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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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4/22 宣戦布告なきままの戦線拡大と和平工作失敗
4/22
 
   4月22日

 天皇の記録をいろいろ読んで行きますと、
 実に天皇はよく知っているんですね。
 日本の陸軍の部隊がどういう武器を持っているか
 どれだけの戦闘能力があるか
 海軍のガソリンがどれだけあるかということを
 全部熟知していました。
 ミッドウェーの海戦で日本軍が大敗を喫しましたが
 これも全部知っているのです。
 天皇は知らなかったように言われていますが
 天皇は勝利した戦いも敗れた戦いも、その損害も
 全部知っているんですね。

 そういう中でソ連と闘ったら勝てるかどうか、負けた場合
 天皇制という国家体制が崩れて行くのではないか
 ということを一番心配していました。 
 


◆宣戦布告なき戦争の始まり

■呼称の変化

7月7日に始まった戦争は宣戦布告をしていない。
だから戦争ではない。あくまでも事変である。
     ↓
7月11日には北支事変と呼ばれた。
     ↓
8月13日には戦場が中国の中部(上海)に移ったことから
支那事変と名前が変わる。


■8月18日の天皇の発言
 天皇が参謀総長閑院宮と軍令部総長伏見宮に


「斯クノ如クニシテ諸方ニ兵ヲ用イフトモ戦局ハ永引クノミナリ。
 重点ニ兵ヲ集メ大打撃ヲ加ヘタル上ニテ
 我ビ公明ナル態度ヲ以テ和平ニ導キ速ヤカニ時局ヲ
 収拾スルノ方策ナキヤ。
 即ち支那ヲシテ反省セシメルノ方策ナキヤ」
     ↓
「重点に兵隊を集めて打撃を与え
 そうすることによって戦争を早く終えられないか」

 ※天皇は軍の最高司令官

 ※盧溝橋事件勃発当初、天皇は「不拡大」「早期収拾」を
  望んでいたが、北支での戦線拡大により
  早期収拾を図るために大兵力の集中投入による決戦の実施を
  求めるようになった

 ※「大打撃ヲ加ヘ」よとの下問に両総長は
  陸海両統帥部において十分研究した上で
  「支那ヲシテ戦意ヲ喪失セシムヘキ諸方法」ヲ奉答

■ 次第に戦争継続、膺懲論へと

 8月21日 戦争の早期終結のための答申


 「早期ニ目的ヲ達成スル為、目下最モ期待シ得ヘキ手段は…
 (防衛庁防衛研修所戦士室戦史叢書86「支那事変陸軍作戦1より)
     ↓
  早期に目的を達する為に、目下最も期待できる手段は
  海軍航空兵力をもって敵国軍隊の白眉とする航空兵力を
  覆滅し、かつ重要なる軍部施設、軍需工業中心地
  及び政治中心などを反復攻撃して敵国軍隊に
  国民に戦意を喪失せしむるにあり
  これがために速やかに上海付近に陸上航空基地の獲得を要す

 ※東条英機の関わった小さな事件
  (拡大していたら大変なことになっていた)
  満州北部アムール河を黒河市からやや下った地点にある
  中州カンチャーズ島に1937年6月19日ソ連兵が上陸
  陸軍中央部の正史にかかわらず6月30日現地の第一師団が
  速射砲でソ連軍砲艇一隻撃沈、一隻撃破
  7月2日 ソ連軍は地上部隊・氷上艦艇を撤収
  (同戦士史室 戦史叢書27「関東軍1 朝雲新聞社刊)

■ 中国の日本軍
  1937年12月 中国に派遣された陸軍部隊は50万人を超えて
  日露戦争に投入した兵力を上回っていた
  関東軍50万人で併せて100万人余人(平時の日本軍は25万人)

■ 陸海軍省は宣戦布告に反対
  アメリカの国内法『中立法』の適用を恐れていた
  
 ※モンロー主義 1823年モンロー宣言
  第5代大統領モンローで確立されたヨーロッパ諸国との
  相互不干渉の外交政策

 ※陸軍は米からの軍需物資を最も必要としていた
 (特に精密工作機械や軍用トラック)

◆大本営の設置
  
■ 大本営設置のいきさつ 

  作戦の大規模化、陸海軍の協同作戦の必要から
  1837年8月 陸軍の参謀本部が設置要求

  1837年9月 陸海軍両省、統帥部の権限強化を懸念して反対
  近衛首相、湯浅内大臣は政戦略統合の観点から文宮参加の
  広義大本営設置を海軍省、文官を加えない事を条件に
  設置賛成に転換

■ 大本営設置は『戦時』(戦争)に限る-事変時では不可

■ 大本営設置
 1837年11月18日 大本営令(軍令第一号)の制定により設置可となる
    11月20日 大本営を皇居内の一室に設置


<引用・参照文献>
 山田朗「昭和天皇の軍事思想と戦略(校倉書房刊)
 全国歴史教育研究議会編「世界史用語集」(山川出版社刊)

■ 大本営の組織図(クリックで大きくなります)

大本営の組織図


■ 大本営条例(クリックで大きくなります)

3_20120722064911.jpg


■ 大陸命第一号(クリックで大きくなります)
  大本営陸軍部命令→大陸命
  天皇の命令を伝えるもの

大陸命


■ 大陸指揮(クリックで大きくなります

大陸指


◆戦線拡大

■ 支那派遣軍が編成されてから戦線が拡大

・1937年(S12)8月31日 軍の再編成
 北京・天津地区に集結していた内地師団は北支那派遣軍の
 司令官 宮内寿一大将のもとに当初の想定を上回る規模で
 新編成された
 出兵兵力は三個師団から八個師団に拡大

 ○第一軍(司令官 香月清司中将)→北京から漢口方面
  9月24日に山面省の首都太原を占領

 ○第二軍(司令官 西尾寿造中将) →天津から済南へ

・関東軍参謀長 東条英機は三個旅団による「東條兵団」作り
 8月27日張家口、9月13日大同、10.14綏遠、10.17包頭と
 内蒙古一帯を占領

・関東軍は9月~10月、チャハル省、綏遠省、山西省北部に
 察南・蒙古・普北(しんぼく)の三自治政府作り
 関東軍の支配下に置いた 
     ↓
 軍事力による「華北分離工作」

 ※同様の地方政権樹立育成の方針は占領地域拡大とともに
  各現地軍で構想され、それが「国民政府を相手とせず」
  という方向へ政府を動かしていくことになったといえる

 ※ソ連の動向に備える主任務からはずれた東條らの
  強引なやり方を参謀本部は押さえることが出来ず
  9月27日参謀本部石原莞爾第一部長(作戦部長)は
  関東軍参謀長に左遷され、後任の下村定(さだむ)少将は
  戦線拡大を望む現地軍の要求に次第に同調していった

  9月25日参謀本部は石家荘、徳集を連ねる線までの進出を
  認めたが、太原、彰徳、済南を含む線まで年末には南下していた

 勝てば文句を言われないことが戦線拡大の原因

拡大していった戦線
戦線拡大


◆トラウトマン工作

トラウトマン工作 - Wikipedia - http://bit.ly/O6WXQ9
トラウトマン工作とは、1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)1月16日までの期間にドイツの仲介で行われた、日本と中華民国国民政府間の和平交渉である。当時のオスカー・トラウトマン (Oscar P. Trautmann 1877年5月 - 1950年12月10日)駐華ドイツ大使の名を取って、こう呼称される。

■軍中央は戦争早期終結を模索
参謀総長が北支派遣軍編成に際しての8月31日付け命令には
「敵の戦争意思を挫折せしめ、選挙区終結の動機を
獲得する目的を以て速やかに中部河北省の敵を撃滅すべし」とある。
同様の目的は11月7日、中支那派遣軍(上海派遣軍 第10軍で編成
司令官 松井石根大将)に命令されている。

■10月1日総理、外務、陸軍、海軍相「支那事変対処要綱」決定

 ①『事変』はなるべく速やかに終結せしめ

 ②上海周辺の非武装地帯の設定

 ③8月7日の三相決定の停戦条件で事変を解決する
     ↓
・内蒙古の張北まで広げた広大な非武装地帯を設定し
 中国軍撤兵を見届けた後、日本軍も事変以前の規模に
 自発的に撤兵する
・塘沽、梅津、何応欽、土肥原、秦徳屯の二協定と
 冀東政権を解消し非武装地底への南京政府の行政を認める

■日本が蒋介石に出した和平条件
11月2日広田外相、ディルクセン独駐日大使に和平条件を伝え
トラウトマン駐華大使より蒋介石に通告

 <和平条件>
①内蒙古に自治政府をたてる

②満州国国境から天津、北京にわたる間に非武装地帯を設定
 その全行政権は南京政府にあるが、親日的人物とすること
 ただし、ただちに和平が成立しない場合には新行政機構を
 創設する必要があり、新機構は和平後も継続させること
 この新機構とは既に現地日本軍の下で設定準備の
 進められている華北政府

③上海の停戦地帯を拡大し国際警察隊で管理する

④抗日政策の廃止

⑤共同防共

⑥日本商品に対する関税引き下げ


■蒋介石の対応
蒋介石はブラッセル会議(九か国条約会議)で列強と協力中なので、公式に和平提議を受けることは出来ないと回答。
しかし中国側が期待した対日制裁措置をとらなかったため12月2日トラウトマンに対し、日本の条件を交渉の基礎として受け入れることを申し出た。
蒋介石は同時に華北に対する中国の宋主権・領土保全権・行政権を確保すること、ドイツが最初から講和の調停者として行動することを希望した。
    ↓
 ただちに日本側に伝達

■和平交渉の失敗

この一ヶ月の間に現地から南京進撃を求める意見が次々と上申
    ↓
首都南京を占領すれば中国は屈伏するかもしれない。
あるいは一地方政権に過ぎなくなる蒋介石と和平交渉する必要なしという主張が関東軍などから高まった。

12月1日参謀本部、中支派遣軍司令官に対し「敵国首都南京を攻略すべし」と命令

12月3日南京占領

日本側は新設の「大本営・政府連絡会議」でトラウトマンに手渡した和平条件と全く異なる苛酷な和平条件を議定

翌年1月16日政府はトラウトマンを通じ、中国に和平交渉打ち切りを通告して終わった

同日、対華声明「国民政府を相手とせず」を発表(第一次近衛声明)
第一次近衛声明

<資料>林茂「日本の歴史25 太平洋戦争」中央公論社
昭和 | 03:32:35 | Comments(0)
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