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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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二・二六事件 まとめ
1/08
 
伊藤博文をはじめとして維新政府を作った政治家たちは多妻であったので、自らを正当化するためにこんな法律を作りました。
1870年(M3)新律綱領領布(妻妾を二等親と規定、同格)
1871年(M4)内務省の指令で「臣民一般の妾の称苦しからず」
        (妾の公認)→1883(M16)廃止

そんな時代に
1927年(M2)5.17 大審院「男子貞操に関する判決」
大分県の一主婦が三人の子と妻を捨て他の女性に走った夫に慰謝料と養育費を要求した裁判で、勝訴。当時は妻の側だけに貞操が要求された時代であったので勇気ある判決でした。

  2012年1月8日

その当時、日本の国がいかに女性を差別されることを社会的に公然と認めてきたか。そういった事実があることがおわかりになると思います。



二・二六事件のまとめ

◆ビデオ学習*NHKスペシャル「消された真実」(1995年放送)
二・二六事件の東京陸軍軍法会議首席検察官の向坂春平の隠していた資料が世に出、作家の澤地久枝さんが詳細に検証。
最後の方ナレーション。
  ↓


青年将校のクーデターをきっかけに、政治的権力を握ることを成功した陸軍は、その後二・二六事件の一才の真相に封印をした。

NHKスペシャル「消された真実」1

NHKスペシャル「消された真実」2

二・二六事件秘話 続編 1/5 


◆天皇の視野になかった青年将校たちの思い
天皇は統帥権の侵犯と重臣たちの殺害に対して怒ったのですが、青年将校たちが何故蹶起したのか理解してなかった。
安藤大尉は自分の月給を部下たちに全部っていた。貧しい地域から親を置いて軍隊に入ってきた兵士たち。その生活の状況を知っていたからこそ、社会を変えなければと思ったのですが、天皇は一切見ていない。そこに天皇自身の過ちがなかったのか。

◆財閥の儲け優先で農村の貧しさに拍車
昭和初期に三井は直系、傍系合わせまして97社を支配下に置いて、資本は当時のお金で19億。
三菱は同様に直系、傍系加えて65社で資本金が20億ありました。
そういう中で都会では中小企業が倒産する。失業者が出たり賃金の切り下げが起こってくる。
そういった状況が二・二六が起こる前の日本の社会の現状だったのですけれど、農村ではお米の値段や農作物が値下がりしてゆくんですね。
皮肉にも豊作だったこともあるのですが、先ほどの三井や三菱が安い外米を輸入しているのです。そのために日本のお米が売れなくなって農村が疲弊して行った原因となりました。
安い外米を輸入することによって、三井三菱は利益を得て行った。
不況の中で娘を売らなければならなくなった。

◆農村の娘の身売りに周旋人の搾取
青森県では1503名の娘たちが売られていった。
板書しましたのは山形県で娘を売った時の状況。
前借金というのは娘を売っていただくお金。
娘が勤めを果たせば借金は棒引きになる。
娘が働かない限りは手元のお金は親が返さなければいけない。
しかし前借金のうち親の手元にいくのは1/3で、2/3は周旋人が取っていた。
身売り

◆国は地域の苦しみを理解していたのだろうか
そういう状況を当時の内閣は結果的に見て見ぬふりをしていた。
東北の農村から兵士になってきた青年たちは妹や姉が売られていくこと状況を知っていた。現実に色町で合ったりしている。そうすると前借金の問題などもわかってくる。
当時は五・一五の後で政党内閣ではなく海軍大将の内閣が二度続くのですが、高橋是清という人物が大変高く評価されているが、二・二六で殺される大蔵大臣で、そういう立場の人がこういった事実を知っていたのか。一切手をこまねいていた。軍部の軍事予算の要求を押さえこんでいた人として学校で習ってきたが、高橋是清は知っていたのであろうか。
娘の身売りの期間は6年間で、娘は体を売り続けなければいけない。
娘たちは自分たちが着ている着物、食費など前借金の他に借金となっていった。
政党も財界から資金援助を受けていたので、見て見ぬふりをしていた。

◆青年将校たちの思い
自分の部下たちの家庭が貧しいことを知った青年将校たちは、そのままにしておけないという発想があったと同時に、彼らは陸軍の将校なので、自分の部下たちが後顧の憂いなしに天皇のために戦えるようになってほしい。そのためにはまず社会を変えて欲しい。貧困の農村を救ってほしいと願った。
もう一つの思いは満州事変が起こっていますから、日本の国益を広げてゆくにはどうしても軍隊の力が必要である。軍隊の力を弱めないように社会の改善を計ってゆきたい。

◆軍上層部の思惑
社会的な背景をきちんと見てゆかないと、全てが青年将校たちが悪であったという捉え方は出来ないのではないかと思います。そこまで追い込んで行った責任は誰が背負わなければいけないのか。
青年将校たちに一番影響を与えたのは北一輝であったとと言われていますが、青年将校たちが一番影響を受けていたのは真崎甚三郎と荒木貞夫、いわゆる皇道派の両将軍だったのです。
結局そういう中で、二・二六の判決の中で一番軍部が重視したのは軍の上層部の将軍たちが最高責任者だったとなると、当然国民の軍部への不信が高まってゆくので、上層部は北一輝や西田税や退役将校が彼らに一番影響を与えたのだいう風にして、青年将校が処刑された後になって特別な裁判で北ら二人は同様に処刑された。そして真崎らを無罪にしてしまう。


二・二六事件後の政治状況

軍部の政治干渉は進み国民は不満を持つが、軍部の力を恐れ誰も止められなくなってゆく。

◆1936年5月7日斉藤隆夫の「粛軍演説」
兵庫県出石町出身の政治家斉藤隆夫が、太平洋戦争突入を前にして軍の独走許すまじと国会で時の政府の暴挙を諫めた有名な粛軍演説で大変な反響を呼んだ。

斉藤隆夫「粛軍演説」(クリックで大きくなります↓)
粛軍演説

証言「粛軍演説」に対する反響(クリックで大きくなります↓)
反響


岡田啓介「回顧録」より(クリックで大きくなります↓)
岡田啓介回顧録
   ↓
しかし、政治家たちは、斉藤演説に溜飲を下げただけで、それを現実の政治に生かすことが出来なかった。
その機を逃さず、国民の常識を足場にして、軍を押さえつけてしまう、ごくいい潮時であったが、軍に逆らうと、また血を見るという恐怖のほうが強くなって、ますます思い通りことをされるようになった。


結果的に粛軍演説に拍手はしたけれど、それを支持してゆく政治行動は起こらなかった。
軍部に対する恐れが大きかったのが当時の社会情勢。


◆1937年(S12)

〇「腹切り問答」により広田内閣が総辞職へ

Wikipedia 腹切り問答
腹切り問答

1月21日衆議院での質問演説で浜田国松(政友会)と陸相寺内寿一と「腹切り問答」

浜田が二・二六事件以降の軍部の政治干渉を批判。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
浜田「軍部の言う軍民一致は軍人と一般国民を区別するもので、一君万民の精神に背き、一般国民と対蹠的(正反対)立場から指導する点に問題がある」

寺内「軍人を侮蔑した言葉を受けたまわった感あり」以下略

浜田「速記録調べて、僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝る。なかったら君、割腹して謝せよ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ↓
1月22日 衆議院二日間停会

1月23日 解散を主張する陸相と政党出身閣僚対立し広田内閣総辞職

〇軍部の政治介入が激しくなり組閣が混乱する

軍の独走と国民からの粛軍の思い、この狭間に立って軍を押さえられる人物として、初めに近衛文麿が次期首相に推薦されたが、近衛は軍部からも受けが良かったが、皇道派に近く統制派とは距離を置いていたので、健康を理由に辞退した。
元老西園寺公望により宇垣一成が推薦された。

   ↓
1月25日 宇垣一成(元陸相、陸軍大将)に組閣勅令

広田内閣で1936年(S11)5.11に軍の要求を飲み「軍務大臣現役武官制」復活させた。これにより組閣の肝である軍務大臣(陸軍大臣と海軍大臣)が陸軍の意向で出されないと組閣不可となる。

宇垣が軍縮を進めた陸軍大臣であったので、三長官(前陸相、参謀総長、教育総監)は反宇垣分子だけを次々と推薦。宇垣は推薦不可能と判断し内大臣に「陸相出すべしという勅令をいただけないか」と願い出たが断られる。

   ↓
1月29日 宇垣組閣辞退

軍を支配しうるのは、天皇の政治権力(天皇大権)であるので、宇垣が勅令を求めたのだが、天皇側近の輔弼は軍中央を恐れ真の国政を築く勇気に欠けていた。

2月20日 林銑十郎(陸軍大将)内閣成立

三長官にとって御しやすい陸軍大将と歓迎された。
Wikipedia 林銑十郎
1931年の満州事変では朝鮮軍司令官として独断で満州越境開始し天皇の統帥権干犯している。その時天皇は黙認。そのことが勝てば許されるという前例を作った。

13人閣僚が必要だったが8人で発足し、のちに2人追加される。
「祭政一致」がキャッチフレーズ。国民は期待しない。

〇今とそっくりな財政改革
結城豊太郎が大蔵大臣になり「軍財抱合内閣」
軍事費は減らさず国民生活の部分の予算を減額。
資本擁護のため法人税増税と利子所得課税と個人財政税を撤回。
間接税を増長し不況を脱出するための交付金を縮減。

3月31日 議会刷新を理由に衆院解散

軍部に同調するような議会を目指した。

4月30日 選挙

右翼を足しても支持率は8.8%
選挙でも破れてしまう。

5月31日 林内閣は軍部、政党の支持を失い総辞職

軍部に対する民衆の反発に強烈なものがあったが、民衆の声をファッショ化阻止の政治力に転嫁する勢力は存在せず、その声は日中全面戦争の勃発によってかき消され、大きく形を変えることになった。
政党が民衆よりも財界に近づいていた。
それが最終的には新しい時代が始まろうとしていた粛軍演説の時から、その実りを得ずして、やがて近衛内閣によって新しい戦争体制になっていった。
昭和 | 01:33:05 | Comments(0)
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