テ絶対ニ相撃スヘカラス
   反乱軍と見てなくて治安維持の警備部隊としている。

 三、宮中ニ於テ大臣等ハ現出動部隊ノ考ヘアル如キコトハ
   大イニ考ヘアリシモ今後ハ大イニ力ヲ入レ之ヲ実行スル如ク
   会議ニテ申合ハセヲナセリ
   全軍に対して反乱軍が反乱軍でないと周知徹底する命令

 ※第一師団司令部「極秘2月26日事件詳報」「秘二・二六事件経過要綱」
  (口達)「敵ト見ス友軍トナシ」が付されている

 ※二、により第一号「解散セシムル如ク努ムヘシ」の命令は取り消され
  不法占拠は適法化された

・第四号 午後4時
 「第一師団戦時警備命令ノ下達」

 第三項「歩兵第三聯隊長ハ本朝来行動シアル部隊ヲ合セ指揮シ
 担任警備地区ヲ警備シ治安維持ニ任スヘシ。
 但シ歩兵第一聯隊ノ部隊ノ適時歩兵第三聯隊ノ部隊ト交代セシムヘシ」
 第三聯隊帳は反乱軍を指揮して警備にあたれと言っている

※香田清貞大尉(陸軍大臣官邸)の遺書
「27日、戦時警備例下令せられ、その部隊に入る。次で戒厳令下令せられ同部隊に入り、小藤大佐(歩兵第一聯隊長)指揮官となり麹町地区守備隊となり完全に皇軍として認めらる」
(香田清貞遺書、河野司編「二・二六事件」)


◇陸軍大臣告示と戦時警備下令

・26日8時頃
真崎甚三郎大将、陸相官邸へ。真崎、川島陸相と会談。

真崎聴取書より
(真崎)「とんでもないことをしたね」 (←他人事のような言い方)
(川島)「何ともする事ができない」
と話し合いながらしばらく二人は無言で居りました。

その後、川島の参内に真崎合意を示した後、「貴様が中心となって此処で閣議を開き、戒厳でもしかねばならぬと思う」と発言した後、真崎は伏見宮軍令部総長を訪問。早急に後継内閣の組閣を求めた。 

真崎が官邸にきた時「若い将校たちは一同不動の姿勢をとり久しぶりに帰ってきた慈父を迎えるような態度をもって恭しく敬礼をしました(山口一太郎大尉歩一、七中隊長、第二回被告尋問調書)

真崎は当時「決して嘘をつかぬ点で有名な将軍」(同上)

・9時30分頃
川島陸相、天皇に事件の状況を報告。天皇直ちに鎮圧する様川島に指示

・午後1時半頃
軍事参議官会議(於宮中)
軍事参議官(1903.12~ 重要軍務について天皇の諮問機関。構成員は元帥、陸海軍大臣、参謀総長、軍令部長など)
参議官を先頭に鎮撫にあたり原隊復帰を説得する案がまとまった。
軍事参議官は寺内、朝香宮、真崎、荒木ら皇道派寄り。
この会議で「陸軍大臣告示」が作成された。

●古荘陸軍次官「大臣告示ハ最初軍事参議官一同ノ意見トシテ、彼ラヲ説得スルタメニ出来タモノ」と証言している。

●「告示」は村上大佐(陸軍省軍事課長)が起草し荒木が主導し、阿部、寺内、西の三人の大将が手を入れて完成。

●蹶起した将校たちには午後3時30分、山下奉文(ともゆき)少将(陸軍省軍事調査部長)が反乱軍としてでなく「義軍」として扱った。

●2月26日午後3時前後 戦時警備下令
 香椎警備司令官(中将)が宮中より電話(軍隊に対する告示、三点)

◆第二号と第三号の間に「陸軍大臣告示」が電話で戒厳司令部に届く

「史料にみる日本の近代」より - http://bit.ly/w6ofjc
陸軍大臣告示

第一項の「達セリ」という表現が曖昧な「達セラレアリ」になった

第二項は香椎中将が「真意」を「行動」に書き直した

第五項は天皇の判断を天皇が是とするか非とするかこれ以降の行動によって決まるとなっていて、この文章からいうと第二項は「真意」の方が整合性がある

原案(クリックすると大きくなります)
大臣告示の原案

印刷物となった「大臣告示」により反乱軍は自らの行動は間違ってなかったと判断した。

◆実は二回下達されていた陸軍大臣告示

 ①陸軍大臣ヨリ 2月26日午前10時50分
  東京警備司令部、近衛師団に下達

 ②陸軍大臣ヨリ 2月26日午後3時20分
  東京警備司令部(司令官、香椎浩平中将)
  各師団に下達

天皇を守る近衛師団には午前10時50分に既に下達。
正式に作られる前に下達されていた。

松本清張「昭和史発掘」の「近衛師団行動詳報」によると「午前11時頃警備司令官を経て、陸軍大臣の告示を達せられしも…一般に告達することを避く」

向坂資料によると『東京憲兵隊長・坂本俊馬大佐「軍上層部内叛軍一味徒党検挙計画案』(S11.4.25付)「香椎中将が26日、陸軍大臣に会えるのは宮中に於いては午前11時過ぎなるに拘らず、之に先立ち午前10時50分既に警備司令部より近衛師団に下達せられありし事実」

大臣告示は真崎、荒木、香椎、山下ら皇道派幹部によって事前に計画的に作られたのではないか。

◆近衛師団にだけ早く下達した理由

2月26日朝、皇居と目と鼻の先の麹町中央官庁街は蹶起部隊に選挙された。近衛師団は既に朝のうちに実弾を配布し戦闘準備を整え万一反乱軍が皇居地内に入ろうとすればこれを実力で撃退する構えにあった。
警視庁を選挙していた野中四郎大尉以下およろ500人は重武装で待機していた。

部隊が相撃つことを防ぐために香椎中将が独断で「大臣告示」を出した。

◆陸軍中央の二つの思惑

①青年将校の意思を実現しようということを通して苦境に立っている陸軍、並びに皇道派を有利に導こうとする動き

②堀第一師団長の「国家ノ真ノ改善ヲ計ルヲ必要トスベク総テ上司ノ方針ヲ旨トシ軽挙妄動スルコト勿レ」
(渡満ノ為ノ団体長会議中止ノ際ノ訓示)


◇2月27日天皇の独断で戒厳令

天皇の鎮圧要求がエスカレートし、未明に枢密院の諮問を経て天皇は東京市に戒厳を実施する緊急勅令を公布した。
kaqigennrei.jpg

・午前8時20分、反乱軍は原隊に復帰せよ(命令に服さない場合は攻撃)との「奉勅命令」

・天皇は内閣に諮らずルール違反で戒厳令を出した

・本庄繁(満州事変が起こった時の最高司令官)侍従武官長が、天皇に対して反乱軍の行為を君国を思う気持ちからと弁護すると「朕カ股肱(ここう)ノ老臣ヲ殺戮ス。此ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ怒スベキモノアリヤ」と激怒した。
(本庄繁「本庄繁日記」原書房1967年刊)

・老臣を殺されたことだけでなく、軍隊を勝手に動かしたことに対しても怒る
「朕の命令に出でざるに、勝手に朕の軍隊を動かしたということはmその名目がどうであろうとも朕の軍隊ではない」
(原田熊雄述「西園寺公と政局」第五巻 岩波1951年刊)

・反乱の第一報を聞き、軍装に着替えた時点で、天皇は政府の輔弼を必要とする国務大権よりも統帥大権の行使を重視し、以後一貫して『大元帥』として行動した。


◆参謀本部で蹶起部隊の弾圧を強硬にやる空気に

三井佐吉中佐(陸軍調査班で陸軍パンフレットを執筆・三井財閥排撃運動・統制派)午前4時前、村中元大尉を予備だ井撤退を説得(村中、香田大変迷う。部隊の引き上げの時期で苦慮していた)

香田大尉(歩一旅団)は、明け方近く警視庁付近で野中大尉(歩三)に会い「何時までこうしていてもらちが明かぬ。かえって我々の精神が誤解されるようなことになるから、むしろ引き上げようではないか」と説いた
(香田第三回被告人訊問調書)


◆青年将校たちの内部では激しい対立が起こっていた

・午前7時頃陸相官邸に7人集まる

①情勢判断の相違
 村中、香田、野中は先の展望がないと感じていた
 栗原中尉は確実に維新に入ると断言

②運動の進め方の相違
 村中、香田は上官を通して維新を推進
 磯部、栗原は直接行動に重点を置き維新へ

◆臨時ニュースが流れる

叛乱軍の兵士たちは動揺


◆戒厳令(2.27~7.17)、知識階級の人たちはどう受け止めたか

●河合栄次郎・東京帝国大学教授

・3.9東京帝国大学新聞

「彼らのわれわれと異なるところは、ただ彼らが暴力を所有し、われわれがこれを所有せざることのみにある。だが偶然にも暴力を所有することが何故に自己のみのの所信を敢行しうる根拠となるか。何故に国民多数の意思を蹂躙せしめる合理性となるか。
…武器を持つそのことの故のみで、われわれ多数の意思は無の如くに踏みつけられるならば、まずあらゆる民衆に武器を配布して、公平なる暴力を出発点にしてわれわれ勝敗を結せしむるにしくはない。
…あるいは人あっていうかも知れない。手段に於いて非であろうとも、その目的の革新的なることに於いて必ずしも咎めるを得ないと。しかし彼らの目的がなんであるかは未だかつてわれわれに明示されていない。
その内容は漠として捕捉し難いのみならずわれわれの知る限りに於いては矛盾撞着に満ちている。

・中央公論6月号 巻頭論文「時局に対して志を言ふ」
二・二六事件の本質は二つある。
第一は一部少数のものが暴力の行使により政権を左右せんとしたことに於いて、それがファシズムの運動ということであり、第二はその暴力行使に一部少数のものが一般市民に非ずして軍隊だということである。
二・二六事件は軍ファシズムによる「自ら善なりと確信する変革を行うに何の憚るところがあるか」という根本的な社会変革への誤りが出発した事件である(略)
彼らを駆って事件にまで至らしめた目的は次のように三つある。
第一に彼等軍人としての職務上、外国より祖国を防衛するために、軍備を拡張して国防全うせんとした。
…然らばわれわれの平和と安定を撹乱する外国がわれわれの隣接区域に存在しているか。
第二に彼等は国民を苦しめるもの殊に農村の指定の窮境に同情して社会組織を変革して経済生活の不安を除去せんとした。
…さらに農民に対する同情が国軍の結束という軍略的立場より来るという点に於いて、問題を把握する過程に於いて過てるものがある。然し社会大衆の生活の安定、此の一点に於いて彼等は時代の要求に適中したと言うべきではないか。
第三に彼等は政党の堕落と財閥の横暴とを見た。
…国体を明徴ならしむことにあって、国民思想の安定を図りうると考えたことに彼等の単純さがある。命令強制の規律を本質として、戦争という単一の目標を抱く軍隊に於いては国体明徴が絶対必要にして、まだそれあるを以て充分であるかもしれない。
しかし複雑なる社会問題に囲まれ、幾多の思想によりて撹乱されている一般市民にとっては、一国万民という国体を明徴ならしめることだけでは、未だ問題を解決することにはなりえない。
一国万民の思想は現代に処して、いかなる内容を盛るべきかが今は必要とされているからだある。
アンダーラインの部分は発売時に削除××で出た

●山口一太郎

・高橋正衛氏への語りより
五・一五事件の法廷闘争こそ、二・二六事件の青年将校たちに蹶起への一つの動機を与えた。しかも五・一五事件の判決では一人の死刑もなかった。『よいことをすれば正しく遇せられるのだ』考えが一層つよく青年将校たちの行動への激化を誘っていった。

松本清張が検証した二・二六のドラマドキュメンタリーを見て
結局あの戒厳司令部の中で石原莞爾が出ていましたが、参謀本部は反乱軍を賊軍として認定するんですね。
ですから最終的に今のような命令が戒厳司令部から出てくるんです。
この時、香椎中将は皇軍相撃つことを避けると同時に、反乱軍を正規部隊と認定しました。それを彼は当時の参謀総長たちから咎められる。それを最終的には苦痛に満ちた形で討伐を命じます。そういう形で終わっていくのです。


◆2月28日午後4時、第一師団長宛に陸相より「陸秘123号」下達
(要約)
三宅坂付近を占拠した部隊幹部の行動の動機は国体の真姿顕現を目的とする昭和維新の断行にあると考えるが、その行動は軍規を乱し法律を犯すものであるのは論議の余地が無い。(略)天皇を悩ましたのは誠に畏れ多い。責任は極めて大きい。
陛下はついに戒厳司令官香椎中将に対し最後の措置を勅令せられ、戒厳司令官はこの勅命に反するものに対しては、たとえ流血の事態になろうとも断固たる処置をとることに決めた。
事ここに至ると誰が悪いかハッキリした。各団体長はこの際一刻も早く、該当者に適時断固たる処置を講じ、後々困らないようにちゃんとやること。

叛乱軍として正式に認定される


◆天皇が鎮圧を急いだ理由

①鎮圧の「奉勅命令」を出してもなかなか攻撃が実行されないという軍の無統制、弱体状態を諸外国に知られ、軍事強国としての日本の威信が低下することを天皇は怖れ、憤慨し、早急な鎮圧を命じた

本庄侍従武官長は2月28日午後7時半、軍事参議官を代表してやってきた荒木貞夫大将に対して「速やかに鎮定せよ」との天皇の意思を伝え「ご心中を拝察するに」として天皇が鎮圧を急ぐ理由を挙げ「日本帝都の陸軍省、参謀本部は暴徒に占領せられ、三日を費やしてなお回復し得ず。日本軍部の内容甚だ薄弱なりとの感想を海外列強に与ふ」、また反乱を鎮圧できない第一師団の様子を「我軍の堅実を疑わるまことに憂慮の至りなり」(本庄日記)と伝えている。
荒木の話を聞いた真崎甚三郎は「外国に笑はれざるか」と天皇が憂慮しているのだと記している(真崎甚三郎日記)

②岡田首相の行方が不明、陸軍省の態度が甘かった

「昭和天皇独白録」
大体討伐命令は戒厳令と関連があるので、軍系統限りでは出せない。政府との諒解が必要であるが当時岡田の所在が不明なのと、且又陸軍省の態度が手緩かったので私から厳命を下した訳である。
私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言を俟ち又、その進言に逆らわぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回だけは積極的に自分の考えを実行させた。

松本清張が検証した二・二六のドラマドキュメンタリーを見て
安藤大尉があんなに部下たちに慕われていたのは、自分の給料を貧しい部下たちに与えていたからで、東大の先生の言うように農村の問題が一つのひきがねであった。ただ単に要人を殺して軍部内閣を作ろうとしただけではなくて、安藤のような人たちが、庶民の生活が安定出来るようなそういう政治を行ってゆくためには、今のような財界と手を結んだ政党では新しい時代を作れないと、そこで自分たちが信奉する真崎を大臣にして軍務内閣によって政治を一新しようとした。
そういう真意が天皇には届いていなかった。


◆2月29日に出された「市民の心得」
市民の心得

◆「兵に告ぐ」
下士官に告ぐ

◆「軍旗に手向かうな」
軍旗に逆らうな
昭和 | 08:10:29 | Comments(0)
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