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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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田中義一の大陸政策 張作霖爆殺
昭和金融恐慌のあと、政友会総裁になった元軍人の田中義一の内閣が1927年4月誕生。
大陸に活路を求め、今までの協調外交の路線を変更。
中国で国民軍の北伐が始まり、満州の権益が侵されることに危機感を抱き同年山東出兵が開始。

田中義一の思想
尊王思想の発生地である山口出身。
大和民族の真意骨髄は万世一系の天皇、その心と言葉に無条件に従い、絶対の敬意をはらう。天皇の統治する日本帝国は全世界の祖国であり、神道は全ての宗教の根源。

★外務政務次官の森恪(かくor つとむ)=“田中の両腕”と言われた男
17歳で東京商工学校卒業後、三井物産の支邦就業生として上海に派遣され、才能を発揮。
上海、長砂、漢口、天津、北京など支店に勤務。
いくつかの会社を興した後1914(T3)三井物産退社。
1920(T9)神奈川から衆院議員に当選し政友会入り。
東亜新体制の先駆者。44歳で外交政務次官。

森の対支観=「満州問題、日本こそ満州に発言権がある」
支邦大陸からソ連をシャットアウトして日本が武力を用いても統一掌握する。


当時中国は国民党と共産党の内戦状態で軍閥も各地にいて情勢は不安定。

★1927.6.27~7.7 東方会議
閣僚、外務省首脳陣、軍部首脳陣などで対中国の対応を話し合う。
満蒙を中国より分離させ日本の権益を守ることを確認。

政友会の外交政策は強硬外交であったが、田中自身は外務大臣兼務して外交での解決を望んでいた。しかしバックの軍部は武力による支配を望む。

 ・田中義一 張作霖を昔助けた。利用しようと考えた。
 ・吉田茂  張作霖は不要
 ・軍部     同上


★1928(S3).5.3済南事件
日本人が殺され日本軍は在留邦人の保護と資産の保全を目的に5000名の軍隊を出動させ、蒋介石の国民党軍と衝突。

★1928(S3).6.4張作霖爆殺事件=満州某重大事件
関東軍司令部が国民党の犯行を装って張作霖を暗殺し、それをきっかけに満州全土を占領しようとした事件。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここから山県放送の20年前のテレビ番組のビデオを見ました。
内容は佐久間徳一郎という中国戦線にいた元軍人が
戦後預かって極秘に日本に持ち帰った小さな荷物を開けたところ
30枚の写真が出てきて、それが詳細な張作霖爆破事件の
事前の下調べの時からの写真だったのです。
専門家によると現在の35ミリフィルムより大判のもので
オリジナルのものであろうということでした。
裏に神田というサインがあり遺族を訪ねて調べたところ筆跡が
奉天の実行部隊の神田泰之助に間違いないということでした。
事件後は真相が知らされていませんでしたが
明らかに関東軍が図った事件であるという証拠でした。

写真のテレビ画面
張作霖爆殺1

張作霖爆殺2


☆余談
この写真を部下の佐久間さんに渡したのが特務機関の河野又四郎という人物で
写真の中に彼の肖像もありました。
知的で端整でなかなかいい男です。
河野又四郎

しかし未亡人にこの写真を見せると首をかしげて見入り
「修正されてますね・・・」
その後テレビに本来の彼の写真が出たのですが
私は心の中で大爆笑!貧相で全然、全く、赤の他人くらい違っていました。
あの緊迫した時代に後世に自分の勇姿を残したいと修正させた
特務機関員のことを思うとその人間臭さに急に親しみを覚えたのでした。
本当の彼の姿の写真が撮れなくて、ものすごく残念。


昭和 | 01:13:33 | Comments(1)
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2007-10-28 日 12:12:41 | | [編集]
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