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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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『事変』と称されていた戦いが何故『戦争』になったのか(1)
1/22(後半部分を別の記事に分けました)

◆盧溝橋事件が事変と称され、日中戦争に発展していった展開

Wikipedia盧溝橋事件 http://bit.ly/LnrRkv

1937.7.7 日中両軍武力衝突・盧溝橋事件

◇日本側は予測も準備も無かったが、戦争が起きてもおかしくない状況



①1935.6.27 土肥原・秦徳純協定 - Wikipedia
  チャハル省から国民党勢力の撤退(第29軍追放)

 11.7 土肥原、奉天特務機関長、宋哲元(北方軍閥)に
      北方5省の自治政府(日本政府の代理政府)樹立を勧告

 (北方5省=河北、山東、山麺、チャハル、綏遠 各省)

 11.25 冀東(きとう)防共自治委員会設置

 12.25 「冀東防共自治政府」と改称→ 冀東政府をでっち上げた

 国民政府は第29軍のリーダー宋哲元を冀察(河北、チャハル省)と
 綏遠(すいえん)省の主任に任命

②1936.4.17 支那駐屯軍、5774名に増加
 ・防共、在留邦人の保護の名目

 ・本当の狙い 史料・「華北の静謐維持」
 ソ連軍に対抗するには関東軍と一緒に戦うため

※蒋介石は1934.10~11華北と西北地域
 (チャハル、綏遠、内モンゴル)の直轄化に動き出した
 国民政府が北方軍閥から奪還しようとした

※1933年5月塘沽(たんくー)協定 - Wikipedia
 北方軍閥と日本で結ばれた協定

※中国を赤化させたくない

◇中国側には挙国一致の気運と蒋介石による戦備の充実
・戦備の充実 → 仏、米、ソ、独軍事顧問団
           ドイツ兵器総輸出量の57%が中国へ
           (ヒトラーは債務解消のために武器輸出)

・西安事件 → 国民党と共産党の一体化

 ※対共戦督促のために西安に入った蒋介石を張学良が武力で監禁
  (抗日第一を叫ぶ紅軍に共鳴)倒蒋から援蒋に転じた周恩来
  25日に釈放された蒋介石は帰還、以後抗日のための統一へ

蒋介石の思惑

◇列強が日中戦争に干渉せざるを得ないという理由

 ・日本の中国侵略の過程で列国の在華権益を侵害せざるを得ない
 ・日本の究極の目的は東洋の盟主となり、太平洋の覇権を握ること
  その手立てとして日本は米の海軍力とソの陸軍力を倒さねばならない
  そのためには必ずや中国を征服し、足場とするに違いない

◇日中戦争の国際的解決策(持久戦論)
  
 ・軍事力 米の海軍力、ソの陸軍力を巻き込む
 ・経済力 英が法幣維持の後ろ盾
       1935.11 国民政府系3銀行の銀行券だけを法幣として
       通用させ、他の銀行券の使用不可(管理通貨制へ移行)

日中開戦の要因

◇開戦の要因 その1
1936(s11)4.17 広田弘毅内閣「支那駐屯軍」の兵力増強を決定
 1,771名 → 5,774名

※1900(m33)義和団事件後、連合国(8か国)は清朝政府に
 華北主要都市への駐屯権を認めた(日本は1,570名・天津駐屯)

増派の一大隊1,091名を豊台(北京の南方の郊外、非指定地)へ派遣
日本軍は中国側の抗議を無視して連日夜間演習を実施
map4.jpg

◇開戦の要因 その2

1937年7月7日竜王廟での夜間演習
(第8中隊長清水節郎の手記)

①7月7日午後、第8中隊(194名・他の資料では違う数字)は夜間演習のため豊台の兵営を出発。盧溝橋西北方1,000mの竜王廟に向かった。当夜の演習課題は「敵主陣地に対する薄暮の接敵 及 黎明攻撃」で竜王廟付近の永定河堤防から大瓦窟に向かって行う予定だった。
午後4時半頃、演習地では堤防上に200名以上の支那兵、白シャツ姿で工事をしていたので、作業終了を待つまで、堤防の手前約1,000mの位置に休憩。中隊長(私)は演習仮説敵を配置し、夕食をとりながら今夜はなんか起こりはせぬかと予感がした。
20日ほど前ここで演習した時になにもなかった永定河の堤防上に、鉄道橋近くから上流の竜王廟の北側にわたって敵兵壕が完成しつつあり、堤防手前にあった土饅頭が最近掘り返されてトーチカが完成。
演習開始の予定時刻が過ぎ、午後6時過ぎても作業がやみそうもない。
私は兵を集め、支那軍に対する具体的注意を与えた後、予定を変更して堤防の手前100mほどからこれを背に演習に入り、全く暗黒になってから仮想敵前方約200mの線に移動。注意して支那兵の動静を観察していたが、作業終了後も彼らは兵営に引き上げる形勢はなかった。

②22:30、前段の訓練終わり、明朝黎明時まで休憩(野宿)するため、私は各小隊長、仮設敵司令に伝令で演習中止、集合の命令を伝達させた。集合状況を見ていると突如、仮設敵の2丁の軽機関銃が空砲を伝令に向かって発射。その時、後報から急ぎ集合ラッパを吹かせると、右後方鉄道橋付近の堤防から10数発の小銃射撃。

③0:00頃 逐次集合する小隊を区処して応戦準備をしている時、兵1名行方不明の報告。中隊長、豊台兵営の大隊長に「支那軍の不法射撃と兵1名行方不明」と伝令で報告。
 ※用便を済ませ20分後に帰隊。大隊長が4時間後に報告。

8日、3:00 大隊長、豊台の部隊を一文字山に集結。4:00頃、竜王廟方向より3発の銃声を聞き、大隊長、北京駐在の連隊長、牟田口連也に電話で報告。「支那軍の2回までも射撃するは純然たる敵対行為なり。断固戦闘開始して可なり」と命令をうけ4:23 攻撃開始。


「日中戦争最初の銃声の謎」
筑摩書房「記録現代史、日本の100年」より
(クリックで大きくなります)
銃声の謎

(一)の説は疑問。当時の中国共産党は西安事件により国共合作をしている。共産党が発泡は考えられない。

いろいろ調べてみると、中国軍が撃ったというのはあり得るが、関東軍と結びついた大陸浪人がこの頃、河北地域に集団移動している。その陰に東条英機がいる。関東軍と結びついていた大陸浪人を使って、闇にまぎれて発泡したのではないか?

河北を日本の領土にしたかった軍部が一番大きな影響を与えていたのではないか。


<参照引用文献>
・亀井宏「昭和の天皇と東条英機」光人社刊
・歴史学研究会編「太平洋戦争史2 日中戦争1」青木書店刊 他
昭和 | 17:51:52 | Comments(0)
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