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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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張鼓峰事件 他
9/2

●張鼓峰(ちょうこほう)事件とは
 1938年頃、中国では徐州作戦というのが始まって「麦と兵隊」という有名な歌が歌われまけれど、中国戦線の戦場が拡大していきました。
 そういう中でですね、日本の将軍と言うのは功を焦るのです。天皇から勲章をもらおう、中国の日本軍に負けまい、として関東軍がここで戦争を開始するのですね。
 それが張鼓峰事件です。  
 ノモンハン事件は、この事件の10か月後に起きています。

   0902_20130111190146.jpg


◆張鼓峰事件

◇張鼓峰事件 - Wikipedia - http://bit.ly/ZU3aXO

1938(S13)7.9 十数のソ連兵、張鼓峰上に現れ陣地工作始める

 7.14 参謀本部、外務省を通じてソ連に抗議
    
   ―モスクワでの日ソ交渉で、ソ連側は1886(M19)清朝と結んだ琿春界約
    (国境の画定)の付属の地図でソ連領と主張
    日本側の撤兵要求に応えず

   ―参謀本部内には対ソ武力行使を行いソ連の対日戦糸の有無をさぐる
    「威力偵察論」強まる

    ※参謀本部はソ連が戦争する気があるかどうか見極めるための
     仮の戦争という位置づけ
     ソ連が本格的に戦争する気なら、日本の南進はストップ

境界線

 7.20 板垣陸相、応急動員下令の裁可得られず
天皇
「元来、陸軍のやり方はけしからん。
 満州事変の柳条湖の場合といい
 盧溝橋のやり方といい、中央の命令に全く服しないで
 ただ出先の独断で朕の軍隊としてあるまじきような
 卑劣な方法を用いるようなことが、しばしばある。
 まことにけしからん話である。
 このたびそのようなことがあってはならん。
 今後は朕の命令なしには一兵たりも動かすことはならん」 
 (原田熊雄が内大臣秘書官長・松田康昌から7.21に聞いた話による)

   ↑
 ※今回は正しい判断をしているが、柳条湖事件の後で天皇は
  関東軍にお褒めの勅語を出していることを忘れてはならない


 7.21 現地第19師団長・尾髙中将は朝鮮軍司令官の武力行使中支命令を
    無視して147高地(将軍峰)を独断占領

 7.29 ソ連兵数名 沙草峰に現れる
 
 7.30 尾髙師団長、張鼓峰一帯の攻撃を命令

 7.31 AM2:00張鼓峰、沙草峰を占領

   ―多田参謀次長「ソ連軍の新たな越境に対する自衛の戦争であり
    ソ連車駆逐後、日本は国境線内にとどまっています」
天皇
「できたことは仕方がない。
 しかしよく国境内に留まった。絶対それ以上でないようにせよ」 

 8.2~10 ソ連軍の反撃で第19師団中国戦闘参加7000名中、20%以上死傷

 8.10 日本軍が1km後退(政府の訓令)して8.11停戦協定成立

           (井原頼有「皇室事典」他より)

■ 「天皇の御言葉」の意味
okotoba.jpg

・解説(クリックで拡大します)
kaisetu.jpg

ソ連が日本と本格的な戦争をすることがないということが張鼓峰事件により明らかになり、結果的にはそれを確かめることができ、やがて日中戦争が南方に戦線を広げてゆく、太平洋戦争になってゆく、そういう経緯をとってゆきます。
こういう中で解説の中に、ただそれだけを知るために、これだけの青年が殺され傷ついたということ。戦後になって、この時武力行使はいけない、天皇はそういったとされるが、停戦協定より五日目の8月15日に出されたのが、この言葉であった。
ですから、天皇の言葉には「武力行使はいけない」という言葉はどこにも出てきません。よく戦ったと、天皇が事実上日本とソ連の戦いに関して、決して否定はしてなかったという事実がお分かり頂けると思います。


◆1939年頃の日本の思惑、ドイツの思惑

■ドイツが日本に立場を明らかにせよと迫る

1939年の5月にノモンハン事件が起こる前ですね。
このドイツ人が書いた「天皇の陰謀」という本の中に、こんなことが書いてありました。
天皇の陰謀〈前篇〉 (1973年)

天皇の陰謀〈後篇〉 (1973年)天皇の陰謀〈後篇〉 (1973年)
(1973)
ディヴィッド・バーガミニ

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4月の24日、ドイツの外務大臣がベルリンに駐在している日本の大使、大島中将(この頃はベルリンに派遣されていた日本の大使は今のように文官ではなく軍人)に対してドイツの外務大臣が
「日本がどちら側に立つか、明白な決断を下さない場合、ドイツはソ連との関係改善を余儀なくされるであろう」
このどちら側に立つかというのはですね、後に向かう三国同盟ですね。これに日本がきちんと応答すればいいけれど、もしこれに応答しなければドイツはソ連との関係をよくしていくだろう、ということを伝えました。

■陸軍、海軍、外務省の考え

その中で陸軍は当然、日独伊の三国協定の調印を軍としては求めるわけです。
この陸軍がドイツ側に三国協定を結ぶにあたって出した条件は、いわゆる日独伊、三国いずれかが、ソ連、または西欧民主主義国家、イギリスやフランスその他の欧米の民主国家、その西欧民主国家と敵対関係に入ったらば、三国とも戦争に参加する。これが三国協定を結ぶ時にドイツから出された条件で、陸軍がそれでよろしいですと答えた。

ですからもしドイツがフランスと戦争すれば、日本もドイツに味方してヨーロッパに軍隊を送ることが、ここでは承認されていたのですね。
で、外務省は三国協定を結ぶことになって、いわゆる日本がヨーロッパ戦線にまで戦線を拡大してゆくことについては困ると、外務省も海軍省も同意しました。

■天皇の出した結論

こういう中で最終的に同じ4月24日の夕方に天皇はどいうい回答をしたかと言いますと、ヒトラーと全面的に軍事同盟をすることを同意しているのです。
ただし、条件をつけています。
どういう条件かというと、民主主義国家を相手とする同盟についての条項は秘密協定とする。
要するに西欧民主主義国家とドイツが戦争した時、この三国協定に寄れば日本も参戦するわけですが、これは公にしない秘密協定とする。
何故かというと、英米との戦いを天皇は怖れた。
日本の第二次大戦に参加することは、必ずしもドイツの開戦直後に追従するという形はとらないが、日本の軍備強化が達成され次第参戦する。
要するにドイツがですね、全面的な第二次世界大戦を始めた時に、日本の軍事力が十分でなければ同時には参戦しないと。
で、日本の軍事力が強化されたなら直ちにドイツと同じように戦争にさんかするという条件を出したのです。

■日本の出した条件をヒトラーは拒否

この条件に対して五相会議(首相、外務大臣、大蔵大臣、陸軍大臣、海軍大臣)の中で天皇が出した条件付の三国軍事同盟に対しては五相会議では承認をし、これをベルリンにすぐ電報で打電したのです。
この本によると、日本からの電文を見て天皇が出した条件(秘密協定とドイツが戦争を始めても日本の軍備が十分でなければ即座に参戦しない)について、ヒトラーはこれを拒否します。

■ドイツの試そうとした天皇

天皇は『ドイツが三国同盟を結んだ時に、日本の国力を担う大きな力になってくれるかどうか試してみよう』と考えついたと言われています。これは実は年代から言いますと先ほどの調停を結ぶのは1939年なんですが、その3年前に天皇が試みていた一つの事実があるんです。

これは1936年の昭和11年の11月ですが、日独防共協定というのが結ばれているんですね。三国同盟の前に日本とドイツがソ連を相手とした防共協定を11月25日に結んでいるのです。こういう時に、防共協定を結んだことによってドイツが日本とソ連との間で険悪な状況になった時は即座にドイツ軍が日本軍を応援してくれるのではないか、そういうことを実は試してみたいと思ったのが、防共協定を結んだ時に天皇の一つの試みだったと言われています。

1936年の防共協定の結んだ後に、天皇は当時の参謀総長にソ連の休日はメーデーで5月1日で、その前後に外蒙古(ソ連との国境線にある)に対する限定国境戦争の計画を発動するように命令を下している。
ベルリンの大島大使がドイツの外務大臣に対して、この紛争がソ連を中央アジアに釘付けにするドイツのための作戦であって、ドイツのポーランド領の半分確保に役立つ旨を伝えた。
ドイツがどの程度まで日本の言い分に従って行動するか試すようなことは、これから起こるノモンハン事件とも関わってきます。

ノモンハン事件が起これば、ソ連軍がアジアに多くの兵を置くから、ヨーロッパの方は手薄になる。その陰でドイツ軍がポーランドに侵入することが出来る。そうするとドイツにとっては日本軍のおかげで領土の拡大が出来る事になるから日本に対するその後の協力が当然起こって来るだろう。

■天皇より上手だったヒトラー

かつてヒトラーはソ連を許さないと日本と防共協定まで結んだはずなのに、1939年8月19日ヒトラーはスターリンと交渉をして相互不可侵条約を結ぶ。
のちに日本政府は不可解と驚く。
8月23日にこの不可侵条約を結んだ4日を自分の忠臣達に向かって『ソ連との不可侵条約は8月23日に調印した。調印したことによってヒトラーは重臣たちに対して、二本との防共協定は無視すると言明した。ヒトラーは天皇よりさらに上手の政治家だったということになります。

■満州での国境線の引き方

いろいろ調べてみましたら、国境線が決まってない部分があり、関東軍は日本軍が進軍したところが満州国の国教と決めるとしました。
当然ソ連軍の方でも、ここまでがわれわれの国境と言って、それが争いの原因になった。

■ヒトラーの天皇評

面白いのはヒトラーが8月23日に自分たちの側近に対して『日本の天皇はロシア皇帝と好一対である』『彼は無力で臆病で、決断力が鈍く、薄命で簡単に打倒されるだろう。我々が主人なのであり、彼らはせいぜい鞭を当てる必要のある上、漆塗りの類人猿と考えている』と言った。
戦後天皇が読んだ本(不明)の中に書いてあった。
ヒトラーは決して天皇を対等には思ってなくて利用しようとしていた。
昭和 | 14:00:22 | Comments(0)
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