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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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銃後の女性
11/25

 満州事変の前後で「銃後」の意味が変化しました。  
  11月25日の先生
 日清、日露戦争の時は戦場での銃後でしたが
 満州事変後は日本国内を銃後と呼ぶようになりました。
   006-1.jpg
 戦争が総力戦になりました。
 戦争 = 武力戦 + 経済戦 + 思想戦 + 外交戦


◆”白いかっぽう着”に身を包んだ女性の集団
  <国防婦人会>の誕生


①国防婦人会が生まれた経緯

 肉弾三勇士 爆弾三勇士 - Wikipedia 美化され戦意高揚で喧伝された
 (2.22上海廟行鎮の総攻撃で鉄条網を爆破し死亡した三人の工兵)

 安田せいが媒酌した井上陸軍中尉が満州出征の時、20歳の若妻千代子が
 出征前夜、後顧の憂いがないようにと自害
 安田せいはその葬儀を取り仕切り、出征兵士を見送る
 このことも美談として映画にもなり全国に知れ渡る
   ↓ 


 安田せい(44)が発起人となり
 1932(S7)3.18大阪で「国防婦人会」が発足
 
  これまで家に閉じこもり、家事・育児にあけくれていた女性たちが
  台所着である割烹着のまま街頭に進出し、出征兵士の見送りや
  慰問活動に活躍「兵隊さんのため」という大義名分のもとに
  家にだけ閉ざされていた子rまでの生活になかった解放感を
  味わうことが出来るようになった。

 安田せいが大阪から東京に行き、陸軍省に行き後押しされて
 1932.12.13 軍の指導で全国的組織「大日本国防婦人会」に発展

②1937(S12)7.7日華事変がおこると活動が質量とも飛躍的に発展

 市町村長や在郷軍人会による上からの組織化
 事変直前458万人 → 事変後685万人(半年で1.5倍に)
 「白い軍団」と呼ばれた
 
 8月に市川房江が郷里で目撃した村の小学校での国防婦人会の模様
「15、6歳の女子青年から60、70の婆さんまで、みんな外で数人ずつたむろしている。
「こんなこと、へその緒切って初めてだなも」「まるでみせものみたいだなも「エプロンにたすき、少しはきれいにみえるかなも」といったささやきがきこえる。みんな恥ずかしそうだが、うれしそうでもある。戸数わずか千戸の農村だが、おおよそ、7、800名集まり、講堂に入りきれない。まことに村始まって以来の光景である」
(市川房江自伝・戦前編)
   ↓
 野良仕事にあけくれする農村の女性の日常着はつぎのあたった古着で
 家事だけをしていればよい都会の奥さんの象徴の白い割烹着は
 彼女たちの憧れの象徴であり、村から村へと燎原の火のように拡がった

 女性が軍国主義の集団となって行った
  
③1938(S13)4 国家総動員法公布 国防婦人会の役割

 第一条 本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合モ含ム)
 ニ際シ国防目的達成ノ為、国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セキムル様、人的及
 物的資源ヲ統制運用スルヲ請フ
   ↓
 戦争に役立つ子どもを増産しなければいけない「産めよ増やせよ」

 総動員体制で「軍事援護」が女性の役割として位置づけられ
 「銃後の務め」「銃後の護り」は女性の役割とされた

 反戦、厭戦の発生地となりやすい傷病兵や戦死者の遺族を監視するために
 『宣言六か条』には「母や姉妹同様の心を以って世話すること」

④神戸国防婦人会 出征兵士の妻の素行問題を防止

 1938神戸国防婦人会では軍の要請により、軍人遺家族、特に出征兵士の妻の
 「保護善導」に関して各分会に指令を発した
   ↓
 皇軍兵士の妻が品行上の疑いを受ける事のないよう友好適切な措置を
 秘密裏に実施せよ
   ↓
 兵庫県下では『勇士妻の会』『銃後母の会』などを開催し「保護善導」したり
 出征兵士の妻一人ひとりに担当役員を決め緊密な関係を結び監視したが
 兵士の妻たちには秘密にしていたので反発はおきなかった

⑤底辺の女性たちも自らの意思で進んで入会

 大阪では今里新地、飛田遊郭などの芸妓、娼妓
 東京では佃島、洲崎などの娼妓たちが大挙して入会
   ↓
 1901年結成の愛国婦人会よりも1932年結成の国防婦人会が大きくなった

 満州や中国占領地域では陸軍お抱えの慰安所が誕生した1938年春
 ほぼ同じ頃に各地に国防婦人会がたんじょうした
 慰安所で働き、昼間は洗濯や傷の手当てをする女性もいた

 ※革新的だけれど反革命的
 娼婦でも参加出来たので革新的と言われたが
 労働組合に入っていた女性たちが労働運動から切り離されていった


◆銃後の女性たちは”経済戦の戦士”

①戦争で消費される「物的資源」の補給


 家庭を守りつつ、子どもを産み、工場でも働くことが求められた

②女性の労働の国家管理

 医療関係の専門職の女性たち(医者、歯科医、薬剤師、看護婦)には
 1939年職業能力申告令が発令され、国家の管理下に置かれた

 その他の女性たちには自発的就労をはかる一方でカフェやバーなど
 不要不急の職場への雇い入れを制限し重要産業への移動をはかった
 
③1941年(S16)になると戦線拡大の結果、労働力不足が深刻化

 ・人口政策確立要項には人的資源増強のために女性は21歳で結婚すべし

 ・11月国民勤労報国令を出して、14~25歳までの未婚の女性たちに対し
  一年間に30日間の勤労奉仕を課した

   ↓上記の矛盾の解決のために人口政策確立要項の但し書き
女子の被傭者としての就業については、二十歳を超ゆるものの就業を成る可く抑制する方針をとると共に、婚期を阻害するが如き雇傭及び就業条件を緩和又は改善せしむる如く措置する


 ますます労働力不足で、女権拡張のために闘ってきた婦人運動家たちは
 「女子徴用」女性たちの強制動員を政府に要求

 1943年7月大日本婦人会理事・高山しげり(戦後、地婦連会長)は
 「政府は躊躇することなく未婚女子徴用を断行されたし」と要望
 ↓山高の意図
1.
勤労報国隊という形で自発性にもどづいた女子動員がおこなわれているが、実質は強制動員であるのに自発性のタテマエをとっているので、雇傭者側が臨時労働者として使い捨ての傾向がある。きちんと国家が動員して保護対策も国家の強制力を発動してほしい。
2.
現在の勤労報国隊の主力は低学歴層であり、女性が労働現場に進出しても女の地位向上につながらないので、女学校・専門学校卒の高学歴層を動員するために女子徴用を断行するべき。

 ↓武井厚生次官の返事
将来ははたるべき女性、家庭をすでにもつ夫人の心身両面を考慮した勤務管理(母性保護のための体制を整えてから)女性保護のための体制を整えてから女子徴用にふみきりたい


 ※男性の職場に女性が入ったことによって雇用主はトイレや休憩室を
  作らなければならなかった

 ■ 政府が子どもを増やすためにしたこと

 1941年(S16)1月に第二次近衛内閣の臨時閣議を開いて
 「今後10年間に国民の健康年齢を三年早める事」→女性の結婚適齢期は21歳
 それ以上は晩婚 各家庭で5人以上の子どもを育てなければならない
 30歳で未婚だと独身税、子どもがいない夫婦は無子税を徴収し
 子どもの多い家庭に配布された
 結婚する者には千円の助成金を貸し出し、子どもが5人生まれれば返済なし

 1942年(S17)5月文部省が戦時家庭教育指導要綱を定める
・家庭はかしこくも皇室を宗家と仰ぎ奉り、常に国の家として生成発展してゆくことである
・忠孝一本
・母親の役割として次の世代の皇国民の育成
・女性のモラルとして従順であること、温和であること、貞淑であること、忍耐強いこと、全てをお国に捧げる報国こと

 1942年11月に初めて妊産婦手帳が支給された
    12月妊婦の健康診断(半数は栄養障害があった)

 1943年政府が出したスローガン「戦いは人口戦だ」→まず結婚

④1943年(S18)11月東条首相がラジオで呼びかけた婦人への要求
「此の国家危急の秋に際しまして、先ず第一に、私は皆さま方日本婦人は、家庭を通じて国家に奉仕していただきた、別の言葉で申しますならば、日本の家族制度の美風をいよいよ昂揚して戦争完遂に貢献して戴きたいと思うのであります」。日本の家族制度の美風とは、「常に家庭に止まり、妻として内助の功を積み、母として一切を我が子の養育に捧ぐる淑やかにして而も忍耐強き」女たちによって支えられるものである。したがって勤労動員に際しても注意すべきは、「日本の女子動員は米英流の女子動員と其の本質に於て、全く異なって居る点であります。我国に於きましては、我国伝統の家族制度の美風益々昂揚しつつ、而も、女子動員の要求を充足せんとして居るのであります」。

この発言に市川房江ら婦人運動家は一斉に反発。
家族制度が婦人の労働賃金に及ぼす影響、
婦人の地位に及ぼすマイナスの作用について検討した結果
「女子徴用は家族制度と何ら抵触するものにあらず、否、むしろ家族制度を護持するためにこそ、女性はハンマーを振るい、銃を取って立ち上がらねばならない」という結論に達した。
(市川房江自伝・戦前編)

⑤1944年(S19)8月 女子挺身勤労令が発令される

 「母性保護」「家族制度の美風」よりも「一期でも多く飛行機を!」
 12歳から40歳までの余生に一年の就労が義務づけられた
 ※「家庭の根軸たるものを除く」という例外規定あり
   ↓
 婦人運動家たちは「女子徴用」として歓迎

 ・昭和の生産現場の女子労働者の推移
 1930年(S5)150万人 → 1945年(S20)500~600万人

⑥職場の量だけでなく質も変化した

 ・機械器具工場などの重工業で働く女性の数
  1936年(S11)~1941年(S16)の5年で5倍に増えた
 
 ・厚生省は雇用主に対して女性の仕事は単純作業にするよう
  通達を出したが、現場はそんな余力はなかった

 ・1944年頃から金融機関、マスコミ、通信、交通関係にも多く進出

 ・1944年7月には山手線、総武線に一挙に89人の女車掌が登場

⑦女性解放運動の闘士たちの願ったもの

 女性の社会参加、社会的地位向上を願って「女子徴用」を要求
 
 戦時下に得た経済的自立と職業体験を基礎に敗戦後に
 自立的な出発をした女性も数多い

⑧日華事変当時、女学校2年生だった女性の発言
<銃後の女>の多くにとって、戦争の生々しい実態がみえなかったということ、それはあの戦争が、他国を戦場とする侵略戦争であったからだ。
娘たちの眼に、男たちが急に美しく見えはじめたところ、他ならぬその男たちによって、中国の女たちは、強姦・輪姦されたうえに、乳房を切り取られ腹を切り裂かれ…まさに血の海にのたうっていた。
その中国の同性たちの苦悶を、ほんのわずかでも感じとることができれば、女たちは、あれほど熱心に<銃後の務め>ぶ励みはしなかったろうと思う。


◆国防婦人会=”白の軍団”がもたらしたもの

①当時の女性たちの、民衆の悲劇


 1941年開戦当時に国防婦人会は1000万の女性たちを擁する大集団

 そのエネルギーは侵略路線の天皇制国家の体制変革に向かうのではなく
 それを下支えし、侵略を促進するものであった

 労働運動や小作争議は踏みにじられ、戦争反対勢力は影をひそめた

 当時の閉塞状況の中で展望を失っていた女性たちにとって
 国防婦人会の活動は「解放」と「自己実現」の機会を与える組織で
 その活動は「革新的」行動と映った

②急成長した組織を支えたものは何だったのか

 設立段階では大阪港区を中心に4、50名の主婦の団体
   ↓
 一年後には10余万人、二年後には600万人と急成長

・金融恐慌、世界恐慌で繊維関係の零細企業の多かった関西経済界は
 沈み込んでいたが、満州事変をきっかけに大陸侵略を開始し
 「満州国」をでっち上げ起死回生の道と見えた

・軍が強権で日貨排斥」に象徴される中国人の高地に運動を押さえ
 大陸の道を拓いてくれたことは大歓迎であった

・個々の経営者にとっても軍との癒着は当面不況脱出策として有効

・妻の国防婦人会活動を通じて軍との繋がりを深める事ができれば
 と経済の合理性から活動を支援した男性たちも多かった
 
・会の維持発展の資金は大阪の中小鉄工業者たちが
 「めかけを一人囲ったつもりで」毎月拠出したという

・大阪の盛り場にいくつも映画館を経営する興行主は、
 国防婦人会の宣伝活動のために新しい映画フィルムを次々貸し出し
 ある土建業者はトラック一台を提供するなど活動をはげましている

国防婦人会の活動の原動力は男性の悪知恵だった

        <参照文献>加納実紀代「女たちの銃後」筑摩書房 他
 

昭和 | 06:01:27 | Comments(0)
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