■講座内容と日程
■プロフィール

ひさごん

ひさごん

生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

■リンク
■最近の記事
■最近のコメント
■過去ログ
■カウンター
■戦争の作り方

戦争の作り方

■Keep9

banner

■メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

■検索フォーム

■カテゴリ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


スポンサー広告 | --:--:--
7/22 第一次上海事変と川島芳子
7/22
◆川島芳子と第一次上海事変

  1932年満州事変が起こり、関東軍による占領地が拡大し
 満州国の独立計画が国際世論から激しい非難の声があがり
 国際連盟が日本軍の行為は許されないと言うようになって
 関東軍の参謀の板垣征四郎が満州から国際世論の怒りから
 目くらまししようと、満州から離れた上海で事件を起こして
 満州国の建設をすすめようとしたのが第一次上海事変です。

   7月22日

 国際的な港町で事件を起こせば各国の利権を守るのに注意が向いて
 満州国を騒ぎに乗じて独立させようと目論んだのです。
 上海で事件を起こすために使ったのが田中という公使館付きの武官。
 関東軍が現金2万円(アヘン政策で得た機密費)を渡しました。

 当時(昭和7年)の2万円の価値は大きく
 白米が10kで1円90銭。牛肉100匁3円27銭。
 高級背広が35円。幼稚園の保育料が年間33円。

 川島芳子(日本人の養女で清王朝の貴族の血を引く娘)に
 1万円を渡して工作させました。
 彼女が買収した中国人に日本人僧侶を襲わせて騒ぎを起こし
 それの報復で居留民の右翼が中国人を襲い上海事変となったのです。

 この時に川島にある程度の金を渡したのが鐘紡です。
 戦争は必ず軍と財界とが抱合せで、それを軍財抱合と言います。
 
 中国人を買収する計画に対して、本土では参謀本部の支那課長が
 積極的に支持していって、川島芳子が活躍するきっかけとなりました。

 粛親王と第四側妃の間に1907(M40)5.24に芳子は生まれ1913(T2)
 愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)
 1900年(M33)に発生した義和団事件で治安が乱れ、粛親王家も
 被害が生じた折り、鎮圧に赴いた日本軍司令部通訳だった
 川島家と出会い、二人の父親が親しくなるために
 2013年(T2)10.25に6歳で川島家の養女となりました。
 清王朝の復活を願う粛親王と、関東軍による満州国建設の願いと
 利害が一致した。
 粛親王は明治天皇を尊敬していた。

 『扶清滅洋』
  清朝を助けて西洋を討ち滅ぼす意。
  中国清末、欧米勢力の進出に反対して民族主義者が用いた標語。
  義和団のスローガンとなった。


 日本に来て豊島師付属小学校に入学すると幸田露伴が同級生。
 跡見高女に進学するが経済的な事情で1921年松本に引っ越して
 1924年10月6日に「永遠に女を清算する」と書き残す。

 1945(S20)11月反逆通数在(判決時)で逮捕され、1948年(S23) 3.25
 中国最高法院、北平分院の刑場で銃殺刑に処せられた(40歳)
 
 執行官の許可を得て「養父に手紙を」立ったまま書き
 再審の要求は却下されたことを告げられたのちに処刑された。
 係官によると、貴婦人のようにまゆ一つ動かさず、死んでいったという。
 


■ 川島芳子 資料


川島芳子Wikipedia http://tinyurl.com/2ctc83

川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 – 1948年3月25日)とは清朝の皇族粛親王の第十四王女である。
川島芳子

本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。

粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年に旅順のヤマトホテルで、川島浪速の満蒙独立運動と連携して挙兵したが、中華民国軍との戦いで1916年戦死したバボージャブ将軍の二男で蒙古族のカンジュルジャプと、関東軍参謀長の斎藤恒が仲人をして結婚式をあげた。カンジュルジャプは早稲田大学を中退後1925年「韓紹約」名で陸軍士官学校に入学した。彼らは3年ほどで離婚した。その後上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれているが(田中隆吉の回想による)、実際に諜報工作をやったのかなど、その実態は謎に包まれている。

戦後間もなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、銃殺刑となったが、日中双方での根強い人気を反映して現在でも生存説が流布されている。


上坂冬子『男装の麗人 川島芳子伝』1994年文芸春秋刊より
※14番目の王女
川島芳子文春インタビュー

良子の実父の粛親王(右)と養父の川島浪速
芳子の父
実父は1922(T11)2.17旅順で死去 56歳

芳子の実母でモンゴルの王女 粛親王の第四側妃
芳子の母
実母は粛親王より1か月前に死去 37歳

辛亥革命後、旅順に脱出し、日本人学校に通う粛親王家の王子王女
きょうだい

松本高女にはよく馬で通った
馬で通学

昭和8年 多田駿少将の義兄に送った写真。
多田良麿のサインがあり、ときには芳子はこう自称した。
「永遠に女を清算。頭を五分刈りに」1924(T13)10.6 17歳
5_20121125013657.jpg

自分の軍服姿によくサインした
軍服にサイン

事件の発端(クリックで拡大)
事件の発端

田中隆吉の証言(クリックで拡大)
事件の発端



 
   18期終了して夏休み。
   ちらし寿司とサラダとあんみつで会食しました。
  ランチ1

  ランチ2

昭和 | 03:12:11 | Comments(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。