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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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『事変』と称されていた戦いが何故『戦争』になったのか(3)
3/11
 
   3月11日

  20日の明け方起きた時に意識を失って倒れて
  生まれて初めて救急車に乗りました。
  乗る時は意識が回復していました。
  幸いにもいい病院で親切なお医者さんと出会えて
  3日間さまざまな検査をして異常なしで24日に退院しました。
  自分では意識してなかったのですが、過労ではと言われ
  健康管理が一番大切だと思いました。
  睡眠不足もあったのかなあと。
  これからは気を付けて皆さんにご迷惑をかけないように
  留意してゆきたいと思いました。
  本当にありがとうございました。
 


◆日中間の全面戦争に至るまでの経緯

北支事変が日中戦争になった大きなきっかけ

9日 停戦の話し合いが始まる
冀察(きさつ)政府(河北省とチャハル省を統治)は城外に派兵されているものは攻撃も差し支えないが、場内には多数良民がいるから攻撃は待ってもらいたい

10日夕 牟田口、独断で竜王廟を攻撃
支那軍全滅 住民も全員殺害


■ 現地で停戦の話し合い

 蒋介石が承認した冀察きさつ政府 Wikipedia 冀察政務委員会

 1935年12月18日に中華民国北部に成立した地方政権
 国民政府が宋哲元を委員長に任命し、
 河北省、チャハル(察哈爾)省を統治させた

 日本政府はそれぞれの軍閥に軍事顧問を派遣していた
 外務省の外交よりも陸軍の外交が優先
 
 冀察政府の第29軍の顧問・桜井少佐と第37師団長が
 停戦の話し合いを9日にしていた



7月10日 参謀本部は内地から3個師団、及び航空兵団、関東軍から2個旅団、朝鮮軍から1個師団を華北に派遣することを内定


■ 参謀本部(拡大派・強硬派が主流)

慎重派(多田駿参謀次長、石原莞爾ら)は小規模のうちに収束させたい。
ソ連を敵にまわしたくない。ソ連に敵対する戦力を残しておきたい。 

強硬派(武藤章)「現地軍の成功を省部をあげて祈っています」と電話

田中軍事課長の日記
「一切の派兵はしない。参謀総長が決めれば支那駐屯軍は山海関まで兵を引かなえればならない」
   ↓
日本の占領地域を中国に返すことになる

7月11日 午前、閣議に先立って五相会議(近衛首相、広田外相、杉山陸相、米内海相、賀屋蔵相)
陸相の河北派兵提案を審議
「派兵の目的は威力の顕示」によって要求を貫徹する
兵力は5師団。ただし、差当り3個師団とする」で意見一致。

※近衛、広田は反対意見を述べず、
 米内は派兵は好ましくないがやむを得ず同意すると述べた

続いて閣議で派兵の県と、これに伴う予算措置を承認
   ↓
 天皇裁可(輔弼責任=責任は内閣が負う)


戦争に舵を切った政府声明

閣議終了後、政府声明

「政府は本日の閣議に於いて重大決意を為し、北支出兵に関し、執るべき所要の措置をなすことに決せり」

同時に政府はこの事件を「北支事変」と呼称することを決定
9月2日には「支那事変」と呼ぶことを決定(戦場の拡大により)

11日夕 近衛は首相官邸に正解、財界、言論界の代表を招いて、挙国一致の協力を要望


何故拡大していったのか 

日本の権益を守るため

「挙国一致」→ 敗戦までの日本のスローガン
「私生活を認めない」こと
全ての生活がお国の方針に添ってゆく

同日、現地では、橋本参謀長、松井※特務機関長と第29軍副軍長・秦徳純との間で停戦協定の話し合いが始まり夜8時に調印
停戦協定が成立した (日本側に有利)

一、第29軍代表は日本軍に対し遺憾の意を表し、且責任者を処分し将来再び斯の如き事件の惹起を防止することを声明する

一、豊台駐屯の日本軍と接近せる苑平縣城及び竜王廟付近に中国側軍隊を駐めず

※特務機関=外地に置かれた諜報機関。作戦以外の政治経済工作、謀略などの活動。陸軍の機関。


天皇の思い 

天皇にはソ連が参戦することへの不安があった
この日、閑院宮参謀総長が参内した時のやりとり
   ↓
天皇「もしソビエトが後から立ったらどうするか」
参謀総長「陸軍は立たんと思っております」
天皇「それは陸軍の独断であって、もしソビエトが立ったらどうするか」
参謀総長「致し方ありません」
天皇(非常に御不満の様子)

停戦協定結ばれた後の出来事 

①報告が東京に到着後の対応
参謀本部、陸軍省は内地からの3個師団動員は準備にとどめ、関東軍からの混成2個師団と飛行集団の一部、朝鮮軍から1個師団を華北に派遣することを命令

②松井北平特務機関長の後日の回想
 (停戦協定調印者の一人)
夜半近く東京のラジオで『北平において停戦協定成立との報に接したが冀察政権従来の態度にかんがみ、はたして正義に基づくものであるか信用できない。おそらくは将来、反故同前のものになろう。云々』と放送された。
これは逆に、われが協定に誠意がないことを示したもので、陸軍省新聞班の強硬派が上司の認可を受けることなく、勝手に原稿を書いて放送局に回したということであった(大本営陸軍部)
欲12日の新聞は、停戦協定のニュースは一隅におしやり、前面が国民の戦争熱を煽るような記事で満たされていた。このことが中国側を強く刺激し対日抗戦の決意を固めさせることになった。
   ↓
 マスコミの影響が戦争を拡大させてゆく一因

7月12日 海軍軍令部も上海、青島への派兵も必要と
       大規模なタイ中国作戦の準備を始めた

7月13日 陸軍中央部首脳会議「北支事変処理方針」決定
       不拡大方針をとるが、中国側の対応如何では
       「断固たる決意に出ずるものとす」

7月15日 内地から飛行18個中隊よりなる臨時航空兵団を編成
      (除 関東軍、陸軍航空兵力の50%以上)
       華北派遣を命令

7月16日 五相会議で杉山陸相19日を限度に支那駐屯軍司令官
       香月清司(7/11任命)に先の停戦協定に改めて
       宋哲元の調印、宋の正式陳謝m責任者の処罰と罷免
       部隊の撤退を要求させることを提案

       広田外相は国民政府への期限付き交渉には反対
       現地での期限付き交渉には異存がないとした

   ↓
 広田外相が戦争に加担したとし東京裁判で有罪になった

中国側の対応 

■ 中国側は支那駐屯軍の要求の大部分を承認し、宋哲元は18日新任の香月軍司令官を訪問し、19日には細目の協定が調印された(中国側は譲歩)

■ 蒋介石談話発表 7月17日
「最後の関頭に立ち至らば徹底的犠牲、徹底的抗戦により全民族の生命を賭して国家の存続を求むべきなり」
   ↓
 7月21日国民政府、国民党の組織が非常態勢に改組され
 政府直系軍の抗戦準備がすすめられた

近衛の和平交渉の試み 

現地の陸軍部隊は政府の言い分を聞こうとしないし、陸軍省も拡大派だったので、戦争が長引くという予想のもと、近衛首相は蒋介石との間で直接和平交渉をしようと考えた。
しかし、仮に成功しても軍部が認めるかどうか苦慮し国際間の信用を失うことを恐れ、自ら出向く近衛・蒋会談は実現しなかった(熱望した石原莞爾は近衛に大いに失望)

近衛は宮崎竜介(支那浪人)を南京に遣って蒋介石に自分の意中を伝えようと試みたが

=近衛の平和交渉が無に帰したいきさつ=
自ら出向くことを断念した近衛は、宮崎竜介を南京に遣って、蒋介石に自分の意中を伝えようとこころみた。
まず側近の西園寺公一を上海に派遣して、ここで宋子文と会見させ、いちおう蒋介石の気持ちを打診しようとした。
近衛から密命をおびた西園寺は西希与志という偽名を使ってフランスの船に乗り込み上海へ。聯合通信上海の支店長松本重治の仲介でイギリス高務官を通じ宋子文と会うことに成功し、蒋介石も条件次第では和平の意思があるとの答えを得た。

西園寺から上記の知らせを受けた近衛は宮崎竜介を自分個人の特使として南京に送ることを陸相杉山元に打ち明け了解を求めた折り、杉山は反対しなかった。が、宮崎は神戸港で乗船直前に憲兵に逮捕させる意外な結末で終わり、近衛の望みは絶たれてしまった。
近衛は杉山から秘密が漏れたと抗議したが、杉山からは不得要領な返事しかかえってこなかった。

宮崎竜介逮捕の真相は、国民政府から王駐日大使に極密至急電報が届いた。
暗号電文は「事変の解決にかんし、蒋総統は近衛首相と意見の一致を見たるともって8月6日、上海着の汽船上海丸にて密使宮崎竜介を派遣する様連絡せよ。上海丸上海に入校せば、一般乗船下船の後、極秘裏に江南造船所の艇に乗せて南市に上陸させ、南京に連行せしむ。連絡案内のため周某を上海に派遣せり」と解読された。(大谷敬次郎著「軍閥」)

電文の内容は海軍より参謀本部に通報。近衛の秘密工作を知った参謀本部は陸軍省に急報。陸軍省主務課は東京憲兵兵隊に宮崎をとらえて東京に護送した。

この時期に近衛は外相広田弘毅を南京に派遣することを考えたが、広田は陸軍の真意ははがりがたいからとして、その任務を引き受けることを渋った。


当時の一貫してない様子

7月20日 閣議で陸相内地兵力の派遣は既定方針と主張
  外相は南京での日高信六郎参事官と国民政府、王外交部長との
  交渉結果を待とうと述べた
  海相は外相に同意しながらも上海方面への陸軍の派兵を希望
  賀屋蔵相は派兵を支持した
  結局は南京の交渉の成り行きを待つことになった

 ※当時ドイツは輸出先として中国を重視し、軍事顧問を派遣していたので
  南京軍は強くて日本軍は苦戦していた。

7月21日 支那駐屯軍から内地部隊の派遣は必要ないと中央に具申

7月22日 内地からの派兵はみあわせた
  

本格的戦争の始まり

7月27日
 ①参謀本部、奉勅命令
  支那駐屯軍に北京・天津周辺の中国軍の攻撃と
  同地付近の占領を命令
    ↓
  28日早朝から支那駐屯軍は満州・朝鮮からの増援部隊をあわせ
  第29軍に対する攻撃を開始
  圧倒的な航空兵力の援護のもとに、この攻撃は二日間で成功
  日本軍は北平・天津周辺を完全に占領

     本格的戦争開始

 ②軍事行動開始とともに第2次動員下令
  3個師団、多数の砲兵・戦車・工兵らの軍直轄部隊や後方部隊を含む
  人員20万9千人、馬5万4千頭を大動員
  新たに36万tの船舶も徴傭
昭和 | 02:21:25 | Comments(0)
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