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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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捕虜虐殺を拒否した学徒兵、渡部良三さん
7/1
戦場で中国兵捕虜に対する「度胸試しの刺殺」を命ぜられ、
それを拒否した渡部良三さんの記事の紹介です。
渡部さんの体験は戦争の、軍隊の、異常さを炙り出しています。
 蕨にいる今93歳の方が、渡部さんという方と関わりがあって
 もうかなり前なんですが、図書館で講座をやっている時に
 この方に来ていただいてお話をしてもらったんです。
 船橋にお住まいで、今年90歳になる方です。
 たぶん、まだ御存命だろうと思いますが
 年賀状のやり取りだけは続けています。
 
   小さな抵抗

 いつも同じ話をして申し訳ないのですが
 兄が戦闘から帰って来ると酒保に行って甘いものを買って
 それを草むらに供えてお経をあげていた兄の姿を思い出すのです。
 自分が撃った弾によって一度も出会ったことのない人の命を
 奪ったかもしれないと、兄は帰って来ると必ず謝罪のお経を
 あげていたというんですけれど
 本当にこのお話を聞いた時にも、兄を思い出していました。



~クリスチャン新聞No.1312 1993.12.26 より転載~

ryouzou.jpg


  主の裁き 厳しかるべし 殺さるる 八路を見つつ 黙しおおせば

  生きのびよ 獣にならず 生きて帰れ この酷きこと 言い伝うべく

  強いられし 痛み残れど 侵略を なしたる民族(たみ)のひとりぞわれは

               (歌集「小さな抵抗」より)

「捕虜虐殺を拒否した学徒兵」
~渡部良三さん50年目の証言~

五十年前の学徒動員で徴兵された一人のキリスト者学生が、中国で捕虜の虐殺を命じられた。
しかし信仰者として拒否、そのため軍により、死の一歩手前にまで至る激しいリンチを受け続けた。
この人、渡部良三さん(71)=千葉県船橋市在住、元会計検査院職員=が、半世紀の沈黙を破ってその生産な体験を証言した。
11月27日、日本友和会(JFOR、池田鮮書記長)が「”汝殺すなかれ”を命がけで貫いた渡部さんの振興に裏打ちされた不屈の精神を学びたい」と、東京で講演会を催したもの。
自らが「小さな抵抗」と呼ぶ、戦場での決断の重みに、聴衆は息をのんで聞き入った。

■ なぜ沈黙したか


「私は信仰者と言えるような者ではありません。つまずいてつまずいて、捕虜を虐殺するその現場に立っても優柔不断でした」

五十年にわたり沈黙を守ってきたのは、虐殺現場の血なまぐさい光景を話そうとすると体が震えて話せなかったという理由が一つ。
今でも殺されていった中国人捕虜たちの夢を見るという。
もう一つは「話していても果たして真実を伝えることができるかどうか恐れたから」。
体験を独り胸の内に抱えているのがあまりに苦しくて、復員後に一度だけ、師と仰ぐ人に話しを聞いてもらったことがある。「いいことをしてくれた」とほめられた。しかし実際には、自分は虐殺を拒否はしたけれど、上官にも占有にもついにやめろと言わなかった。
五人の捕虜が銃剣に刺されボロボロになって穴に放り込まれるのを黙って見ていた。それを思うと、前よりもっと苦しくなった。

「沈黙を通してしまったことを、誰かに”それでいいんだよ”と肯定してほしかったんだと思います。自分の戦争定見を語ることによって、自分の心がおごらないか、それを一番恐れています」

しかし70歳を超え、二人の孫に祖父が戦争中どういう生き方をしたのか伝えたいと、このほど歌集「小さな抵抗」を作った。

大勢の人の前で話すのは今回が初めて。「途中で詰まって話せなくなったらおゆるし下さい」---そう言って、渡部さんはとつとつと語りだした。

山形県の農民の子として生まれた渡部さんがキリスト教の感化を受けたのは基督教独立学園の創立者、鈴木鈴木弼美(すけよし)と親しかった父・弥一郎さんから。
その父は戦中、「日本が負けて戦争は終わる」と発言したことが元で、治安維持法違反容疑に問われ、鈴木氏とともに八か月間、獄につながれた。

■ 戦時中投獄された父の感化

1943年10月の第一次学徒動員で徴兵。出陣を前にした息子に父はこう話した。
「外交官は国家観相互にトラブルが起こったとき、それを最小限に収めるように努力する。外交官でなくても、一回の兵士として戦地へ行っても、必ず外交官以上の効果を上げることができることが何かあるはずだ。ついては心を開いて神に祈ってくれ」

そして内村鑑三の著書からおしえられたことを伝えた。
「自分の判断に悩んだら心を粉飾するな。ただただ神様に祈れ。必ず神様は答えて下さるから」

■ 天皇のために肝試しだ、と

中国北部の河北省に配属されたのは44年3月。現地で約二か月の基礎訓練中のことである。
ある朝の食事中、分隊付上等兵が突然「きょうは共感のご配慮よにより肝試しをさしてやる。営倉に八路(共産軍兵士)がいるから、おまえたちに突き殺さしてやる。殺人の演習だ」と告げた。

シーンと静まり返った。
周りを見回すと、味噌汁がこぼれるのに気付かない者もいた。午前中、銃の手入れをしながら、初年兵どうし、きょうは本当にやるんだろうかと話し合った。「なぜ?という気持ちを皆持っていたと思います」

分隊長の引率で近くの空き地へ連れて行かれた。
穴が掘ってあった。
その朝、使役に出ろと言われて、美文たちが掘った穴だった。
(捕虜の墓穴だ。大変なことをしてしまった…)

「それから自分の想念が堂々巡りでした。殺すか殺さないか、この期に及んでも、親父がいてくれたらと、親父を頼む根性が抜けていませんでした」

父の言葉を思い出した。だが、その通りだとわかっていながら、どうにも心の整理が出来なかった。

教官が訓示する。「捕虜を殺して一日も早く天皇陛下の御稜威のために立派な兵士になれ」と。

---「その時まで、人殺しというのは人間の最も恥ずべき罪と教えられてきた。きょうになって天皇陛下の御稜威のまめと言われても…」

分隊ごとに一列縦隊に並ばされる。穴の周りには杭が二本打ち込まれ、捕虜の両手を縛った縄を切ればストンと墓穴に落ちるようにしてある。

■ 殺すか殺さぬか…間際まで迷い

「その時になっても、やっぱり、なんとかならないか、と決意できずにおりました。オロオロした堂々巡りの思いは私一人だけではなく、49人の新兵が皆持っていたと思います。人の命に中国人も韓国人も日本人もないはずだ。イエスかノーしかない。すこしでもイエス様の声を聞くならノーしかないはずだ。それでも堂々巡りしていたのは、生来の鈍重で優柔不断な性格の故か、または日本人特有の自分を育てた精神風土を否定も肯定も出来ないでいる姿だったのか、分かりません」

教官の話がとぎれ、初年兵がざわめいた。営門の方から、ひょろっとした面長の色の白い捕虜が目隠しされて連れてこられるのが見えた。まだあどけなさの残る16,7歳の顔立ち。通常、日本軍が行動する時にはスパイ容疑を恐れて姿を見せない中国人たちが道路に点々と出て、様子をうかがっている。

殺されると分かって命乞いをしたのか、捕虜が何か叫んだ。「このバカヤロー、じたばたしたってはじまらねえじゃねえか」と吐き捨てるように言う教育隊付上等兵。
---「バカヤローという言葉をこの時ほど悲しみに満ちた響きで聞いたことはありません。無抵抗の捕虜を殺すのは戦闘と訳が違います。バカヤローという言葉に、人を殺す痛みが言い得ない気持ちとなって含まれていたように聞こえました。教官も自分で決めたものの、新兵より先に殺人演習の現場に来てウロウロしていたのは、人を殺すことの重みに耐えかねたからでしょうか」

■ ボロのように殺された捕虜

最初の捕虜は十人の兵士の銃剣に突き刺され、血も肉も分からないボロのようになって穴の中に蹴落とされた。
二人目は三十代半ばぐらい。どうせ殺されるなら殺される場所と殺す奴の顔を見ておきたいと、目隠しを拒否したその顔には、笑みさえ浮かべていた。
三人目は二十歳前後。くいに縛り付けられると、見守っていた中国人の中から母親さしい女の人が走り出てきて土下座し、助けをこうた。「このババア、今ごろそんなことを言ったってどうしようもねえや」と教育隊付上等兵。青年は「メイファーズ(仕方がない)」とつぶやいて逝った。
こうして次々と、捕虜の命は消えて行った。

自分は五人目の捕虜を最初に刺突する番と分かった。そのときになって渡部さんは、父が「何かできることがあるだろう」と言ったこのこのことだ、と気づいた。
「親父の言葉を反芻しているうちに、神様は言葉をかけて下さいました。”キリストを着よ、すべてキリストによらざるは罪なり、虐殺を拒め、命を懸けよ”と、ごうごうとした地鳴りのような中で聞きました」

■ 神の言葉聞き命令を拒否

銃を渡されても突っ立っていた。
「信仰のゆえに殺しません」---異様な雰囲気の中で、びりびりするような痛みを体に感じた。「その痛みの中で神様のみ声を聞いたと思っています」

そこから渡部さんの受難が始まった。「恥をかかされた」上官は、「おまえ生きていられると思うか。生きているうちに拷問ぐらい見ておけ」と、女スパイの凄惨な拷問の現場を見ることを強要した。八路の捕虜と一緒にここで死んでもいい、と思った。

その後はあらゆる機会をとらえ、渡部さんに対しリンチが加えられた。それでも九死に一生を得て通信隊に転職。”要注意人物”として激戦地を転々とした。その間、村を焼き払い、村人を皆殺しにする、戦争のむごたらしさを体験した。

■ 次世代の子らにも戦争責任

「戦争責任があるかどうかは、あの戦争が侵略だったと認めるか否かにかかっている。侵略と認めれば、天皇から庶民まで悔い改める必要がある。これから生まれてくる子供にも責任はあることになると、私は思います」と、渡部さんは言う。
「私は親父の言葉を通して教えられた内村鑑三先生の言葉によって、虐殺を拒否することが出来た。ただし、沈黙を守ってしまった。ほかに説くことをしなかった罪ばかりは弁明のしようがありません」

”汝殺すなかれ”と種の諭したもう命の尊厳は、自分の命を懸けて守るに値する、と渡部さんは今思っている。

※学徒出陣
1943年(S18)9月22日、東条内閣は大学、高等学校、専門学校学生の徴兵猶予を停止。10月21日、明治神宮外苑競技場を会場に出陣学徒壮行会が挙行され、東京、神奈川、埼玉、千葉77校の出陣学徒と在学生5万人が集められた。
出陣した学徒数は3万5千人とも言われている。

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渡部 良三

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