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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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長期化する日中戦争 民衆の戦争への不安と期待
6/3
 
   6月3日
 今年は12年ぶりの3度目の区長なのですが
 桶川でも団地の北側の防風林の放射能検査を
 区長という立場で市にお願いに行きましたら
 環境課の課長自ら精度の高い機械で測ってくれて
 細かい資料を作ってくれて回覧いたしました。

 今年役員が私を含めて19人ですが、心が通じ合うので
 来年まで大過なく務めたいと思っています。
 


◆南京占領で強気になり停戦遠のく

■ 関東軍(東条英機参謀長)が南京侵攻を強く主張

・首都南京を占領すれば中国は屈伏するかもしれない
・蒋介石が北京から出てゆけば、一地方政権に過ぎず
 和平交渉する必要なし
    ↓


■ 南京に侵攻

・参謀本部12月1日に中止派遣軍司令官に
 「敵国首都南京を攻略すべし」と命令

・12月13日南京占領

■ 「国民政府を相手にせず」

・日本側は新設の「大本営・政府連絡会議」でトラウトマンに
 手渡した和平条件と全く異なる苛酷な和平条件を議定

和平条件

   =亀井広「昭和の天皇と東条英機」光人社 より=

以上、まるで中国が降伏したかのような「和平条件」であるが、この決定会議の席上、原案を支持したのは海相米内光政と軍令部次長古賀峯一の二人だけであったという。
陸相杉山元、参謀次長多田駿、内相末次信正、蔵相賀屋興宣らの要求で、条件は修正されていった。
その間、近衛は沈黙し、外相広田弘毅も一言も発しなかった。
ただ、末次信正が、「これ以上の甘い条件では国民が納得せず、内相として治安の責任がとれない」といったのにたいし、近衛はめずらしく、鋭い五兆で、「国民が納得したところで、和平が成立しない条件では無意味であろう」と言い放ったとつたえられている。

・翌1月16日政府はトラウトマンを通じ
 中国に和平交渉打ち切りを通告
 対華声明「国民政府を相手にせず」(第一次近衛声明)
 
■ 1937(S12) 12.14 北京に臨時政府が成立

・支那方面軍の工作で王克敏を委員長とした臨時政府

・東條が日本政府の承認が必要ないと考えた訳
 (歴代政府の方針)
    ↓
  1936(S11)1.13 第一次北支事項の閣議決定で
  華北五省の自治化促進(日本政府の傀儡政権化)
  同年8.11広田内閣、華北五省の防共親日満を決定
  (帰化を促進し日本政府の出先機関の役割担う)
  日本の権益確保
 
■ 支那事変処理根本方針決定

・1938(S13)1.11 御前会議が開かれる
 国民政府(蒋介石政府)が和を求めてこない場合
 以後、これを相手にせず新政権成立を助長すると決定
 (北京の臨時政府を事実上、承認)

重要な国政を決定する場に天皇が出席するようになったのは、明治維新の王政復古から。
御前会議のスタート時、まだ十代の少年だった天皇は山縣とか大久保とか西郷の言い分に頷いていた。

   =西園寺、御前会議の開き方の談話=
枢密院に常にご親臨になる意味の御前会議であって、ご直裁とかご親裁ということにならないようにしなければならない
   ↓
天皇が責任を及ばないよう決定権は枢密院

実際は御前会議前に上申し意見を聞いている


■ 汪兆銘の「和平反共救国」 汪兆銘 - Wikipedia   ↓
近衛政府にとって好都合

◆民衆の中に生じた戦争への不安と期待

~歴史研究会編「太平洋戦争史2 日中戦争1(青木書店)他より~
 1937(S12)年末
 企画院産業部、中央農林協議会の協力で全国38町村実態調査

■ 二つの戦争観(徹底的に と 停戦してほしい)

(宮城県南方村)
  中流以上は(再び紛争が起こらぬようになるまで)徹底的にやってほしい
  中流以下は早く止めて欲しい

(静岡県静浦村)
  一日も早く事変の終了することを内心において希望する者絶対多数

(静岡県相川村、岩手県重茂村)
  仕方がない、早くおさまればよい

(兵庫県三方村 奈良県黒滝村 兵庫県若狭野村 広島県西志和村 
山口県神玉村 長崎県脇岬村 など過半数の村)
  徹底的に遂行して再びかかる事態を繰り返すことなく
  善処せられることを希望している

■ 中流以下の民衆の終戦を願う内なる声

(福島県奥川村)
  早く終わることを望む
  海外発展の出来るように希望する

(石川県富奥村)
  皇軍の犠牲払いし所(北支、中支)は帝国の統治下に
  置かれるものと期待する

(奈良県高市村)
  相当の権益を確保するよう期待する

(栃木県明治村)
  北支に対し日本の勢力を伸ばし、二、三男を出すつもり

(香川県川島町)報告
  戦争が続くと困るというのは本当の声
  しかしまた一方勝まではやらねばならぬというのが
  各階級を通じての声である

(香川県和田村)報告
  軍事公債の内田氏も零細民は金を出して買うが、大資本家は
  買わぬ。国に対する奉仕が薄いという非難がある
  これは高松市内でも見られる
  すると国民精神総動員の目標はむしろ中流以上の階級に
  向かって必要だということになる

早期終戦と権益獲得を同時に願いながら苦しい生活の中で「国民の義務」としてまじめに戦争に協力しようとする民衆。そこに明らかに民衆の間に「草の根の帝国主義」意識が高揚し始めたことがうかがえる

1937(S12)9に開始された『国民精神総動員運動』は近衛内閣が「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」をスローガンに日本精神高揚をはかった。
消費節約・貯蓄奨励・軍事公債強制割り当てなどのキャンペーンを行い、戦争遂行協力のため、生活水準切り下げの運動が中心。


■ 消費節約の宣伝(反発が強かった)

(新潟県南鯖石村)
  農村に対しては消費宣伝の如きは無意味である

(愛媛県周布村)
  時局の宣伝は代替徹底した様であるが
  消費節約等に対しては寧ろ反感あり

(香川県川島町)
  農村が今以上に節約をやれば体位が下がる
  節約の余地なし


■ 応召、出征の苦悩

①蒲田周一(岐阜県白鳥町)23歳
 1937.8.26上海に出征 10.12大場鎮で戦死
(白鳥町戦没者の手紙編集会編「白鳥町戦没者の手紙」より)
 出征前日、広島の旅館で母宛に書いた手紙
母上様も新聞にて拝見の事と思いますが、先日19日に行った兵隊は拾数名のギセイを出したそうです。私達も今、戦闘して居るところへ行くのですから、生きて帰る覚悟はありません。御国の為に一生懸命に尽くします故ご安心下さい。死して名誉ではない。生きて帰って手柄を立て来ます故御待ち下さい。
又秋の取り入れも御多忙です。思えば心配な事ですが、私達より不幸な人はまだ世の中に沢山ありますから、お母さんも充分御身を大切にしてお暮し下さいませ。


②石川忠志(岩手県)23歳 
 1939.9.26出征し華北、東南アジアで戦い続け
 1944ニューギニアで戦死
(岩手・和我のペン編「農民の兵士の声が聞こえる」より)
 父が早死にし幼い弟妹の父親代わりになっていた
 郷里の恩師にあてた手紙
私は軍人として働く事の出来る幸せのその裏には、私の一家庭の生活如何ということを考えます。働き手のないわが家の老いたる祖父、母、若年の弟妹の今後の生活を父の後を引き受けてやっていくべき私の責任。それを振り投げてゆく私の責任を痛感するを否めません。…今後ともくれぐれも我が家の事につきましては御世話を伏して懇願いたします。


③出征軍医の母、岡村秀子(静岡県)
 1939(S14)9.16 息子宛の手紙
(岡村俊彦 榾火(ほたび)
(ノモンハン事件の停戦を聞いて)おもわずハラハラと落涙しました。まずよかったと心の底からほとばしる嬉しさは出征させている家族のものでなければ決してわかりません。村長さんでも社会人でも自宅から出征していない限り少しの痛感も覚えない…幾マンの尊い犠牲者をみても何のこの位は当然だ、と情けない高笑いに終わる


④香川県川島町民の「時局認識」
~内閣情報部「事変化に於ける農漁村の思想動向」極秘資料~
クリックで大きく表示されます
意識調査


■ 戦争が与えた利益

①恵まれた待遇
農民兵士は軍隊に入ってから、目がまわるほど忙しく苦しかった農作業から解放された。
「毎日の入浴」「なかなか良い食事」「立派な革靴」など農村にいる時よりも恵まれた生活が出来た。
給料をもらい、それを貯金したり、家族に送金できるようになった。
貧富、身分に関係なく「平等な扱いを受けることが出来た。教育を受け、自分の才覚によって身分的に上昇していくことが出来た。
(岩手県農村文化懇談会の「戦没脳m人兵士の手紙」検討結果より)

②下士官になれば村に帰ってメリット
軍隊は農民兵士に新しい展望を与えた。
戦場勤務を通じて、伍長、軍曹などの下士官になれば復員後村の有力者となる道が開けていた。
(山本武「一兵士の従軍記録」より)

③就職のメリット
~安部勝男(岩手県岩谷堂の自小作農)山西省の戦闘に参加~
今度の北支の開発ために…官庁や会社に勤めることが出来るという話で一ヶ月百五十円も収入があるなら一つ支那に止まってやろうか
(「戦没農兵士の手紙」より)


■ 中国の戦場で農村青年の夢

~今井龍一「十日間の陣中日記」~より

岐阜県白川村出身の現役兵 
1937(S12)8.20名古屋港を発ち上海戦に参加

7月25日
何はともあれ兄さんは一日でも早く平和な百姓生活に帰りたくて仕方がない。張り切って工作すれば決して損ばかりでもないし、第一村ほど美しい自然に恵まれたとちはないからなァ。(中略)
百姓はもっと生活を豊かにしなければならない。余りにも百姓はガサツだから。質素でもいいから住みよい完全な住宅をもち、娯楽のための設備だってもっともっと使って良いと思うのだ。兄さんは帰ったら、新しい兄さん独特の農家を完成さしたいと思っている。

8月25日
召集兵の堀田は一息に戦死だ!上陸してから傷者の出なかった日は一日もない。そして今朝はついに戦死者だ。
自分は家屋の蔭でペンを取っている。二尺と離れていない所に戦死者が置いてあるのだ。
支那兵に対する憎悪が俺の全身をはせめぐる。

8月26日 三名が戦死
俺は戦争というものがわからなくなってしまった。

8月27日 更に三名が戦死
この夜「ああ人類はなぜ闘うのだろう。死の部落で歩哨に立っていると何故とも知れず冷たい涙が流れ落ちるのだ。(中略)
俺は今日まで家庭に恵まれていた。いい父母と、いい姉さんたちと、優しい妹や弟を持っていて…いつ死んでもいい…。父母やみんなが悲しむのが一番つらいぐらいのものだ。何ひとつみんあに報いないのが残念だ…。けれども日本のためだから…。

8月31日猛烈な爆撃と艦砲射撃で呉淞市街は破壊され日本軍の突撃で中国人の死体が散乱し、日本軍の放火で市街は焼け落ちた。今井さんの所属する小隊は150ないし160名の中国軍を追い詰め一時間かかって皆殺した。

8月31日
我々は血にまみれた銃剣を拭きながら、ほっとして戦闘の一段落を喜んだ。
ああ俺は幾人の彼らを殺したことか。10人?否15人?ともあれ俺は生まれて初めて人の命を自己の力で消滅させたのだ。手をあわせて拝んでいた男。死に物狂いで向かってきた男!それは一場の悪夢だ。

9月1日
お母さん、お母さん…お母さんの大人しい息子だった僕はいま、人を殺し火を放つ恐ろしい戦線の兵士となっています。(略)妹よ、兄さんは元気。毎日戦争をしている。兄さんの考えていた人生とこの事実はなんという相違だ。(略)
兄さんは毎日変わっていく。魂の底から揺れ動いているような激しい心の変化だ。(中略)兄さんはその(中国の美しい)風景の中で演ぜられる戦争を、お前に語りたくない。若いお前の魂はいっぺんによごされてしまうようなと兄さんは考えられるんだ。

この日記の翌日に今井さんは戦傷死

先生の思い
こういう記録を読みながらシャープペンシルを走らせていますと、当時の戦場に立った人たちの、私たちに残した思いですね。戦争に行かなかった人間に何を伝えたかったか。そういう思いをきちんと受け継いでゆかないと、戦争によって何も学ばないで、またぞろ愛国心などに踊らされてしまうのではと思います。
私は亡くなった人たちの残した記録を言葉に出して読むことによって、その人の命が僕に何を求めているかがわかってくるんですね。
そういう思いで皆さんと勉強会をこれからも続けて行こうと思っています。

昭和 | 21:33:27 | Comments(0)
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