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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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二・二六事件をうたった短歌
ひいおじいさまが明治天皇の和歌の先生だったHさんが、二・二六事件のレポートを読んでくださっていて、2月26日にあわせてメールを下さいました。
  ↓↓↓

二・二六事件に関する短歌としては歌人斎藤史(明治四十二年東京生れ。平成十四年没)のものがあります。 
斎藤史はその父親斎藤瀏が予備役少将で二・二六事件に関わり、禁錮刑五年を受けています。 また幼なじみの栗原安秀中尉はこの事件の首謀者のひとりであり、死刑になりました。 
こうした背景の短歌です。 
昭和十五年に出版された斎藤史の『魚歌』に収められているものです。 

斉藤史の歌


◇歌人である佐伯裕子氏や小高賢氏のこれらの歌に関する評

第一首の「暴力」は事件の決起をさす。その暴力の「あはれさ」を「うつくしい」と指摘する斎藤史の洞察力こそが、彼らへの愛情であったと思われる。



第二首は、普通の春の夜にも、継続的に、さんさんと花は散り続けると暗示するのだ。花は歴史を負う桜である。骨の上に降り積もらせる桜、それは死者への哀悼の思いばかりではない。死者を騒がせ揺り起さんばかりの復讐と愛憐の思いが読み取れる。

第三首は怖い歌である。あの動乱の春に見た満開の桜、それ以後の日々には、あれ以上のすさまじい花を見なかったようだと述懐する。ひとたび強い光を見た眼には、それ以外の明るさは眼に入らなくなる。そのようなことがおもわれる一首だ。浪漫主義の危うい面が迫ってきて、心騒ぐ歌である。

第四首は第一首同様斎藤史の代表作のひとつだが、「二月二十六日、事あり・・・・」という詞書が書かれたこの歌からは作風が一変する。

第五首では、斎藤史の特有の幻想世界に繋がっていく。林に埋まる死者たちに対して、史はつねに「湖」の住人なのである。流れが止まったような湖底での長い歳月が想像される。



◇歌人 斎藤史 - Wikipedia - http://bit.ly/xGJFBj より

経歴

父は、陸軍少将で佐佐木信綱主宰の歌誌「心の花」所属の歌人でもあった齋藤瀏。父の瀏は「史子」と出生届を提出したが戸籍係が間違えて「史」と登録してしまった。17歳のとき若山牧水に勧められて作歌をはじめ、18歳から「心の花」に作品を発表するようになる。1931年、前川佐美雄らと「短歌作品」創刊。

1936年の二・二六事件では、父を通じて親交があった青年将校の多くが刑死し、父も事件に連座して禁固5年となる。この経験が、生涯に渡っての文学的テーマ[1]となる。青年将校の、栗原安秀・坂井直 両中尉とは、旭川時代からの幼馴染であり、栗原の事は「クリコ」と呼んでいた。また栗原は彼女を「フミ公」と呼び、改まった席では「史子さん」と呼んでいた。

1939年、父・瀏が主宰する歌誌「短歌人」創刊に参加する。1940年、伝説的な合同歌集「新風十人」(八雲書林)に参加[3]。同年、第一歌集『魚歌』を発表。モダニズムの影響が濃い作風で、萩原朔太郎に激賞される。1945年、父の故郷である長野県安曇野に疎開、同年復刊した『文藝春秋』誌(10月号)の歌覧[4]に掲載された。以後定住し同地を拠点に活動する。1953年、「短歌人」編集委員制度導入に伴い初代編集委員となる。1962年、「短歌人」を退会し歌誌「原型」を創刊する。また晩年の江藤淳と交流があった。
昭和 | 01:03:49 | Comments(0)
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