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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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昭和恐慌 その2
農業恐慌 ~農村の崩壊~

★日本の産業の主体は農業だったので農業恐慌=農業恐慌

1930年 農林漁業労働者総数 約1030万人(全有業者の34.1%)
      俸給生活者       約160万人 ( 〃      5.4%)

※明治以降の資料を見ると、作られた数字が多いので注意が必要

★生糸価格の暴落

   30年前比 生糸一俵 40%安(1315円→797円)
   春繭 50%安  夏・秋繭70%安

★米価…豊作貧乏(10%の豊作)

   米価一石の値段   7月 30円30銭 → 10月 14円
      〃  の生産費  (27~28円)

  財閥系商社は内地米より10~20%安い朝鮮米や台湾米を
  無制限に移入して利益を得た(ひともうけ)

  政府は低賃金保障(産業の合理化政策)のため低米価を放置
  (より安い米で失業者は食いつなげられるので)
  
★都市失業者に帰農促進

  電車賃がないので線路づいたいに歩いて帰った
  民家のゴミ箱をあさり、寺社の軒先で雨露をしのぎ
  帰っても当時は子沢山で歓迎されなかった

  棄民として多くの人が国に見捨てられた

★各地の惨状

  ・新潟   1反10俵=50円 5反百姓 205円 実収入125円
         当時の都会のOLの年収と同じ

  ・茨城   1戸あたり米生産量平均 24俵
         12俵6000円が10人家族の年間生活費

  ・長野   農家一戸あたり負債平均837円

  ・福島   小名浜の代用教員、給料もらえず妻子抱えて困窮
         東京の妹に会いに行くが妹は行方不明
         死のうとするが果たさず、前歯の金歯3本を売って
         飢えをしのいでいる

         ある小作農が正月に隣村の親戚で米5升(7.5k)借り
         3日前から何も食べてない隣家の7人家族の母親に
         米5合貸した。5合で作った粥を「貸したらこちらがへたばる」
         と鍋ごと持ち帰ると粥を作った母親は気が狂い
         4人の子供を井戸に投げ込み自殺した

  ・青森   南部馬の価格が下がり売れたとしても1頭あたり100円損失

       ※ 1930年(S5)豊作貧乏 
       ※ 1931年(S6)凶作飢饉
       ※ 1934年(S9)東北大冷害 
            ↓
       娘の身売り広がる
       52,444人(女中19,244人 女給3,211人 芸妓2,196人)

★売られた娘たち

  ・青森 朝日新聞34年12月1日の記事
       “十四娘を売った金四十円 家と化す 冬篭りの窮農を訪う”

       ▽450円で娘は売れたが

       ▲300円は娼妓屋へ5年契約で払う
        ・100円は一本立ちの際の費用、
           ・50円は着物代、
           ・22円50銭は周旋料
           ・127円50銭は周旋屋と父と娘の旅費食費
       ▲借金返済70円
       ▲家の購入50円
       ▲その他40円     
           
              ↓
         全く何も残らなかった

  ・山形
      最上郡西小国村 15~24歳の娘467人中、身売り110名
                 うち女中酌婦150名(売春に55.7%)

      A子の売られた代金 5年契約で1200円 
         〃    稼ぎ高 4年間で1万円以上 → ほとんど取られた

      たとえ救済されてももう百姓も出来ないしごく潰しで迷惑

★埼玉県、浦和・大宮・羽生・北足立郡の農村地帯

  ・1929年(S4)7.10 北足立郡35町村の農民救済陳情団上京

    この農民のほとんどは小作農ではなく自作農の上層や小地主
    (そんな恵まれたはずの階層までも苦しかった)

  ・1932年(S7) 恐慌おさまりつつあった農家の実態

    農家一戸あたりの負債額 605円 
    負債農家数124,392戸(全農家の75%) 

    北安達郡井泉村(羽生市)の負債返済方アンケート(75戸中71戸)
      家計きりつめ(11) 経営改善(10) 農産物価格騰貴をまつ(9)  
      土地売却(6) 養蚕収入で(5) 見込みなし(4) 家族総出で(4)
      余剰収入(4) 毎年返済(3) 米、麦の売り上げ代(2)
      生命保険満期で(1) 子供の成長後(1) 子供を売る(1)
      子供を他人に委託(1) 窮乏に耐える(1) 山林の売却(1)
      豊作のとき(1) その他(6)
                       『協調会「井泉村勢概要」1933』

★議会対応 1932年(S7)8 第63回帝国議会

    危局匡救費(土木事業の拡大)軍部の強い要求で実現
    (消耗品である軍人の供給地の農村を救うため)

    総額8億円で農村所得の20%引き上げ効果はあったが34年打ち切り

    林陸相「農村問題のために軍事費を投げ出して銃後の力を養うことは
      目下の事情では許されざるところだ」(満州事変で軍事費増大)

農業恐慌下の秋田の青年三教師の取り組み
1928年(S3)4.1秋田県南の銘酒醸造で知られている湯沢町の女子小学校に二人の教師 加藤忠右衛門と、佐藤維四郎が赴任してきた。
真面目で信頼できる二人を見込んで秋田師範の先輩の庫山寛一が三人で「新興教育」の読者グループを作って社会科学の学びを深めた。

「新興教育」とは日本のプロレタリア教育研究のために1930.8に新興教育研究所(新教)が創立され、その機関紙として9月に創刊された。
当時「新興教育」の読者であることがばれたら校長や警察に赤い教師のレッテルを貼られた。

当時の秋田の様子

加藤と佐藤は、子どもたちに現実の生活をはっきり見る目を持つように指導していった。そんな中から生まれた児童詩。

「工夫(こうふ)」 六年竹組 藤原 よね
 
 まっくろい顔
 ひげだらけな顔
 工夫たちは汗だらけになって
 働いている。
 じりじりとてる午後の陽を浴びて
 苦しげに働いている。
 父は工夫であった。
 父は死んだ。
 父もやっぱりこうして働いたのだ。
 

恐慌のせいで欠食児童や身売り、出稼ぎの子が増えた。
佐藤の受け持ちの子どもの中のO子が身売りされたと聞いて、何もしてやれない無力さにつらく情けなく感じた。

1930年秋の庫山の公開授業は衝撃的であった

公開授業で取り扱われた児童文は、農村の一人の日雇い農業労働者が、多くの家族をかかえて、生活苦のために、首をくくって死んだことが書かれていた。
庫山は綴り方が文芸主義的な『赤い鳥』の児童文のような傾向を追ったり、童心主義に傾斜するのに対して批判的。
子どもたちをとりまく農村の現実、農民生活の実態に教師が目を向けないで避けて通ることは真実の教育を求める教師として出来ないと考えたが、決して「こうした社会が悪いし、政治が悪い」というイデオロギー教育はしなかった。
子どもに事実を見つめさせ、子どもらしい考えを言わせるにとどめて安直に教師の思想をのべて強制するようなことはしなかった。


「新興教育」の主張

「教育勅語」を金科玉条とする絶対主義の皇国教育は国民を生かす教育ではない。社会が階級社会である限り、教育は支配階級に奉仕する教育となる。
「新興教育」が創刊されるとまじめに教育を考えて悩んでいた教師たちがとびつくようにして買い、むさぼり読んだ。

教員組合が出来て

3号(11月号)に「教師は労働者であるから教育労働組合を組織して人権を守らなければならない」という論文をのせて治安維持法にふれて発売禁止になった。
実際に11月に日本教育労働者組合がこっそり結成されて秋田県でも1931年1月18日に結成された。

しかし当局に知れて二月上旬に秋田支部第一次組合員らの工藤ら五人は検挙され首になり農民組合運動に参加した。
工藤らは公判で教員の人権を求めて陳述し全員起訴猶予となった。

庫山らは「教労」の組織に参加し秋田支部を再建したが、教師の権利よりもまず子どもたちの生存を優先した。

加藤、佐藤と庫山の教育実践

郷土の調査をすることにより社会のしくみや労働というものの意味を子どもなりに考えさせた。
働くものが機械や現場の主人公であるためには、科学、技術の習得の必要性とそのための基礎教育のひとつとしての職場実習が必要。

学芸会では貧しい家の子たちにもみんな出すべきと主張し、見る人によっては「反戦」の劇を上演した。


欠食貧困児童への取り組み

佐藤は戦後にこう述懐した「当時の教育が、万国にすぐれている国体を守ることの強制であり、それが教え子たちのみじめな貧しさとともにあった、という事実である」と。

当時は学校給食がなかった。加藤、佐藤、庫山らは欠食児童の昼食支給の要求を学校内の問題として出した。
それによって農民組合の農民たちが教員の運動と手を結び、子どもの教育を民主的なものに変えてゆく重要さを知った。

三人は給食を受ける生徒が卑屈にならないよう配慮しつつ給食を実践した。

欠食児童や教員の給与不払いの問題の根本には「満州事変」なる中国侵略戦争の本質、帝国主義の問題があると認識していた。
加藤はその実態調査を全国組織的におこなうこと、実情を正確につかみとることを提案した。
その数をつかむとともに、その家庭の状態を家庭訪問して調査しようとした。
そして貧困児童・欠食児童に対してどう対策をたてているのかと問いかけた。
佐藤が加藤のことを「子どもたちへの愛情から社会を変えなければいけない。そのために自分がやらなければならぬことだ」と決めたのだと思うと語っている。

治安維持法による弾圧

1932(S7)11月10日 秋田県南の全国農民組合の組織に一斉検挙。
      12月10日 「新教」秋田支部の組織に検挙の手が伸びた
             検挙総数は99名 起訴は23名
             庫山、加藤、佐藤の三名は懲戒免職、
             そのほかは諭旨退職

 庫山らは「新教」関係は肯定し、
 非合法で罪の重い「教労」については絶対に秘密にした

 処分未決定のまま4ヶ月間も拘留されたが
 1933年「起訴留保と決定釈放される
 (今後非合法活動しない旨の誓約書かかされる)

「赤化教員事件」とはなにか

きちんとした教育をやっている教師が共産主義とレッテルを貼られて弾圧された

支配権力は、外への侵略と同時に、国内の抵抗運動を激しく取り締まり弾圧した
全国各地におこった「赤化教員事件」は支配権力の「日本の危機感」の表れの一つであった
彼らは真実をこどもんみ教えられるのを恐れた



昭和 | 22:26:47 | Trackback(0) | Comments(2)
コメント
政府が取り組んだ「努力」の報は書かないのですか?
2011-12-11 日 10:45:40 | URL | よこはま [編集]
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このコメントは管理者の承認待ちです
2011-12-11 日 15:18:44 | | [編集]
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