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生活クラブ浦和の「近現代史連続講座」 善方一夫先生の講座のレポートです。

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22期の様子
月に一回の講座がコムナーレで始まりました。
004_20131027083240410.jpg

10月27日(日)10時
11月24日(日)10時

昭和 | 08:34:31 | Comments(0)
22期のお知らせ
今期より場所をパルコの上のコムナーレ9階北ラウンジで
月末の日曜日10時より開催します。

参加費は1回300円。
資料はお休みした日の分は1枚10円でお分けしています。

9月29日(日)
10月27日(日)
11月24日(日)




お知らせ | 01:55:04 | Comments(0)
21期の予定
くらぶルーム暖での講座は21期で終了します。
4月はお休みで、5~7月の第ニ、第四日曜日です。

 5月12日 
 5月26日 
 6月9日 
 6月23日 
 7月14日 
 7月21日 
 7月28日 
  ~女性と戦争~

 戦時体制移行期における母親像の変容
 戦時期の母性論


■今後取り上げたいテーマ
 国家売春命令
 赤線の灯は消えた

■お問い合わせ
 サイドにあるメールフォームからお願いします

講座の予定 | 16:34:35 | Comments(0)
国家主義と女性
1/13

 私たちは国民である前に、「市民である」という意識を持たなければいけ
 ないんですけども、軍国主義は「国家の成員は市民でなく国民である」
 ということが基本にあるんですね。 

  1月13日



1.ファシズムのイデオローグ カール・シュミット

※イデオローグとはイデオロギーの担い手。提唱者・理論家

カール・シュミット - Wikipedia

1934(S9)ヒトラー政権掌握の年頃から活躍。カールの思想↓

■軍国主義とは
①一般市民の抹消に他ならない
 国家の成員は「市民」でなく「国民」
 兵士への内的変成(国家のために命を捧げる)
②軍隊とは国家に内在するものでなく、
 国家そのものである
③軍隊内部の秩序(上官の命令に絶対服従)は生産現場から
 教会、大学、家庭に至るまで社会生活の全ての場に浸透させる

■市民とは
①国家に敵対的で秩序を脅かし、壊乱をもくろむ勢力
②活動を続ける国家機構といかなるときにも
 出撃可能な軍隊が必須とする要件と
 相いれないもろもろの思想
(自由主義、ヒューマニズム、民主主義、
 議会主義的立憲思想、 人権や個人の尊厳に関する理念、
 市民の国政への参加を求める思想)を是とする存在


2.ヒトラーの男女二つの世界

■ヒトラー著「国家社会主義的婦人の書」=女性参政権反対

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昭和 | 03:55:03 | Comments(0)
銃後の女性
11/25

 満州事変の前後で「銃後」の意味が変化しました。  
  11月25日の先生
 日清、日露戦争の時は戦場での銃後でしたが
 満州事変後は日本国内を銃後と呼ぶようになりました。
   006-1.jpg
 戦争が総力戦になりました。
 戦争 = 武力戦 + 経済戦 + 思想戦 + 外交戦


◆”白いかっぽう着”に身を包んだ女性の集団
  <国防婦人会>の誕生


①国防婦人会が生まれた経緯

 肉弾三勇士 爆弾三勇士 - Wikipedia 美化され戦意高揚で喧伝された
 (2.22上海廟行鎮の総攻撃で鉄条網を爆破し死亡した三人の工兵)

 安田せいが媒酌した井上陸軍中尉が満州出征の時、20歳の若妻千代子が
 出征前夜、後顧の憂いがないようにと自害
 安田せいはその葬儀を取り仕切り、出征兵士を見送る
 このことも美談として映画にもなり全国に知れ渡る
   ↓ 

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昭和 | 06:01:27 | Comments(0)
-ちょっと休憩-
---メモ--- 
   10/14 11/4 日独伊三国同盟 (レポ―トは後日)
   10/27は鎌倉校外学習でしたが雨天中止
  10月14日の休憩


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未分類 | 22:57:30 | Comments(0)
ノモンハン事件の頃の、戦争と天皇に向けられた庶民感情
10/14
  
   10月14日の善方先生
実はあのー、今日お配りした資料は前の紙よりも若干B4でも大きい紙なんですけど、私が高校で初めて担任して卒業させた子が今年65歳なんですけども、その人が講座で使ってほしいと持って来た紙なんです。
今まで使ってた紙よりいい紙なんです。たくさんいただきましたので、しばらく無料のこの紙を使います。


◆銃後の生活の訴え

■反戦、厭戦の声

※クリックで拡大され別ウインドウで見られます
   ↓
○S13年9月9日 新潟県下新発田町 古物商=37
 同町の飲食店で発言 陸刑法で送局
1_20130210000509.jpg


○S13年11月17日 東京渋谷南平台の住民宛ハガキ投書
○S13年12月8日 大阪市東区東雲町住民宛、反戦投書
2-3_20130210000508.jpg

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昭和 | 00:49:16 | Comments(0)
ノモンハン事件
9/2 9/23

  ノモンハン事件当時、日本の国は日露戦争に勝利したことが原因で
  「大和魂」という言葉が一番戦場で幅を利かせていました。
  要するに精神力で戦争が勝てるという発想でした。
   2012年9月23日


◆ノモンハン事件

◇ノモンハン事件 - Wikipedia - http://bit.ly/PzSGUz

小学館 昭和の歴史より
ノモンハン

・内蒙古(日本軍の指導下)
・外蒙古(ソ連軍の保護国)

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昭和 | 23:23:31 | Comments(0)
張鼓峰事件 他
9/2

●張鼓峰(ちょうこほう)事件とは
 1938年頃、中国では徐州作戦というのが始まって「麦と兵隊」という有名な歌が歌われまけれど、中国戦線の戦場が拡大していきました。
 そういう中でですね、日本の将軍と言うのは功を焦るのです。天皇から勲章をもらおう、中国の日本軍に負けまい、として関東軍がここで戦争を開始するのですね。
 それが張鼓峰事件です。  
 ノモンハン事件は、この事件の10か月後に起きています。

   0902_20130111190146.jpg


◆張鼓峰事件

◇張鼓峰事件 - Wikipedia - http://bit.ly/ZU3aXO

1938(S13)7.9 十数のソ連兵、張鼓峰上に現れ陣地工作始める

 7.14 参謀本部、外務省を通じてソ連に抗議
    
   ―モスクワでの日ソ交渉で、ソ連側は1886(M19)清朝と結んだ琿春界約
    (国境の画定)の付属の地図でソ連領と主張
    日本側の撤兵要求に応えず

   ―参謀本部内には対ソ武力行使を行いソ連の対日戦糸の有無をさぐる
    「威力偵察論」強まる

    ※参謀本部はソ連が戦争する気があるかどうか見極めるための
     仮の戦争という位置づけ
     ソ連が本格的に戦争する気なら、日本の南進はストップ

境界線

 7.20 板垣陸相、応急動員下令の裁可得られず
天皇
「元来、陸軍のやり方はけしからん。
 満州事変の柳条湖の場合といい
 盧溝橋のやり方といい、中央の命令に全く服しないで
 ただ出先の独断で朕の軍隊としてあるまじきような
 卑劣な方法を用いるようなことが、しばしばある。
 まことにけしからん話である。
 このたびそのようなことがあってはならん。
 今後は朕の命令なしには一兵たりも動かすことはならん」 
 (原田熊雄が内大臣秘書官長・松田康昌から7.21に聞いた話による)

   ↑
 ※今回は正しい判断をしているが、柳条湖事件の後で天皇は
  関東軍にお褒めの勅語を出していることを忘れてはならない

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昭和 | 14:00:22 | Comments(0)
7/22 第一次上海事変と川島芳子
7/22
◆川島芳子と第一次上海事変

  1932年満州事変が起こり、関東軍による占領地が拡大し
 満州国の独立計画が国際世論から激しい非難の声があがり
 国際連盟が日本軍の行為は許されないと言うようになって
 関東軍の参謀の板垣征四郎が満州から国際世論の怒りから
 目くらまししようと、満州から離れた上海で事件を起こして
 満州国の建設をすすめようとしたのが第一次上海事変です。

   7月22日

 国際的な港町で事件を起こせば各国の利権を守るのに注意が向いて
 満州国を騒ぎに乗じて独立させようと目論んだのです。
 上海で事件を起こすために使ったのが田中という公使館付きの武官。
 関東軍が現金2万円(アヘン政策で得た機密費)を渡しました。

 当時(昭和7年)の2万円の価値は大きく
 白米が10kで1円90銭。牛肉100匁3円27銭。
 高級背広が35円。幼稚園の保育料が年間33円。

 川島芳子(日本人の養女で清王朝の貴族の血を引く娘)に
 1万円を渡して工作させました。
 彼女が買収した中国人に日本人僧侶を襲わせて騒ぎを起こし
 それの報復で居留民の右翼が中国人を襲い上海事変となったのです。

 この時に川島にある程度の金を渡したのが鐘紡です。
 戦争は必ず軍と財界とが抱合せで、それを軍財抱合と言います。
 
 中国人を買収する計画に対して、本土では参謀本部の支那課長が
 積極的に支持していって、川島芳子が活躍するきっかけとなりました。

 粛親王と第四側妃の間に1907(M40)5.24に芳子は生まれ1913(T2)
 愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)
 1900年(M33)に発生した義和団事件で治安が乱れ、粛親王家も
 被害が生じた折り、鎮圧に赴いた日本軍司令部通訳だった
 川島家と出会い、二人の父親が親しくなるために
 2013年(T2)10.25に6歳で川島家の養女となりました。
 清王朝の復活を願う粛親王と、関東軍による満州国建設の願いと
 利害が一致した。
 粛親王は明治天皇を尊敬していた。

 『扶清滅洋』
  清朝を助けて西洋を討ち滅ぼす意。
  中国清末、欧米勢力の進出に反対して民族主義者が用いた標語。
  義和団のスローガンとなった。


 日本に来て豊島師付属小学校に入学すると幸田露伴が同級生。
 跡見高女に進学するが経済的な事情で1921年松本に引っ越して
 1924年10月6日に「永遠に女を清算する」と書き残す。

 1945(S20)11月反逆通数在(判決時)で逮捕され、1948年(S23) 3.25
 中国最高法院、北平分院の刑場で銃殺刑に処せられた(40歳)
 
 執行官の許可を得て「養父に手紙を」立ったまま書き
 再審の要求は却下されたことを告げられたのちに処刑された。
 係官によると、貴婦人のようにまゆ一つ動かさず、死んでいったという。
 


■ 川島芳子 資料

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昭和 | 03:12:11 | Comments(0)
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