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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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時代を訪ねる旅~五日市憲法と秋川渓谷~
すっかりご報告が遅れましたが、12月5日に五日市憲法発祥の地を訪ねる校外学習に行ってきました。
郷土館で学んだあと、美味しい五日市ほうとうを食べて渓谷を眺めながら林の中をてくてく歩いて蒟蒻屋さんの外のベンチで一休みしたあと瀬音の湯で足湯をして家路につきました。

明治14年(1881)に人権と自由を謳った憲法草案が五日市町(現あきる野市五日市)に誕生しました。
なぜ郊外のあきる野市に?どんな人が作ったのか?内容は?
当日のお話はとても面白く、当時の人々の暮らしぶりや、生き生きとした学習結社の活動などが時を越えて身近に感じられました。
メモを取っていなくて先生が以前に蕨の講座で作られた資料を参考にまとめました。


武蔵五日市駅
武蔵五日市駅

郷土館
郷土館

市民解説員さんにお世話になりました。
市民解説員

■五日市(現あきる野市)について

・五日に立つ定期市によって命名された
 (戦国末期の1574年の文書に「五日市」の名称あり)

・中世では鍛治用であった木炭が江戸期では上層階層の
 燃料・暖房用として使われ始め、秋川谷など食料生産不適地では
 売れ出した木炭の生産に専念

・五日市は炭と穀の交換市となり繁栄
 百姓たちの中から商人が生まれ
 その中から物品税委任により専売権を持つ炭問屋

・杉、桧の植林が盛んになり木材を筏に組んで秋川から多摩川経由で
 江戸に運んだ
 筏」
 (秋川木材協同組合のホームページより)

・林業で多摩の農民の雇用提供され、有力な元締(材木商)生まれた

・江戸後期に黒八丈という絹織物の主産地となる

・江戸末期の1858年に締結された日米通商条約締結により
 黒八丈の原料である生糸が増産され、以後養蚕が最大の産業に

○炭・木材・黒八丈が秋川谷の主要産物として取引の主役となり
 秋川谷がその地方の中心の地位を確立

○富農=在方商人=村役人 という三位一体の家々が
 実質的に自治体としての村々を支配してきた

○秋川谷は多摩川によって川崎と結ばれ横浜に近いことから
 早くから欧米文化と触れ、情報も早かった

○身分は武士だが通常は高持ちの百姓という八王子千人同心
 幕末の五日市地方に33名いた。
 農民とは違う彼らの視野と意識は時代に敏感に反応したと思われ
 直接の関係はなくとも自由民権運動に影響したのではと思われる


<参照・引用文献>
五日市町率五日市町郷土館『五日市憲法草案の碑』碑誌


■秋川谷の『自由民権運動』の始まり

★時代背景 
全国で農民一揆と士族の反乱が起きていた
(クリックすると大きくなります)
ikki.jpg

1月に東日本を代表する民権運動の結社、嚶鳴社が八王子支社設置

嚶鳴社(おうめいしゃ)とは、明治時代前期の政治結社。

元老院大書記官の沼間守一が1878年(明治11年)に設立。自由民権・国会開設を主張。東京に本社を設立、関東や東北など全国各地に支社を置き、盛期には社員1000人以上の規模となった。(Wikipediaより)

国民の手で憲法を
1880(M13)11.10国会期成同盟 第二回大会を東京で開催
大日本国会期成有志公会と改称
次回1881.10.1開催とし憲法見込み案持参のことなど決議


★1880(M13)4月 五日市学芸講談会結成

五日市の自由民権運動の中心的組織で、様々な学芸上の問題を討論した。
政治的な問題は討論しないとした。
あきる野市デジタルアーカイブ「五日市学芸講談会の活動」

 講談会規約
 本会ハ万般ノ学芸上ニ就テ講談講義或ハ討論シ
 以テ各自ノ智識ヲ交換シ気力ヲ興奮セン事ヲ要ス

 会員39名(1979年12月時点)
 大地主3~4名 残りは中農と小作人

 年齢構成(27名)
 10代(6名、22.2%) 20代(13名、48.1%) 30代(3名、11.1%)
 40代(4名、14.9%) 50代(1名、3.7%)


・教員グループの参加者
 勧農学校の永沼織之丞以下の訓導や助教たち、旧仙台藩下級藩士が主で、
 五日市憲法の起草者、千葉卓三郎もその一人

・「各人一回は発言しなくてはならず、発議者は15分
  その他は10分、論旨は二度と変更できない」というルール

・学芸討論会は市の日に開催され、若者だけでなく老人年配者も
 富者のみならず貧者も参加しみな「気力ヲ興奮」させた

・討論題集
 ①憲法は国民が決めるか、国王が決めるか
 ②議会は二院制か、一院制か
 ③死刑は廃止すべきか、否か
 ④人民に武器を与えてよいか
 ⑤皇居は東京におくべきか、田舎におくべきか
 ⑥衆議院議員に給料を払うべきか、払うと悪いことをするか
 ⑦外国人政治犯の亡命を受け入れるべきか、どうか
 ⑧女性に選挙権を認めるべきか、否か

(クリックすると大きくなります)
gidai.jpg


■千葉卓三郎と深沢権八

★千葉卓三郎
千葉卓三郎
  
嘉永5年(1852年)栗原郡白幡村に出生。
父は仙台藩下級武士。
明治元年(1868年)16歳で戊辰戦争白河口の戦いで敗戦。
その後、医学・数学・ロシア語・国学・一向宗・
儒学・正教・カトリック・プロテスタントを学び
明治13年(1880年)五日市勧能小学校に勤務。
翌年(1881年)五日市憲法を深沢権八らと起草。
明治15年(1882年)結核が悪化し療養生活に入る。
明治16年(1883年)東京本郷の竜岡病院にて死去。
享年31。

★深沢権八
深沢権八

1861(文久1)深沢名生(なおまる)の長子として生まれ勧能学舎
(1875年に学校と改称)第一期生。
権八は13才で深沢村(戸数20戸ほど)の代議員となり
15才で村用掛(村長に相当)に任ぜられた。
五日市村の北の渓谷を4キロ近く入り込む山村のインテリ親子。
当時の東京の新刊書の7~8割の蔵書を持っていた。
明治23年(1890年)29才の若さで死去。


深沢親子にとって千葉は知的飢餓を満たす貴重な存在として
援助を惜しまなかった。
放浪型インテリの明治維新の敗北者たちと、在地の名望家層とが
生活共同体の中で学芸講談会や討論会の対等のメンバーとして
互いに切磋琢磨し創造的エネルギーを生み出した。
しかし時代が、その実りを許さなかった。



■五日市憲法草案

Wikipedia 五日市憲法草案
(下敷きは嚶鳴社の草案 1880.12.13入手)

・204条の草案は毎月2,3回開催される学芸講談会で具体的テーマを
 60余あげて討議を重ねて、その間多くの書籍を読みあって
 作り上げられた

・基本的人権に重きをおいた

・学芸懇談会のメンバーは五日市以外にも周辺の村々から
 あるいは青梅や八王子、横浜などからも
 宮城県から5名、秋田、福岡出身者も含まれている

・草案起草は千葉卓三郎となっているが、起草の背景には
 『五日市法学セミナー』と言えるような集団討議があったようで
 1880~86年に他にも7グループの学習結社、民権政社が結成された

・五日市憲法草案が参考にした憲法
 日本が弱小国だったことから、大国のではなくヨーロッパの
 先進小国のポルトガル・オランダ・ベルギー・スイス・
 オーストリー・スペイン等の憲法を参考にしたと言われている

・この草案を千葉が書き終えた時期は1881年5~6月と思われる
 同年教員が政治を議論すること不可という法律が施行されて
 千葉は憤慨し退職して6月に五日市を離れ北多摩郡へ転居

・重要な条文
五日市憲法


■忘れ去られていた草案を色川教授らが発見


昭和43年東京経済大学教授色川大吉教授らにより、
五日市深沢家 旧宅の土蔵より発見
タイトルは「日本帝国憲法」だったが
発見者らによって五日市の若者らへの思いをこめて
「五日市憲法草案」と名付けられた

「当時の草案は全国で約80件確認されているが、
 五日市町のように草案完成までの資料が残っているものは
 極めて少ない」
(草案発見した調査時のゼミ生の一人新井勝紘専修大教授)


・・・・☆以下資料☆・・・・
 
東京新聞 2007年5月5日
【憲法を歩く 施行60年】
第1部 焦土から生まれた希望 <下>五日市憲法 民権の精神脈々と
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/kenpou/news/070505.html


あきる野市デジタルアーカイブ
http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/
 
上記の中の五日市憲法草案のページ
http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/gallery/index.php?mode=image&id_1=1&id_2=1




明治 | 00:58:38 | Comments(0)
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